何やら変な気持ちで、義務の様に読み始めまたが、難解な言葉は使用しているものの気にしなければ読解は意外と簡単?木田元先生の訳書なので購入しましたが、恩師の死去で中断した訳書を継続したものでした。生々しいその経過は興味津々で、恩師の訳に”朱”を入れざるを得なかったとか?でも、共訳の場合は責任者はやっぱり居るもので、訳語の統一・責任は責任者が負うものだとか。今回の責任者は木田先生が止む無く引き受ける形になったようです。
流石に数学から出発した?フッサールの書籍ですのでその方面の文言は出てきます。そんなに大した読者でも無いのに偉そうに書きますが、深読みはしません。”イデーン”の大著二冊は高価で重く買う気にもなりませんでしたが、今回はコーヒーでも飲みながらのんびりと読み続けるつもり。こんな読み方は失礼なのかもしれませんが。
それにしても、60年も経過した書籍とは思えないくらい綺麗で、安価でした。
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ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫 フ 10-1) 文庫 – 1995/6/1
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- 本の長さ553ページ
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日1995/6/1
- ISBN-104122023394
- ISBN-13978-4122023390
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登録情報
- 出版社 : 中央公論新社 (1995/6/1)
- 発売日 : 1995/6/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 553ページ
- ISBN-10 : 4122023394
- ISBN-13 : 978-4122023390
- Amazon 売れ筋ランキング: - 113,417位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 103位論理学・現象学
- - 128位ドイツ・オーストリアの思想
- - 728位中公文庫
- カスタマーレビュー:
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5 星
導きの光としての理性
1935年(76歳)ウィーンでの「ヨーロッパ的人間性の危機における哲学」と題した講演が基になっている。 この書物には第3部まで収められているが、5部構成で構想されていたことが、私設助手オイゲン・フィンクの文章(付録1に収録)から分かる。即ち、第1部「学問の危機」、第2部「物理学的客観主義と超越論的主観主義」、第3部「超越論的問題の解明と心理学」、第4部「諸科学と超越論的哲学」、第5部「人類の自己責任」(標題は省略している)である。なお、第2部に関連した草稿「幾何学の起源について」が付録2として掲載されている。 この講演が行われた20世紀前半と言えば、数学ではカントルが生み出した集合論を土台として位相空間論、群論、ルベーグ積分等が花開き、物理学では相対性理論、量子力学が登場し、情報科学では、チューリングが万能計算機械の論文を発表と、まさに「ヨーロッパ諸学」が光り輝いていた。「危機」という言葉は、あまりにもそぐわないし、ほとんど言いがかりのようにも聞こえる。 その言葉は、当時の時代を背景に置いてみる時、意味を持つように思う。1932年にはドイツ財界からの援助を受けた独裁を指導原理とするナチス党が第1党になっている。翌年には「非ドイツ的」書物が焼却される焚書事件が起こり、また内相に任じられたゲーリングがゲシュタポを設置している。1934年にはヒトラーは、大統領兼首相の地位、即ち総統の地位に就く。翌年(講演の年)には反ユダヤ主義のニュルンベルク法が発令され、1938年にはナチス党員と突撃隊員がユダヤ人を襲ったクリスタル・ナハト事件が起こる。 諸学はそもそもそのような動きが生まれるのを許してしまったし、また生まれたその動きを抑止することもできなかった。諸学は、あまりにも無力だったのだ。学問の無力さを、人々は痛感していたし、それ故、「諸学の危機」というフッサールの言葉にも耳を傾けもしたのだ、そう私は思う。 この書物は、フッサールの理性主義に対する強い決意表明で終る。この表明は、いささか唐突であるが(実際、編者のヴァルター・ビーメルが他の草稿のものを付け足したものだ)、心を動かされもする。フッサールは、終生敬虔な信仰を持ち続け、理性に従って生き、それを「人類の自己責任」として最後まで全うした。自らもユダヤ人として迫害され、ナチス政権の下、人々が自分から離れてゆき、孤独を強いられる中で、止むことなく理性への問いを問い続けた態度に対する時、私は頭が下る。
