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現代語訳般若心経 (ちくま新書 615) 新書 – 2006/9/5
玄侑 宗久
(著)
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- 本の長さ221ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2006/9/5
- ISBN-104480063196
- ISBN-13978-4480063199
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登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2006/9/5)
- 発売日 : 2006/9/5
- 言語 : 日本語
- 新書 : 221ページ
- ISBN-10 : 4480063196
- ISBN-13 : 978-4480063199
- Amazon 売れ筋ランキング: - 15,245位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1956(昭和31)年、福島県三春町生まれ。安積高校卒業後、慶應義塾大学文学部中国文学科卒業。さまざまな職業を経験した後、京都の天龍寺専門道場に入門。現在は臨済宗妙心寺派、福聚寺住職。2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 龍の棲む家 (ISBN-13:978-4167692056 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年9月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
よかったです。
2014年12月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2006年の本。著者は臨済宗妙心寺派福聚寺の副住職(当時)である。
曰く・・・
世尊(釈迦)は理知によらないもう一つの体験的な知の様式として「般若(パンニャー)」を提示した。般若の捉える「全体性」は、無常に変化しつつ無限の関係性の中にある、絶えざる創造の場である。「個」は錯覚であると自覚され、自立した「個」を措定していたことが「迷い」「苦しみ」のもとであったとされる。絶えざる変化と無限の関係性が「縁起」として実感され、あらゆる物質も現象も「空」という「全体性」に溶け込んだ「個」ならざるものとして感じられる。そのとき、「涅槃」とよばれる究極の安らぎに至り「しあわせ」を感じる。
老子は全体性の実感を「道(タオ)」と表現し、莊子は「渾沌」とよぶ。これらは世尊と近似した実感だったがゆえに、仏教はスムーズに中国に浸透したのではないか。鳩摩羅什らは「般若波羅蜜多」というキーワードをあえて意訳していない。訳せば通常の「知」に堕してしまう。
五蘊(ごうん)とは、身心を構成する5つの集まり、色(かたちあるもの)、受(感受すること)、想(脳にできあがるイメージ、認識像)、行(意志、意欲)、識(脳への認識・経験の蓄積、データ)をあらわす。これらすべては「空(まぼろし、錯覚)」である。
モノ(かたちあるもの、変化するもの、壊れるもの)は出会いのたびに変化する。変化するから関係し合える。関係するからこそ「受」も起こる。あらゆる現象は単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、秩序から無秩序へ、すなわち、壊れる方向に変化しつつある(諸法無我、諸行無常)。無限の関係性のなかの絶えざる変化という実相の在り方を「縁起」とよぶ。
もしかすると、植物には、眼・耳・・・などに分かれる以前の、総合的で根源的な感覚があるのではないか、それは、空を空のまま感じる能力かもしれない。だとすれば、中枢神経の末端を肥大させて脳を作り、その感覚を器官によって分化した動物たちは、ある意味では植物よりも退化しているのかもしれない。
