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七十人訳ギリシア語聖書 モーセ五書 (講談社学術文庫) 文庫 – 2017/11/11

4.2 5つ星のうち4.2 26個の評価

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前三世紀頃、アレクサンドリアの七十二人のユダヤ人長老たちがヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳しはじめた。この通称「七十人訳」こそ、現存する最古の体系的な聖書であり「イエス時代の聖書」である。本書では当時の聖書解釈までを含めて翻訳・注解、ヘブライ語版との相違も明示する。歴史、哲学、文学、美術……すべてに通底する西洋文明の基礎文献。


紀元前3世紀頃、ギリシアが強大な力を持っていたヘレニズム時代。アレクサンドリア(エジプト)の七十二人のユダヤ人長老たちがヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳しはじめたという。この通称「七十人訳(しちじゅうにんやく)」が、新興宗教の一つでしかなかったキリスト教を地中海世界に広め、その後の世界宗教としての展開を決定づけることになる――。
現存する最古の体系的聖書であり、イエスの時代に普及していた七十人訳。本書では、死海写本や史書とも照らしつつ、当時の聖書解釈までを含めて翻訳・注解する。
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商品の説明

著者について

秦 剛平
秦剛平(はた ごうへい)
1942年生まれ。国際基督教大学卒、京都大学大学院、ドロプシー大学大学院修了。ユダヤ教学博士。多摩美術大学名誉教授。オックスフォード大学およびケンブリッジ大学フェロー終身会員、イェール大学大学院客員研究員。本邦初訳となる『七十人訳ギリシア語聖書』からは、本書のほか、『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』『十二小預言書』を訳出、刊行し話題を集める。著書に『旧約聖書を美術で読む』『新約聖書を美術で読む』『反ユダヤ主義を美術で読む』など、その他の訳書に、ヨセフス『ユダヤ古代誌』『ユダヤ戦記』ほか多数。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 講談社 (2017/11/11)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2017/11/11
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 1200ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 406292465X
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062924658
  • 寸法 ‏ : ‎ 10.8 x 4.6 x 14.8 cm
  • カスタマーレビュー:
    4.2 5つ星のうち4.2 26個の評価