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2024年6月8日に日本でレビュー済み
ヘーゲルが精神現象学の精神は骨ではないと言って脳と精神の関係を述べている所と同じことをフッサールはこの本の中で言っています。
2015年8月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
哲学など現代においては無用な営為だ、と考えるような人たちにも是非読んでもらいたい書物、それがこの『危機』書である。ただフッサールの著作の中では入手しやすく且つ比較的読みやすくもあるし、文字通り彼の総決算でもあるが、何の事前知識なしではおそらく読めないし読む契機も普通ないであろうことは残念ではある。
本書の重要点はおそらく次の二点だろう。第一に、他のフッサール著作と異なり強く哲学史(デカルト以来)が意識されていること。哲学史を客観主義ー超越論主義の闘争として見て、最終的に彼自身の現象学に高められるという、ヘーゲルの『精神現象学』にも似た叙述になっている。彼の辿り着いた境位を思えば感動的でさえあるが、これは言い過ぎだろうか。そして第二に、心理学的還元と超越論的還元という2ステップが明確に描かれ(これにより悪しき主客だとか、物自体が廃される)、彼の認識哲学原理が究極的にまで洗練されることでデカルトから西洋哲学につきまとってきた二元論が最終的解決と解消をみている、と(少なくとも自分には)思えた。主観ー客観という二元論こそが、世界が幾何学的合理的にできているだとか、真理は向こう側(彼岸)に唯一的にあるだとか、科学こそが真の世界を告げ知らせるだとか、またそれらに対する反動として客観認識は不可能だとか、「現前の形而上学」批判だとか、科学は一種のイデオロギーだとか、そういう一連の思いなしを生み出した当のものであるのに、今もその考えは変わっていないのではないだろうか。彼の哲学はラディカルそのもので、客観信仰を止めさせるという点で、理性など塵のように打ち棄てるニーチェに極めて近い。思索の外観だけからすれば全く違うのにだ!
フッサールが最終的に至った超越論的自我は、言うなれば生活世界を認識し妥当を形成する心理学的自我をも見つめ構成し、どこにも定在を持たぬような自我。言ってみれば究極的にはここから世界を把握する。この把握が他者のそれと重なり合うことで謂わば真理が生まれる。ことに生活世界に共握の可能性があることには必然性がある。これが自分の現象学理解だ。
彼の哲学は未だに色褪せていないし、その真摯な学問態度には胸を打たれさえもする。「暗い時代」を生きて現象学を伝えてくれたフッサールに畏敬の念を持ってこの本を読み終えた。
本書の重要点はおそらく次の二点だろう。第一に、他のフッサール著作と異なり強く哲学史(デカルト以来)が意識されていること。哲学史を客観主義ー超越論主義の闘争として見て、最終的に彼自身の現象学に高められるという、ヘーゲルの『精神現象学』にも似た叙述になっている。彼の辿り着いた境位を思えば感動的でさえあるが、これは言い過ぎだろうか。そして第二に、心理学的還元と超越論的還元という2ステップが明確に描かれ(これにより悪しき主客だとか、物自体が廃される)、彼の認識哲学原理が究極的にまで洗練されることでデカルトから西洋哲学につきまとってきた二元論が最終的解決と解消をみている、と(少なくとも自分には)思えた。主観ー客観という二元論こそが、世界が幾何学的合理的にできているだとか、真理は向こう側(彼岸)に唯一的にあるだとか、科学こそが真の世界を告げ知らせるだとか、またそれらに対する反動として客観認識は不可能だとか、「現前の形而上学」批判だとか、科学は一種のイデオロギーだとか、そういう一連の思いなしを生み出した当のものであるのに、今もその考えは変わっていないのではないだろうか。彼の哲学はラディカルそのもので、客観信仰を止めさせるという点で、理性など塵のように打ち棄てるニーチェに極めて近い。思索の外観だけからすれば全く違うのにだ!