無常であり、縁起のなかで変化しつづける「空」だからこそ、それぞれの感覚と関係しあい、それぞれ別な「色」をつくる。色は空に異ならず。あらゆる現象には自性がないので、すべては感覚器やその場の時空間に限定され、常に特定の「色」として現れるしかない。であるから、我々は不完全な感覚機能と脳で感じる「色」の背後に「空」という全体性の片鱗を感じ取るしかない。世尊は感覚を信じるな、と何度も言っている。
たまたま縁起によって集まった体と精神機能の集合体(五蘊)が「私」であり、無数の関係性の中で絶えず変化し続けている。五蘊としての私は常に世界に開かれている。少なくとも「私」については、世界を含めたその全体が初めに意識され、それが五つのはたらきの集合として分析された、ともいえる。
生まれた、死んだ、のポイントもはっきりしない。脳死も、呼吸停止・心停止・瞳孔拡大という死の三大兆候も、文化的な取り決めであり、自然はあくまでも人間の判断に関係なく境目もないまま移行しつつあるにすぎない。生まれる前も死んだ後も何もないという捉え方を、世尊は「断見」として否定している。世尊は死後も同じ命が同じように続くという考え方も「常見」として否定している。
二元論(生と滅、垢と浄、美と醜・・・)といった概念は大脳皮質の得意技である。実相とは関係のない大脳皮質のでっちあげである。たえず流動してとらえどころのないものを固定化し、対立価値を置いて比較することですっきり理解しやすい「色」に仕上げるのが、人間の脳の仕事なのではないか。
時間も空間も意識が概念へと移行する過程で生み出したもの。「空」を実感するとき、そこでは同時なる関係性が感じられるだけでなく、異時さえも同じ地平に包み込まれてしまう。本来は時間差があったような事柄さえ、統一的な実感のもとにひとつながりの全体として感じられる。
名前や概念というのは、いわば実相という向こう岸に渡るための筏のようなもので、渡り切ったら本当は必要のないものである。般若の知恵が実現した彼岸から見ると、そんなものは対岸の遥かな景色にすぎず、戯論である。科学で扱われる「知」とは別な「知」の様式がある。
瞑想(禅定)は戒律の裏付けがなければ充実しない。般若はその瞑想によって裏付けられる。戒律・禅定・般若という三つの流れこそが根幹である。
言葉の持つ意味は、大脳皮質に訴え、そこから脳の範囲内で全身に影響をおよぼす。であるから、脳が理解できない事柄による変化に対しては「私」は抑制的に認識する。大脳皮質はあくまでも理性、合理を重んじる。
霊魂(プシュケ:理知によっては捉えられない生命原理)がある種の「全体性」であれば、理知によって到達できるはずがない。理知的な分析知は必ず「全体性」を分断する方向に働く。「全体性」は体験的に観ずるものであって分析するものではない。世尊は、理知によらないもう一つの体験的な「知」の様式を提出する。これを「般若」とよぶ。
あらゆる現象には自性がないために、すべては感受する感覚器やその場の時空間に限定され、常に特定の「色(しき)」として現れるしかない。「色」は実相そのものではないが、実相はいつも「縁起」して特定の「色」として顕現する。
無数の概念を使って「分別」し、それこそが「私」だと信じ込んでいる。仏教は概念を戯論だという。物事の実相を見るためには是非とも「概念」を排除すべき。三歳以前の子どものようにとにかく個物を見るべし。
大脳皮質が「色」を求める欲求に素直にしたがっているのが西洋的な「科学」なのかもしれない。インド人はとっくの昔にそれを諦め「空」という様態を発見したのだろう。物質を粒子の集合体として見るのではなく、あくまでもエネルギーに満たされた全体の中のある種の凝集として捉えた。
いわゆる意識のもっと奥に、無意識的自己愛をもったマナ識があり、更に奥にはアーラヤ識がある。アーラヤ識は五蘊でいえばすべての表象(想)の素になる種子が入っている場所。その種子の中からマナ識が自己愛に基づいて適宜に表象を導き、行(意志)となり、またしても識に収められる。「私」という意味の「識」は、さまざまな経験知識が蓄積し、汚れに染まったもの。