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秦 剛平
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ギリシャ語原文から更に意訳
1 星
ギリシャ語原文から更に意訳
現代の旧約聖書は現存するヘブライ語で書かれたレニングラード写本(AD11th)から翻訳されている。これには母音記号や文の区切りだけでなく、単語間の相互関係記号も振られているマソラ本文と言われるものだ。 だがこれを別の音や区切り方をすると違った意味になる。七十人訳ギリシャ語聖書(BC3rd)とラテン語聖書(AD4th)は、このマソラ本文で使われている母音記号や単語間の相互関係記号が発明される以前のヘブライ語原文からの訳で、マソラ本文とは違った読みや、違った単語間相互関係がみられる聖書である。 残念ながら反ユダヤ主義がキリスト教からユダヤ的要素を排除しようとする際に使用するのが本書「七十人訳ギリシヤ語聖書」である。本書の訳者のように、最も古くユダヤ人よりも正しい聖書であるかのような説明をする傾向があり、実態は真の反ユダヤ主義であるので注意が必要である。またそういう方はエウセビウス「教会史」などを翻訳して批判的な注釈をしたがり、マタイ福音書はギリシャ語ではなくてヘブライ語で書かれたという記録が各所に出てくると、キリスト教内のユダヤ的な要素を排除するために否定する注を入れたり、聖ヒエロニムスが七十人訳ギリシャ語聖書を全否定しヘブライ語聖書からユダヤ的な意味で翻訳しなおすと、本書の日本語訳者のように逆に聖ヒエロニムスに反ユダヤという濡れ衣を着せたりする傾向にある。これがキリスト教内で猛威を振るった反ユダヤ主義の傾向である。これが本当のキリスト教内における反ユダヤ主義の問題で、ヨハネパウロ二世やラッツィンガー枢機卿(現ベネディクト16世名誉教皇)が、第二バチカン公会議で解決しようとした課題である。その為、本書の日本語訳者はエウセビウス「教会史」の冒頭の説明などで、反ユダヤ主義を撲滅しようとしたベネディクト16世教皇や聖ヒエロニムスを反ユダヤとして根拠もなく批判を行っている。キリスト教会内の反ユダヤ主義は非常に根深く巧妙になっていることが分かるだろう。こうしたことがなくならないと真の意味で反ユダヤ主義は無くならない。■七十人訳ギリシャ語聖書の時代背景 七十人訳ギリシャ語聖書は「ユダヤ人を保護する目的で作られた聖書」ではあるが、本来は「ユダヤ教徒向けに作られたギリシャ語聖書」ではない。そこに訳者のちょっとした勘違いがある。紀元前3世紀のエジプト王のプトレマイオス2世が、二つの対抗する学派に対してエジプト史に関する書の編纂を命じている。一つがエジプト神官系学派のマネトーン、もう一つが離散イスラエル系の学派、それが七十人訳ギリシャ語聖書の翻訳者である。 エジプト人神官のマネトーンは創世記のヤコブ(イスラエル)のエジプトへの移民時代から出エジプト記のモーセの時代について、「イスラエルとヒクソス混合軍が下エジプトを侵略(BC13th)し、下エジプト(ゴシェン地方)にヒクソス王朝を立てエジプト人を弾圧した」という内容をエジプト史に記録した。これに対してプトレマイオス2世がアレクサンドリアに住む離散イスラエル系学派側に反論の機会を与えたのが「七十人訳ギリシャ語聖書」本書である。ユダヤ人向けに翻訳された聖書ではなく、政治的な弁明の意図により翻訳された書であることは理解しておく必要がある。いわゆる昨今流行りの「スコポス理論」で目的に合った意訳を最大限に行ったのである。これによりダブルスタンダードが発生した。ヘブライ語原文との違いは主に、ユダヤ人に対するヘレニズム社会からの印象を良くする翻訳傾向がある点である。特に論敵マネトーンと意見が対立する出エジプト記に関して、ヘブライ語聖書原文と「七十人訳ギリシャ語聖書」の意味の取り方に差が目立つ傾向にある。その激論が詳しく書かれたのはヨセフス著「アピオーンへの反論」(AD1st)である。訳者も翻訳本を出されていているが、それについて「アピオーンへの反論」でも、本書「七十人訳ギリシア語聖書」でも全く経緯が解説されていない。逆に他の方が本書の翻訳し、注を書いた場合は、真っ先にそれに触れるだろう。訳者はこのように非常に巧妙、なつもりであるが、我々読者が気付かないわけがないのである。 例えば出エジプト記34:29~30でモーセの顔がアポロンのようにテカテカに光ったと翻訳してまったのは、いかにもギリシャ風で、多少、やりすぎ感が否めない。全くヘブライ的ではないのである。(というか顔だけが光るのも滑稽である) 本書では「自分の顔が栄光に輝いていた」とギリシャ語を訳しているが、ギリシャ語の直訳は「自分の顔の色の様子が栄誉となる」であり、実は「輝く」はギリシャ語からの訳の場合も補訳である。ヘブライ語原文は「自分の顔の皮膚に角が出ていた」である。ギリシャ語では原典のヘブライ語にはある「皮膚」という単語もどこかに行ってしまっている。 通常ヘブライ語の「כבד(Kabed)」(重んじる)が「栄光」と訳されるが、この個所ではヘブライ語原文では「קָרַן( Karan)」、つまり「角が出る」となっていることは有名である。つまり通常のヘブライ語の「栄光」という単語は全く使われていない。もしここがヘブライ語の栄光「כבד(Kabed)」(重んじる)であれば、本書「七十人訳ギリシア語聖書」にある通り「δοξαζω(doxazo)」(思考・意見・判断する)という知覚に関するギリシャ語で訳されてよい。いわゆる英語での"glory"、ラテン語での"gloria"である。だがラテン語も本来「知れ渡る」と言う知覚に関する語であり、本書にあるような日本語の「栄光」?とも実はニュアンスは違う。 このヘブライ語聖書原文で「קָרַן( Karan)」(角が出る)の使用箇所(約100個所)の訳に、このギリシャ語「δοξαζω(doxazo)」(知れ渡る、栄光)の訳を適用するのは、実は七十人訳ギリシャ語聖書でも「この個所だけ」であり、明らかにギリシャ語訳の際の意訳である。「קָרַן( Karan)」自体に実は「輝く」や「光る」と言う意味は元々ない。今でこそ「栄光に輝く」?となっているが、ではどこから「輝き」が来たのかという事になる。本書「七十人訳ギリシヤ語聖書」の訳を見るとヘブライ語原文にはある「עוֹר(オール)」(肌)」という単語の訳語が見当たらないのが分かる。ヘブライ語聖書を見てみるとヘブライ語の「עוֹר(オール)」は「肌」であるが、本書「七十人訳ギリシヤ語聖書」はそこを同音異義語の「אור(オール)」「光」と解し、これにより「光」を ἡ ὄψις ῦ χρώματος(色の見た目)と最大限の意訳をしていることが分かる。本書の日本語訳も「肌」と訳さずに「光」に関係した訳になっていることで確認できるだろう。だが、本書の日本語訳では誤魔化されて「色の見た目」という長いギリシャ語が訳されていない。明らかにギリシャ語は意訳であると分かるからである。これはよろしくない。 本来はヘブライ語「肌(オール)に角が出る」を「光(オール)に角が出る」と書かれてあると曲解し、これをまとめて「栄光に輝く(直訳は色の様子が栄誉となる)」との意訳したのがギリシャ語七十人訳聖書である。つまり実際には「קָרַן( Karan)」自体は「角」と認識されたが、「עוֹר(オール)」(肌)を「אור(オール)」(光)と意訳した。ここまで来ると誤訳にもほどがあることが分かる。それが七十人訳ギリシャ語聖書である。だが誤訳というよりはヘレニズム社会に迎合するための意図的な涙ぐましい「努力」だったと言える。 問題なのは昨今の日本語訳の聖書では、七十人訳ギリシャ語聖書の中途半端な理解に基づき、「קָרַן( Karan)」(角が出る)単独で「輝く」という意味にしてしまい、やめとけばいいのに、無理に現代ではマソラ本文から訳すものだから、更に「肌」という単語がもう一度訳されてしまい、顔の「肌(オール)」が「光(オール)」を放っていた的に、実は「オール」がだぶって訳されている始末である。だがこれは言語学的には大変興味深い現象で面白い。 余談ではあるので聞き流していただきたいのだが、モーセの顔の皮膚に「角」が出るということはどういうことかであるかだが、「顔から角がでる」とか「頭から角が出る」のではなく、顔の「皮膚に角が出る」と原文のヘブライ語では書かれてある。微視的な皮膚の状態をとらえて書かれてある。例えば直射日光の強い地域の高齢者の顔の皮膚や、高山で生活する高齢者の顔の皮膚は、日光性「角化」症や老人性「角化」症になることは珍しくない。日本にもある通常の皮膚病の一種でもあり、モーセの年齢、直射日光の強いエジプトの荒れ地を旅する生活、紫外線の強い高山での生活などを考慮すると、「顔がテカる」や「顔が栄光に輝く」よりは、聖ヒエロニムスのラテン語訳「顔の皮膚に角が出る」(直訳)の方がヘブライ的で、荒れ地を旅する苦労を物語る、まともな訳に見えるが如何だろうか。因みに「長老たち」は恐れて近づかなかったとある。他の皮膚病の時と同じ記述である。例えばこの角化が、角化型疥癬により引き起こされた場合には外観は似ているが、原因はダニなので感染する。老人介護施設では注意が必要な感染症で、皮膚の角質が増殖して「角化」する症状は外観上似ている。当時のエジプトの神官はこのダニを不浄として頭髪を常に剃っていたほどである。 本書の訳者が嫌っている聖ヒエロニムスが訳したラテン語聖書は、そこをヘブライ語の意味で正しく翻訳している。実は聖ヒエロニムスが正しい。彼はユダヤのラビを師として翻訳を進めるために旧都ベツレヘムに移り住んだ。読者は本当の反ユダヤ主義は誰かを見極めないといけない。
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上位レビュー、対象国: 日本