フッサールが最終的に至った超越論的自我は、言うなれば生活世界を認識し妥当を形成する心理学的自我をも見つめ構成し、どこにも定在を持たぬような自我。言ってみれば究極的にはここから世界を把握する。この把握が他者のそれと重なり合うことで謂わば真理が生まれる。ことに生活世界に共握の可能性があることには必然性がある。これが自分の現象学理解だ。
彼の哲学は未だに色褪せていないし、その真摯な学問態度には胸を打たれさえもする。「暗い時代」を生きて現象学を伝えてくれたフッサールに畏敬の念を持ってこの本を読み終えた。
2016年2月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現代における形而上学。
物自体は認識できないため、科学はすべて虚構だという。
科学をすべて主観的認識であるとして再構築しろという。
そんなことをする必要があるのかないのかわからない。
だから、こう名付けたい。
現代の形而上学。
物自体は認識できないため、科学はすべて虚構だという。
科学をすべて主観的認識であるとして再構築しろという。
そんなことをする必要があるのかないのかわからない。
だから、こう名付けたい。
現代の形而上学。
2024年5月5日に日本でレビュー済み
ヨーロッパ的人間の根本的な生活危機の表現としての学問の危機
近代における物理学的客観主義と超越論的主観主義との対立の起源の解明
超越論的問題の解明とそれに関連する心理学の機能。
近代における物理学的客観主義と超越論的主観主義との対立の起源の解明
超越論的問題の解明とそれに関連する心理学の機能。
2009年5月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
1935年(76歳)ウィーンでの「ヨーロッパ的人間性の危機における哲学」と題した講演が基になっている。
この書物には第3部まで収められているが、5部構成で構想されていたことが、私設助手オイゲン・フィンクの文章(付録1に収録)から分かる。即ち、第1部「学問の危機」、第2部「物理学的客観主義と超越論的主観主義」、第3部「超越論的問題の解明と心理学」、第4部「諸科学と超越論的哲学」、第5部「人類の自己責任」(標題は省略している)である。なお、第2部に関連した草稿「幾何学の起源について」が付録2として掲載されている。
この講演が行われた20世紀前半と言えば、数学ではカントルが生み出した集合論を土台として位相空間論、群論、ルベーグ積分等が花開き、物理学では相対性理論、量子力学が登場し、情報科学では、チューリングが万能計算機械の論文を発表と、まさに「ヨーロッパ諸学」が光り輝いていた。「危機」という言葉は、あまりにもそぐわないし、ほとんど言いがかりのようにも聞こえる。
その言葉は、当時の時代を背景に置いてみる時、意味を持つように思う。1932年にはドイツ財界からの援助を受けた独裁を指導原理とするナチス党が第1党になっている。翌年には「非ドイツ的」書物が焼却される焚書事件が起こり、また内相に任じられたゲーリングがゲシュタポを設置している。1934年にはヒトラーは、大統領兼首相の地位、即ち総統の地位に就く。翌年(講演の年)には反ユダヤ主義のニュルンベルク法が発令され、1938年にはナチス党員と突撃隊員がユダヤ人を襲ったクリスタル・ナハト事件が起こる。
諸学はそもそもそのような動きが生まれるのを許してしまったし、また生まれたその動きを抑止することもできなかった。諸学は、あまりにも無力だったのだ。学問の無力さを、人々は痛感していたし、それ故、「諸学の危機」というフッサールの言葉にも耳を傾けもしたのだ、そう私は思う。