言葉には、そのもの自体の無常性を奪う機能がある。「花」は散るものなのに、言葉で示された「花」はなんとなく不変に感じられる。名付けられ、概念が実体化し、それがさらに思考をよぶ。それによって実物にはなかった自立性と恒久性がそなわったモノたちはやがてお互いに対立する存在にもなってゆく。どんどん「全体性」が分断され「空」から離れてしまう。
この地球が誕生して以来、「いのち」は途切れることなく展開してきた。そんな「いのち」を遅れてきた「私」が支配しようというのはおかしい。般若は「いのち」そのものの力である。
意味を超えた音や響きは、意味を捉えようとする大脳皮質を飛び越えて直接「いのち」に響く。
・・・2017年10月27日再読・・・
あらゆる命はたえず無限の関係性のなかで変化しながらいろんな形に展開していくだけ。そのグラデーションの、境目のない変化の波の特定のポイントを「誕生」とか「死」と呼ぶのは、物事を固定化したがる脳の仕業。
鏡に映った姿を「私」だと認識するのは2歳程度だと言われる。そこで基本が形づくられた「私」は、さまざまな概念を作り、分別を重ねながら精密になっていくのだろう。それを人は、成長とよぶ。
アーラヤ識は、五蘊でいえばすべての「表象」(想)の素になる種子(しゅうじ)が入っている場所という意味で「種子識」ともよばれる。種子の中からマナ識が自己愛に基づいて適宜に「表象」を導き、それがさらに「行(意志)」になり、またしても識に収められる。
「苦」の発生の根本原因は「無明」すなわち「空」という実相に対する無知だとされる。無知ゆえに、間違った方向へ「識」を進めてしまう力である「行」が生まれ、それにしたがって「識」が染まる。「行」は「私」を形成する力である。「私」の芽がそれ以後の流れを「苦」の方向へ運ぶ力となっていく。
世尊は「私」を形成する「行」を滅尽せよという。それは「無明」という根源が自覚的にアプローチできる対象ではないからだろう。明らかにすることのできない何物かであるため、「無明」と名付けられた。
たとえば、「花」という言葉は、そう呼ばれた途端に「花」以外のものとの関係性が断たれる。まるで茎や葉がなくとも「花」が存在すると感じられるような奇妙な自立性を言葉によって帯びる。言葉は無常性も奪う。「花」は散るものなのに、言葉で示された「花」はなんとなく不変に感じられる。あらゆるものに名前がつけられ、概念が実体化し、それがさらに思考を呼ぶ。それによって実物にはなかった自立性と恒久性が具わったモノたちは、やがてお互いが対立する存在にもなっていく。どんどん「全体性」が分断され、「空」から離れていく。
概念は恐ろしい力を発揮する。浮かんだ言葉の内実を充実させようと体が変化していく。「病」というレッテルによって自然治癒力が低下して症状が悪化しレッテル通りになろうとする。
諸行無常で諸法無我だからこそ、実相は常に私たちの脳の認識である「色」を超える。
「空」というのは「いのち」のまま、「色」というのはそれに脳(私)が手心を加えた現象である。
などなど。
般若心経は作者不明であり、玄奘三蔵訳や鳩摩羅什訳など8種の訳があるが内容に大差はないそうである。
・・・
変化するからこそ関係しあえる。関係するからこそ見えたり聞こえたりという「受」も起きる。モノは見え続け、聞こえ続けるだけで変化し続け、しかもそれを見た眼も聞いた耳も変化し続けている。
世尊は、物質とは「変化するもの」「やがて壊れるもの」と理解していた。あらゆるモノは単独自立した主体をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある。
空即是色とは、空であるたゆえに縁起し、あらゆることが現象してくる、ということ。
なぜすべては変化し続けるのか。それはおそらく、すべてが「不完全」だから。私も宇宙も不完全なままに「縁起」によって変化しつづけているのだろう。
概念のこわいところは、それが常に主観の理解しやすい鋳型に実相を無理矢理収めてしまうこと、またそれによって比較できないものを比較せしめ、ときに競争するための尺度を提供することである。
アーラヤ識は五蘊でいえば「表象(想)」の素になる種子(しゅうじ)が入っている場所という意味で「種子識」ともよばれる。その種子の中からマナ識が自己愛に基づいて適宜に「表象」を導き、それがさらに「行(意志)」になり、またしても「識」に収められる。