2017年12月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
 腰巻に書かれているまでもなく、まさに「待望の文庫化」!と言っていい。まずは講談社学術文庫に感謝!感謝!

 西洋絵画を理解するなら宗教画っていうことで、秦剛平先生の「旧約&新約聖書を美術で読む」「反ユダヤ主義を美術で読む」等々からはいっていって、この先生の文章力にはまってしまった。さらに種々の聖書解説書を読むにつけ、その都度、聖書読むなら「七十人訳ギリシャ語聖書」、同じ読むならこれ。これを読まなきゃソンソン!って感じで言ってこられていたので、いつかはと思っていたところなので、この文庫化はなかなかにうれしい。

 秦センセの書いたものを読んだことがない読者は、「はしがき」「あとがきに代えて」を読んだだけで、ぶっ飛んでしまうかもしれない。それほど、ラディカル、だから愉快。「モーゼ五書」の作者とされているモーゼそのものの存在までを疑ってるっていうことからして愉快…そういうセンセなので、推して知るべし。
 
 本書にはいくらかの図版もついているけど、分厚い。ごつい。でも内容を考えると、この値段はリーズナブル。秦センセいわく、これまでの旧約聖書との違いに遭遇して、素っ頓狂な声を上げるその瞬間に知的好奇心にもとづく心理への探求が始まる!っていうことなんだな。

(PS)(創世記第38章)息子エルの妻タマルを娼婦と思った義父のユダ「おまえとやらせてくれないか」と断固低俗なレベルで翻訳した秦センセ! 一般的な新共同訳では「おまえの所に入らせてくれ」なんだけど、これも結構やらしいけどね 
 本文全文を目を通してみたけど、”モーセ五書”のうち、最後の書“申命記”のこれまた最後、第34章が、なんとこの五書の著者とされているモーセの死で締めくくられている!っていうのが、なんとも面白い。
 (P.S. ) 全部読み終わった者の感想からすれば、次はぜひとも同じ秦先生の翻訳になる「イザヤ書」「エレミア書」「エゼキエル書」「十二小預言集」の文庫版も、ぜひぜひ出してもらいたいということだ。
38人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2020年4月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
新たな発見もありとても良いと思います。毎日読ませていただいています。聖書を読み解くための必要な書だと思います。
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2018年10月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
訳者の秦剛平氏の「はしがき」と「あとがき」が痛快かつ挑発的で、個人的には大ウケでした。
これだけの膨大な語学的、文化的、歴史的、聖書的知識を有しながら、あまりにも明らかすぎるゆえ誰も口に出来ない問題点をズパっと言ってのけてしまうところが草。
ともかく本書は聖書を深く理解して行こうと努める方々にとってはこの上なく貴重で、かつ有難い本です。
20人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2017年12月28日に日本でレビュー済み
まさか七十人訳聖書の邦訳を文庫で読める日が来るとは…感無量である。
訳者は、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』の邦訳などでも知られる著名なユダヤ教学博士、秦剛平氏。