この書物は、フッサールの理性主義に対する強い決意表明で終る。この表明は、いささか唐突であるが(実際、編者のヴァルター・ビーメルが他の草稿のものを付け足したものだ)、心を動かされもする。フッサールは、終生敬虔な信仰を持ち続け、理性に従って生き、それを「人類の自己責任」として最後まで全うした。自らもユダヤ人として迫害され、ナチス政権の下、人々が自分から離れてゆき、孤独を強いられる中で、止むことなく理性への問いを問い続けた態度に対する時、私は頭が下る。
この書物には第3部まで収められているが、5部構成で構想されていたことが、私設助手オイゲン・フィンクの文章(付録1に収録)から分かる。即ち、第1部「学問の危機」、第2部「物理学的客観主義と超越論的主観主義」、第3部「超越論的問題の解明と心理学」、第4部「諸科学と超越論的哲学」、第5部「人類の自己責任」(標題は省略している)である。なお、第2部に関連した草稿「幾何学の起源について」が付録2として掲載されている。
この講演が行われた20世紀前半と言えば、数学ではカントルが生み出した集合論を土台として位相空間論、群論、ルベーグ積分等が花開き、物理学では相対性理論、量子力学が登場し、情報科学では、チューリングが万能計算機械の論文を発表と、まさに「ヨーロッパ諸学」が光り輝いていた。「危機」という言葉は、あまりにもそぐわないし、ほとんど言いがかりのようにも聞こえる。
その言葉は、当時の時代を背景に置いてみる時、意味を持つように思う。1932年にはドイツ財界からの援助を受けた独裁を指導原理とするナチス党が第1党になっている。翌年には「非ドイツ的」書物が焼却される焚書事件が起こり、また内相に任じられたゲーリングがゲシュタポを設置している。1934年にはヒトラーは、大統領兼首相の地位、即ち総統の地位に就く。翌年(講演の年)には反ユダヤ主義のニュルンベルク法が発令され、1938年にはナチス党員と突撃隊員がユダヤ人を襲ったクリスタル・ナハト事件が起こる。
諸学はそもそもそのような動きが生まれるのを許してしまったし、また生まれたその動きを抑止することもできなかった。諸学は、あまりにも無力だったのだ。学問の無力さを、人々は痛感していたし、それ故、「諸学の危機」というフッサールの言葉にも耳を傾けもしたのだ、そう私は思う。
この書物は、フッサールの理性主義に対する強い決意表明で終る。この表明は、いささか唐突であるが(実際、編者のヴァルター・ビーメルが他の草稿のものを付け足したものだ)、心を動かされもする。フッサールは、終生敬虔な信仰を持ち続け、理性に従って生き、それを「人類の自己責任」として最後まで全うした。自らもユダヤ人として迫害され、ナチス政権の下、人々が自分から離れてゆき、孤独を強いられる中で、止むことなく理性への問いを問い続けた態度に対する時、私は頭が下る。
1935年(76歳)ウィーンでの「ヨーロッパ的人間性の危機における哲学」と題した講演が基になっている。
この書物には第3部まで収められているが、5部構成で構想されていたことが、私設助手オイゲン・フィンクの文章(付録1に収録)から分かる。即ち、第1部「学問の危機」、第2部「物理学的客観主義と超越論的主観主義」、第3部「超越論的問題の解明と心理学」、第4部「諸科学と超越論的哲学」、第5部「人類の自己責任」(標題は省略している)である。なお、第2部に関連した草稿「幾何学の起源について」が付録2として掲載されている。
この講演が行われた20世紀前半と言えば、数学ではカントルが生み出した集合論を土台として位相空間論、群論、ルベーグ積分等が花開き、物理学では相対性理論、量子力学が登場し、情報科学では、チューリングが万能計算機械の論文を発表と、まさに「ヨーロッパ諸学」が光り輝いていた。「危機」という言葉は、あまりにもそぐわないし、ほとんど言いがかりのようにも聞こえる。