世尊の瞑想法は大別すれば「止」と「観」の2つの方法といえる。「止」とは心を継続的に1点に集中すること。「観」とは対象への細やかで逐次的な観察力を養うこと。
時間も空間も、意識が概念へと移行する過程で生み出しているもの。
般若波羅蜜多が実践されているときには、因果を条件付ける時間そのものが存在しない。
「からだ」という大いなる自然がたまたま「しくしく」しているのも自然なことなのだから(病の状態)、それに抵抗せず、そのまま「しくしく」していればいい。しかし大抵はここで抵抗する。大脳皮質が「からだ」を信じないということ。「私」に信用されない「からだ」は免疫力や「元気」を低下させる。
曰く・・・
世尊(釈迦)は理知によらないもう一つの体験的な知の様式として「般若(パンニャー)」を提示した。般若の捉える「全体性」は、無常に変化しつつ無限の関係性の中にある、絶えざる創造の場である。「個」は錯覚であると自覚され、自立した「個」を措定していたことが「迷い」「苦しみ」のもとであったとされる。絶えざる変化と無限の関係性が「縁起」として実感され、あらゆる物質も現象も「空」という「全体性」に溶け込んだ「個」ならざるものとして感じられる。そのとき、「涅槃」とよばれる究極の安らぎに至り「しあわせ」を感じる。
老子は全体性の実感を「道(タオ)」と表現し、莊子は「渾沌」とよぶ。これらは世尊と近似した実感だったがゆえに、仏教はスムーズに中国に浸透したのではないか。鳩摩羅什らは「般若波羅蜜多」というキーワードをあえて意訳していない。訳せば通常の「知」に堕してしまう。
五蘊(ごうん)とは、身心を構成する5つの集まり、色(かたちあるもの)、受(感受すること)、想(脳にできあがるイメージ、認識像)、行(意志、意欲)、識(脳への認識・経験の蓄積、データ)をあらわす。これらすべては「空(まぼろし、錯覚)」である。
モノ(かたちあるもの、変化するもの、壊れるもの)は出会いのたびに変化する。変化するから関係し合える。関係するからこそ「受」も起こる。あらゆる現象は単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、秩序から無秩序へ、すなわち、壊れる方向に変化しつつある(諸法無我、諸行無常)。無限の関係性のなかの絶えざる変化という実相の在り方を「縁起」とよぶ。
もしかすると、植物には、眼・耳・・・などに分かれる以前の、総合的で根源的な感覚があるのではないか、それは、空を空のまま感じる能力かもしれない。だとすれば、中枢神経の末端を肥大させて脳を作り、その感覚を器官によって分化した動物たちは、ある意味では植物よりも退化しているのかもしれない。
無常であり、縁起のなかで変化しつづける「空」だからこそ、それぞれの感覚と関係しあい、それぞれ別な「色」をつくる。色は空に異ならず。あらゆる現象には自性がないので、すべては感覚器やその場の時空間に限定され、常に特定の「色」として現れるしかない。であるから、我々は不完全な感覚機能と脳で感じる「色」の背後に「空」という全体性の片鱗を感じ取るしかない。世尊は感覚を信じるな、と何度も言っている。
たまたま縁起によって集まった体と精神機能の集合体(五蘊)が「私」であり、無数の関係性の中で絶えず変化し続けている。五蘊としての私は常に世界に開かれている。少なくとも「私」については、世界を含めたその全体が初めに意識され、それが五つのはたらきの集合として分析された、ともいえる。
生まれた、死んだ、のポイントもはっきりしない。脳死も、呼吸停止・心停止・瞳孔拡大という死の三大兆候も、文化的な取り決めであり、自然はあくまでも人間の判断に関係なく境目もないまま移行しつつあるにすぎない。生まれる前も死んだ後も何もないという捉え方を、世尊は「断見」として否定している。世尊は死後も同じ命が同じように続くという考え方も「常見」として否定している。
二元論(生と滅、垢と浄、美と醜・・・)といった概念は大脳皮質の得意技である。実相とは関係のない大脳皮質のでっちあげである。たえず流動してとらえどころのないものを固定化し、対立価値を置いて比較することですっきり理解しやすい「色」に仕上げるのが、人間の脳の仕事なのではないか。