日本の一般読者が聖書を読もうと思ったとき、手にするのは大体が新共同訳聖書であろうが、そのうちの旧約聖書は通称「マソラ・テクスト」と呼ばれるヘブライ語写本が主な底本となっている。
もともと、ユダヤ教の側は紀元後1世紀後半の「ヤムニア決定」で、ヘブライ語聖書の三十九文書をユダヤ教の正式な聖典であることを決定していた。
そしてキリスト教プロテスタントの側は、宗教改革の時代に上記ヘブライ語の三十九文書のみを旧約の正典とし(それ以外の文書は外典)、カトリック側は1546年のトレント公会議で同じく三十九文書を旧約の第一正典、更に十一の文書を第二正典とした経緯がある。
キリスト教側もヘブライ語聖書を正典とみなした以上、新共同訳にあたってヘブライ語の写本が底本にされたのも至極自然なことのように思えるだろう。
しかし、問題がひとつある。
「マソラ・テクスト」は11世紀初頭に成立したヘブライ語写本であり、それ以上に古いヘブライ語写本には遡ることができず(かつては存在したはずの写本が現存しておらず)、その内容の正確性が十分に保証されていないのだ。ユダヤ教そのものは遥か紀元前から存在する宗教であるにもかかわらず、である。

一方で、旧約聖書にはギリシア語写本も存在する。
(ユダヤ教から派生した)キリスト教は、主に「(当時の公用語・共通語である)ギリシア語を話すユダヤ人」たちによって宣教されたため、新約聖書は最初からギリシア語で書かれたし、その流れで旧約聖書のギリシア語訳も特に尊重されることになった。
その中で最も大きな役割を果たしたのが、紀元前3世紀、当時のヘレニズム国家であるプトレマイオス朝エジプトで成立した最古のギリシア語訳聖書である「七十人訳」である。
したがって七十人訳聖書は学問の世界で非常に長い歴史と伝統を有しており、新約聖書での旧約部分の引用も七十人訳によっている。
後代の校訂・テキストクリティークでも可能なかぎり原典に遡る努力がされており、文献学的にはヘブライ語写本よりずっと古い形態を保存していると考えられているのである。
したがって、旧約聖書に学問的にアプローチするには、七十人訳は欠かせない存在なのだ。

本書末尾の「あとがきに代えて」を読めば一目瞭然なのだが、訳者である秦氏は完全にキリスト教会の埒外の人である。
それどころか、教条的な聖書理解に対して一切容赦のない、苛烈な姿勢を堅持している人である。要するに学究の人である。
そのような人物の手になる本訳書は、およそ1200ページという圧巻のボリュームの中、400ページ超が注に割かれている。
訳に関する補足的説明の他、ギリシア語写本とヘブライ語写本で差異がある箇所についてはヘブライ語写本ではどう書かれているかまで、逐一紹介されている。私のような一般読者には非常に嬉しい配慮である。
また、七十人訳写本に付されている図版(挿絵)も(白黒だが)添付されている。昔の画なのであまり上手いとは思えないが、文化遺産としては興味をそそられるところだ。

とにかく、(訳者への感謝は当然として)このような充実した邦訳を新共同訳聖書と同じくらいのサイズの文庫で出版してくださった講談社には感謝しきりである。
本書には「モーセ五書」と呼ばれる「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」しか含まれていない。
版権の関係で難しいかもしれないが、旧約聖書後半の預言書群も是非文庫化してもらいたいものである。お願いします!

なお、繰り返すが本書は1200ページという大部な書物である。
省スペースや語句検索なども考えると、kindle版を選択するのも一考の価値があると思う。
84人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2022年11月19日に日本でレビュー済み
現代の旧約聖書は現存するヘブライ語で書かれたレニングラード写本(AD11th)から翻訳されている。これには母音記号や文の区切りだけでなく、単語間の相互関係記号も振られているマソラ本文と言われるものだ。

 だがこれを別の音や区切り方をすると違った意味になる。七十人訳ギリシャ語聖書(BC3rd)とラテン語聖書(AD4th)は、このマソラ本文で使われている母音記号や単語間の相互関係記号が発明される以前のヘブライ語原文からの訳で、マソラ本文とは違った読みや、違った単語間相互関係がみられる聖書である。