その言葉は、当時の時代を背景に置いてみる時、意味を持つように思う。1932年にはドイツ財界からの援助を受けた独裁を指導原理とするナチス党が第1党になっている。翌年には「非ドイツ的」書物が焼却される焚書事件が起こり、また内相に任じられたゲーリングがゲシュタポを設置している。1934年にはヒトラーは、大統領兼首相の地位、即ち総統の地位に就く。翌年(講演の年)には反ユダヤ主義のニュルンベルク法が発令され、1938年にはナチス党員と突撃隊員がユダヤ人を襲ったクリスタル・ナハト事件が起こる。
諸学はそもそもそのような動きが生まれるのを許してしまったし、また生まれたその動きを抑止することもできなかった。諸学は、あまりにも無力だったのだ。学問の無力さを、人々は痛感していたし、それ故、「諸学の危機」というフッサールの言葉にも耳を傾けもしたのだ、そう私は思う。
この書物は、フッサールの理性主義に対する強い決意表明で終る。この表明は、いささか唐突であるが(実際、編者のヴァルター・ビーメルが他の草稿のものを付け足したものだ)、心を動かされもする。フッサールは、終生敬虔な信仰を持ち続け、理性に従って生き、それを「人類の自己責任」として最後まで全うした。自らもユダヤ人として迫害され、ナチス政権の下、人々が自分から離れてゆき、孤独を強いられる中で、止むことなく理性への問いを問い続けた態度に対する時、私は頭が下る。
この書物には第3部まで収められているが、5部構成で構想されていたことが、私設助手オイゲン・フィンクの文章(付録1に収録)から分かる。即ち、第1部「学問の危機」、第2部「物理学的客観主義と超越論的主観主義」、第3部「超越論的問題の解明と心理学」、第4部「諸科学と超越論的哲学」、第5部「人類の自己責任」(標題は省略している)である。なお、第2部に関連した草稿「幾何学の起源について」が付録2として掲載されている。
この講演が行われた20世紀前半と言えば、数学ではカントルが生み出した集合論を土台として位相空間論、群論、ルベーグ積分等が花開き、物理学では相対性理論、量子力学が登場し、情報科学では、チューリングが万能計算機械の論文を発表と、まさに「ヨーロッパ諸学」が光り輝いていた。「危機」という言葉は、あまりにもそぐわないし、ほとんど言いがかりのようにも聞こえる。
その言葉は、当時の時代を背景に置いてみる時、意味を持つように思う。1932年にはドイツ財界からの援助を受けた独裁を指導原理とするナチス党が第1党になっている。翌年には「非ドイツ的」書物が焼却される焚書事件が起こり、また内相に任じられたゲーリングがゲシュタポを設置している。1934年にはヒトラーは、大統領兼首相の地位、即ち総統の地位に就く。翌年(講演の年)には反ユダヤ主義のニュルンベルク法が発令され、1938年にはナチス党員と突撃隊員がユダヤ人を襲ったクリスタル・ナハト事件が起こる。
諸学はそもそもそのような動きが生まれるのを許してしまったし、また生まれたその動きを抑止することもできなかった。諸学は、あまりにも無力だったのだ。学問の無力さを、人々は痛感していたし、それ故、「諸学の危機」というフッサールの言葉にも耳を傾けもしたのだ、そう私は思う。
この書物は、フッサールの理性主義に対する強い決意表明で終る。この表明は、いささか唐突であるが(実際、編者のヴァルター・ビーメルが他の草稿のものを付け足したものだ)、心を動かされもする。フッサールは、終生敬虔な信仰を持ち続け、理性に従って生き、それを「人類の自己責任」として最後まで全うした。自らもユダヤ人として迫害され、ナチス政権の下、人々が自分から離れてゆき、孤独を強いられる中で、止むことなく理性への問いを問い続けた態度に対する時、私は頭が下る。
このレビューの画像
2017年2月22日に日本でレビュー済み
Husserlの問題意識は分かるような気がするのですが、その先を評価する能力は私にはありません。むしろ私はこのHusserl思想の集大成というべき書物を、あわてず、騒がず、わかりやすく日本語にしてくださった両哲学者に心からの尊敬をささげたいと思います。