 残念ながら反ユダヤ主義がキリスト教からユダヤ的要素を排除しようとする際に使用するのが本書「七十人訳ギリシヤ語聖書」である。本書の訳者のように、最も古くユダヤ人よりも正しい聖書であるかのような説明をする傾向があり、実態は真の反ユダヤ主義であるので注意が必要である。またそういう方はエウセビウス「教会史」などを翻訳して批判的な注釈をしたがり、マタイ福音書はギリシャ語ではなくてヘブライ語で書かれたという記録が各所に出てくると、キリスト教内のユダヤ的な要素を排除するために否定する注を入れたり、聖ヒエロニムスが七十人訳ギリシャ語聖書を全否定しヘブライ語聖書からユダヤ的な意味で翻訳しなおすと、本書の日本語訳者のように逆に聖ヒエロニムスに反ユダヤという濡れ衣を着せたりする傾向にある。これがキリスト教内で猛威を振るった反ユダヤ主義の傾向である。これが本当のキリスト教内における反ユダヤ主義の問題で、ヨハネパウロ二世やラッツィンガー枢機卿(現ベネディクト16世名誉教皇)が、第二バチカン公会議で解決しようとした課題である。その為、本書の日本語訳者はエウセビウス「教会史」の冒頭の説明などで、反ユダヤ主義を撲滅しようとしたベネディクト16世教皇や聖ヒエロニムスを反ユダヤとして根拠もなく批判を行っている。キリスト教会内の反ユダヤ主義は非常に根深く巧妙になっていることが分かるだろう。こうしたことがなくならないと真の意味で反ユダヤ主義は無くならない。

■七十人訳ギリシャ語聖書の時代背景
 七十人訳ギリシャ語聖書は「ユダヤ人を保護する目的で作られた聖書」ではあるが、本来は「ユダヤ教徒向けに作られたギリシャ語聖書」ではない。そこに訳者のちょっとした勘違いがある。紀元前3世紀のエジプト王のプトレマイオス2世が、二つの対抗する学派に対してエジプト史に関する書の編纂を命じている。一つがエジプト神官系学派のマネトーン、もう一つが離散イスラエル系の学派、それが七十人訳ギリシャ語聖書の翻訳者である。

 エジプト人神官のマネトーンは創世記のヤコブ(イスラエル)のエジプトへの移民時代から出エジプト記のモーセの時代について、「イスラエルとヒクソス混合軍が下エジプトを侵略(BC13th)し、下エジプト(ゴシェン地方)にヒクソス王朝を立てエジプト人を弾圧した」という内容をエジプト史に記録した。これに対してプトレマイオス2世がアレクサンドリアに住む離散イスラエル系学派側に反論の機会を与えたのが「七十人訳ギリシャ語聖書」本書である。ユダヤ人向けに翻訳された聖書ではなく、政治的な弁明の意図により翻訳された書であることは理解しておく必要がある。いわゆる昨今流行りの「スコポス理論」で目的に合った意訳を最大限に行ったのである。これによりダブルスタンダードが発生した。ヘブライ語原文との違いは主に、ユダヤ人に対するヘレニズム社会からの印象を良くする翻訳傾向がある点である。特に論敵マネトーンと意見が対立する出エジプト記に関して、ヘブライ語聖書原文と「七十人訳ギリシャ語聖書」の意味の取り方に差が目立つ傾向にある。その激論が詳しく書かれたのはヨセフス著「アピオーンへの反論」(AD1st)である。訳者も翻訳本を出されていているが、それについて「アピオーンへの反論」でも、本書「七十人訳ギリシア語聖書」でも全く経緯が解説されていない。逆に他の方が本書の翻訳し、注を書いた場合は、真っ先にそれに触れるだろう。訳者はこのように非常に巧妙、なつもりであるが、我々読者が気付かないわけがないのである。

 例えば出エジプト記34:29~30でモーセの顔がアポロンのようにテカテカに光ったと翻訳してまったのは、いかにもギリシャ風で、多少、やりすぎ感が否めない。全くヘブライ的ではないのである。(というか顔だけが光るのも滑稽である)

 本書では「自分の顔が栄光に輝いていた」とギリシャ語を訳しているが、ギリシャ語の直訳は「自分の顔の色の様子が栄誉となる」であり、実は「輝く」はギリシャ語からの訳の場合も補訳である。ヘブライ語原文は「自分の顔の皮膚に角が出ていた」である。ギリシャ語では原典のヘブライ語にはある「皮膚」という単語もどこかに行ってしまっている。

 通常ヘブライ語の「כבד(Kabed)」(重んじる)が「栄光」と訳されるが、この個所ではヘブライ語原文では「קָרַן( Karan)」、つまり「角が出る」となっていることは有名である。つまり通常のヘブライ語の「栄光」という単語は全く使われていない。もしここがヘブライ語の栄光「כבד(Kabed)」(重んじる)であれば、本書「七十人訳ギリシア語聖書」にある通り「δοξαζω(doxazo)」(思考・意見・判断する)という知覚に関するギリシャ語で訳されてよい。いわゆる英語での"glory"、ラテン語での"gloria"である。だがラテン語も本来「知れ渡る」と言う知覚に関する語であり、本書にあるような日本語の「栄光」?とも実はニュアンスは違う。

 このヘブライ語聖書原文で「קָרַן( Karan)」(角が出る)の使用箇所(約100個所)の訳に、このギリシャ語「δοξαζω(doxazo)」(知れ渡る、栄光)の訳を適用するのは、実は七十人訳ギリシャ語聖書でも「この個所だけ」であり、明らかにギリシャ語訳の際の意訳である。「קָרַן( Karan)」自体に実は「輝く」や「光る」と言う意味は元々ない。今でこそ「栄光に輝く」?となっているが、ではどこから「輝き」が来たのかという事になる。本書「七十人訳ギリシヤ語聖書」の訳を見るとヘブライ語原文にはある「עוֹר(オール)」(肌)」という単語の訳語が見当たらないのが分かる。ヘブライ語聖書を見てみるとヘブライ語の「עוֹר(オール)」は「肌」であるが、本書「七十人訳ギリシヤ語聖書」はそこを同音異義語の「אור(オール)」「光」と解し、これにより「光」を ἡ ὄψις ῦ χρώματος(色の見た目)と最大限の意訳をしていることが分かる。本書の日本語訳も「肌」と訳さずに「光」に関係した訳になっていることで確認できるだろう。だが、本書の日本語訳では誤魔化されて「色の見た目」という長いギリシャ語が訳されていない。明らかにギリシャ語は意訳であると分かるからである。これはよろしくない。

 本来はヘブライ語「肌(オール)に角が出る」を「光(オール)に角が出る」と書かれてあると曲解し、これをまとめて「栄光に輝く(直訳は色の様子が栄誉となる)」との意訳したのがギリシャ語七十人訳聖書である。つまり実際には「קָרַן( Karan)」自体は「角」と認識されたが、「עוֹר(オール)」(肌)を「אור(オール)」(光)と意訳した。ここまで来ると誤訳にもほどがあることが分かる。それが七十人訳ギリシャ語聖書である。だが誤訳というよりはヘレニズム社会に迎合するための意図的な涙ぐましい「努力」だったと言える。

 問題なのは昨今の日本語訳の聖書では、七十人訳ギリシャ語聖書の中途半端な理解に基づき、「קָרַן( Karan)」(角が出る)単独で「輝く」という意味にしてしまい、やめとけばいいのに、無理に現代ではマソラ本文から訳すものだから、更に「肌」という単語がもう一度訳されてしまい、顔の「肌(オール)」が「光(オール)」を放っていた的に、実は「オール」がだぶって訳されている始末である。だがこれは言語学的には大変興味深い現象で面白い。

 余談ではあるので聞き流していただきたいのだが、モーセの顔の皮膚に「角」が出るということはどういうことかであるかだが、「顔から角がでる」とか「頭から角が出る」のではなく、顔の「皮膚に角が出る」と原文のヘブライ語では書かれてある。微視的な皮膚の状態をとらえて書かれてある。例えば直射日光の強い地域の高齢者の顔の皮膚や、高山で生活する高齢者の顔の皮膚は、日光性「角化」症や老人性「角化」症になることは珍しくない。日本にもある通常の皮膚病の一種でもあり、モーセの年齢、直射日光の強いエジプトの荒れ地を旅する生活、紫外線の強い高山での生活などを考慮すると、「顔がテカる」や「顔が栄光に輝く」よりは、聖ヒエロニムスのラテン語訳「顔の皮膚に角が出る」(直訳)の方がヘブライ的で、荒れ地を旅する苦労を物語る、まともな訳に見えるが如何だろうか。因みに「長老たち」は恐れて近づかなかったとある。他の皮膚病の時と同じ記述である。例えばこの角化が、角化型疥癬により引き起こされた場合には外観は似ているが、原因はダニなので感染する。老人介護施設では注意が必要な感染症で、皮膚の角質が増殖して「角化」する症状は外観上似ている。当時のエジプトの神官はこのダニを不浄として頭髪を常に剃っていたほどである。

 本書の訳者が嫌っている聖ヒエロニムスが訳したラテン語聖書は、そこをヘブライ語の意味で正しく翻訳している。実は聖ヒエロニムスが正しい。彼はユダヤのラビを師として翻訳を進めるために旧都ベツレヘムに移り住んだ。読者は本当の反ユダヤ主義は誰かを見極めないといけない。
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5つ星のうち1.0 ギリシャ語原文から更に意訳
2022年11月19日に日本でレビュー済み
現代の旧約聖書は現存するヘブライ語で書かれたレニングラード写本(AD11th)から翻訳されている。これには母音記号や文の区切りだけでなく、単語間の相互関係記号も振られているマソラ本文と言われるものだ。

 だがこれを別の音や区切り方をすると違った意味になる。七十人訳ギリシャ語聖書(BC3rd)とラテン語聖書(AD4th)は、このマソラ本文で使われている母音記号や単語間の相互関係記号が発明される以前のヘブライ語原文からの訳で、マソラ本文とは違った読みや、違った単語間相互関係がみられる聖書である。

 残念ながら反ユダヤ主義がキリスト教からユダヤ的要素を排除しようとする際に使用するのが本書「七十人訳ギリシヤ語聖書」である。本書の訳者のように、最も古くユダヤ人よりも正しい聖書であるかのような説明をする傾向があり、実態は真の反ユダヤ主義であるので注意が必要である。またそういう方はエウセビウス「教会史」などを翻訳して批判的な注釈をしたがり、マタイ福音書はギリシャ語ではなくてヘブライ語で書かれたという記録が各所に出てくると、キリスト教内のユダヤ的な要素を排除するために否定する注を入れたり、聖ヒエロニムスが七十人訳ギリシャ語聖書を全否定しヘブライ語聖書からユダヤ的な意味で翻訳しなおすと、本書の日本語訳者のように逆に聖ヒエロニムスに反ユダヤという濡れ衣を着せたりする傾向にある。これがキリスト教内で猛威を振るった反ユダヤ主義の傾向である。これが本当のキリスト教内における反ユダヤ主義の問題で、ヨハネパウロ二世やラッツィンガー枢機卿(現ベネディクト16世名誉教皇)が、第二バチカン公会議で解決しようとした課題である。その為、本書の日本語訳者はエウセビウス「教会史」の冒頭の説明などで、反ユダヤ主義を撲滅しようとしたベネディクト16世教皇や聖ヒエロニムスを反ユダヤとして根拠もなく批判を行っている。キリスト教会内の反ユダヤ主義は非常に根深く巧妙になっていることが分かるだろう。こうしたことがなくならないと真の意味で反ユダヤ主義は無くならない。

■七十人訳ギリシャ語聖書の時代背景
 七十人訳ギリシャ語聖書は「ユダヤ人を保護する目的で作られた聖書」ではあるが、本来は「ユダヤ教徒向けに作られたギリシャ語聖書」ではない。そこに訳者のちょっとした勘違いがある。紀元前3世紀のエジプト王のプトレマイオス2世が、二つの対抗する学派に対してエジプト史に関する書の編纂を命じている。一つがエジプト神官系学派のマネトーン、もう一つが離散イスラエル系の学派、それが七十人訳ギリシャ語聖書の翻訳者である。

 エジプト人神官のマネトーンは創世記のヤコブ(イスラエル)のエジプトへの移民時代から出エジプト記のモーセの時代について、「イスラエルとヒクソス混合軍が下エジプトを侵略(BC13th)し、下エジプト(ゴシェン地方)にヒクソス王朝を立てエジプト人を弾圧した」という内容をエジプト史に記録した。これに対してプトレマイオス2世がアレクサンドリアに住む離散イスラエル系学派側に反論の機会を与えたのが「七十人訳ギリシャ語聖書」本書である。ユダヤ人向けに翻訳された聖書ではなく、政治的な弁明の意図により翻訳された書であることは理解しておく必要がある。いわゆる昨今流行りの「スコポス理論」で目的に合った意訳を最大限に行ったのである。これによりダブルスタンダードが発生した。ヘブライ語原文との違いは主に、ユダヤ人に対するヘレニズム社会からの印象を良くする翻訳傾向がある点である。特に論敵マネトーンと意見が対立する出エジプト記に関して、ヘブライ語聖書原文と「七十人訳ギリシャ語聖書」の意味の取り方に差が目立つ傾向にある。その激論が詳しく書かれたのはヨセフス著「アピオーンへの反論」(AD1st)である。訳者も翻訳本を出されていているが、それについて「アピオーンへの反論」でも、本書「七十人訳ギリシア語聖書」でも全く経緯が解説されていない。逆に他の方が本書の翻訳し、注を書いた場合は、真っ先にそれに触れるだろう。訳者はこのように非常に巧妙、なつもりであるが、我々読者が気付かないわけがないのである。

 例えば出エジプト記34:29~30でモーセの顔がアポロンのようにテカテカに光ったと翻訳してまったのは、いかにもギリシャ風で、多少、やりすぎ感が否めない。全くヘブライ的ではないのである。(というか顔だけが光るのも滑稽である)

 本書では「自分の顔が栄光に輝いていた」とギリシャ語を訳しているが、ギリシャ語の直訳は「自分の顔の色の様子が栄誉となる」であり、実は「輝く」はギリシャ語からの訳の場合も補訳である。ヘブライ語原文は「自分の顔の皮膚に角が出ていた」である。ギリシャ語では原典のヘブライ語にはある「皮膚」という単語もどこかに行ってしまっている。

 通常ヘブライ語の「כבד(Kabed)」(重んじる)が「栄光」と訳されるが、この個所ではヘブライ語原文では「קָרַן( Karan)」、つまり「角が出る」となっていることは有名である。つまり通常のヘブライ語の「栄光」という単語は全く使われていない。もしここがヘブライ語の栄光「כבד(Kabed)」(重んじる)であれば、本書「七十人訳ギリシア語聖書」にある通り「δοξαζω(doxazo)」(思考・意見・判断する)という知覚に関するギリシャ語で訳されてよい。いわゆる英語での"glory"、ラテン語での"gloria"である。だがラテン語も本来「知れ渡る」と言う知覚に関する語であり、本書にあるような日本語の「栄光」?とも実はニュアンスは違う。

 このヘブライ語聖書原文で「קָרַן( Karan)」(角が出る)の使用箇所(約100個所)の訳に、このギリシャ語「δοξαζω(doxazo)」(知れ渡る、栄光)の訳を適用するのは、実は七十人訳ギリシャ語聖書でも「この個所だけ」であり、明らかにギリシャ語訳の際の意訳である。「קָרַן( Karan)」自体に実は「輝く」や「光る」と言う意味は元々ない。今でこそ「栄光に輝く」?となっているが、ではどこから「輝き」が来たのかという事になる。本書「七十人訳ギリシヤ語聖書」の訳を見るとヘブライ語原文にはある「עוֹר(オール)」(肌)」という単語の訳語が見当たらないのが分かる。ヘブライ語聖書を見てみるとヘブライ語の「עוֹר(オール)」は「肌」であるが、本書「七十人訳ギリシヤ語聖書」はそこを同音異義語の「אור(オール)」「光」と解し、これにより「光」を ἡ ὄψις ῦ χρώματος(色の見た目)と最大限の意訳をしていることが分かる。本書の日本語訳も「肌」と訳さずに「光」に関係した訳になっていることで確認できるだろう。だが、本書の日本語訳では誤魔化されて「色の見た目」という長いギリシャ語が訳されていない。明らかにギリシャ語は意訳であると分かるからである。これはよろしくない。

 本来はヘブライ語「肌(オール)に角が出る」を「光(オール)に角が出る」と書かれてあると曲解し、これをまとめて「栄光に輝く(直訳は色の様子が栄誉となる)」との意訳したのがギリシャ語七十人訳聖書である。つまり実際には「קָרַן( Karan)」自体は「角」と認識されたが、「עוֹר(オール)」(肌)を「אור(オール)」(光)と意訳した。ここまで来ると誤訳にもほどがあることが分かる。それが七十人訳ギリシャ語聖書である。だが誤訳というよりはヘレニズム社会に迎合するための意図的な涙ぐましい「努力」だったと言える。

 問題なのは昨今の日本語訳の聖書では、七十人訳ギリシャ語聖書の中途半端な理解に基づき、「קָרַן( Karan)」(角が出る)単独で「輝く」という意味にしてしまい、やめとけばいいのに、無理に現代ではマソラ本文から訳すものだから、更に「肌」という単語がもう一度訳されてしまい、顔の「肌(オール)」が「光(オール)」を放っていた的に、実は「オール」がだぶって訳されている始末である。だがこれは言語学的には大変興味深い現象で面白い。

 余談ではあるので聞き流していただきたいのだが、モーセの顔の皮膚に「角」が出るということはどういうことかであるかだが、「顔から角がでる」とか「頭から角が出る」のではなく、顔の「皮膚に角が出る」と原文のヘブライ語では書かれてある。微視的な皮膚の状態をとらえて書かれてある。例えば直射日光の強い地域の高齢者の顔の皮膚や、高山で生活する高齢者の顔の皮膚は、日光性「角化」症や老人性「角化」症になることは珍しくない。日本にもある通常の皮膚病の一種でもあり、モーセの年齢、直射日光の強いエジプトの荒れ地を旅する生活、紫外線の強い高山での生活などを考慮すると、「顔がテカる」や「顔が栄光に輝く」よりは、聖ヒエロニムスのラテン語訳「顔の皮膚に角が出る」(直訳)の方がヘブライ的で、荒れ地を旅する苦労を物語る、まともな訳に見えるが如何だろうか。因みに「長老たち」は恐れて近づかなかったとある。他の皮膚病の時と同じ記述である。例えばこの角化が、角化型疥癬により引き起こされた場合には外観は似ているが、原因はダニなので感染する。老人介護施設では注意が必要な感染症で、皮膚の角質が増殖して「角化」する症状は外観上似ている。当時のエジプトの神官はこのダニを不浄として頭髪を常に剃っていたほどである。

 本書の訳者が嫌っている聖ヒエロニムスが訳したラテン語聖書は、そこをヘブライ語の意味で正しく翻訳している。実は聖ヒエロニムスが正しい。彼はユダヤのラビを師として翻訳を進めるために旧都ベツレヘムに移り住んだ。読者は本当の反ユダヤ主義は誰かを見極めないといけない。
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2018年5月13日に日本でレビュー済み
聖書に興味があるけど、分かりにくくて挫折したという方にお薦めです。
とても読みやすい文体で書かれています。
古い時代に書かれた本は、道徳や社会規範が生まれる前に書かれているので、
いわゆる人道主義的な考え方はありません。
人間の奥に眠っている原始的な利己心がそのまま描かれています。
私はクリスチャンではないのですが、単純にお話として読んでも面白いです。
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