時間も空間も意識が概念へと移行する過程で生み出したもの。「空」を実感するとき、そこでは同時なる関係性が感じられるだけでなく、異時さえも同じ地平に包み込まれてしまう。本来は時間差があったような事柄さえ、統一的な実感のもとにひとつながりの全体として感じられる。
名前や概念というのは、いわば実相という向こう岸に渡るための筏のようなもので、渡り切ったら本当は必要のないものである。般若の知恵が実現した彼岸から見ると、そんなものは対岸の遥かな景色にすぎず、戯論である。科学で扱われる「知」とは別な「知」の様式がある。
瞑想(禅定)は戒律の裏付けがなければ充実しない。般若はその瞑想によって裏付けられる。戒律・禅定・般若という三つの流れこそが根幹である。
言葉の持つ意味は、大脳皮質に訴え、そこから脳の範囲内で全身に影響をおよぼす。であるから、脳が理解できない事柄による変化に対しては「私」は抑制的に認識する。大脳皮質はあくまでも理性、合理を重んじる。
霊魂(プシュケ:理知によっては捉えられない生命原理)がある種の「全体性」であれば、理知によって到達できるはずがない。理知的な分析知は必ず「全体性」を分断する方向に働く。「全体性」は体験的に観ずるものであって分析するものではない。世尊は、理知によらないもう一つの体験的な「知」の様式を提出する。これを「般若」とよぶ。
あらゆる現象には自性がないために、すべては感受する感覚器やその場の時空間に限定され、常に特定の「色(しき)」として現れるしかない。「色」は実相そのものではないが、実相はいつも「縁起」して特定の「色」として顕現する。
無数の概念を使って「分別」し、それこそが「私」だと信じ込んでいる。仏教は概念を戯論だという。物事の実相を見るためには是非とも「概念」を排除すべき。三歳以前の子どものようにとにかく個物を見るべし。
大脳皮質が「色」を求める欲求に素直にしたがっているのが西洋的な「科学」なのかもしれない。インド人はとっくの昔にそれを諦め「空」という様態を発見したのだろう。物質を粒子の集合体として見るのではなく、あくまでもエネルギーに満たされた全体の中のある種の凝集として捉えた。
いわゆる意識のもっと奥に、無意識的自己愛をもったマナ識があり、更に奥にはアーラヤ識がある。アーラヤ識は五蘊でいえばすべての表象(想)の素になる種子が入っている場所。その種子の中からマナ識が自己愛に基づいて適宜に表象を導き、行(意志)となり、またしても識に収められる。「私」という意味の「識」は、さまざまな経験知識が蓄積し、汚れに染まったもの。
言葉には、そのもの自体の無常性を奪う機能がある。「花」は散るものなのに、言葉で示された「花」はなんとなく不変に感じられる。名付けられ、概念が実体化し、それがさらに思考をよぶ。それによって実物にはなかった自立性と恒久性がそなわったモノたちはやがてお互いに対立する存在にもなってゆく。どんどん「全体性」が分断され「空」から離れてしまう。
この地球が誕生して以来、「いのち」は途切れることなく展開してきた。そんな「いのち」を遅れてきた「私」が支配しようというのはおかしい。般若は「いのち」そのものの力である。
意味を超えた音や響きは、意味を捉えようとする大脳皮質を飛び越えて直接「いのち」に響く。
・・・2017年10月27日再読・・・
あらゆる命はたえず無限の関係性のなかで変化しながらいろんな形に展開していくだけ。そのグラデーションの、境目のない変化の波の特定のポイントを「誕生」とか「死」と呼ぶのは、物事を固定化したがる脳の仕業。
鏡に映った姿を「私」だと認識するのは2歳程度だと言われる。そこで基本が形づくられた「私」は、さまざまな概念を作り、分別を重ねながら精密になっていくのだろう。それを人は、成長とよぶ。
アーラヤ識は、五蘊でいえばすべての「表象」(想)の素になる種子(しゅうじ)が入っている場所という意味で「種子識」ともよばれる。種子の中からマナ識が自己愛に基づいて適宜に「表象」を導き、それがさらに「行(意志)」になり、またしても識に収められる。
「苦」の発生の根本原因は「無明」すなわち「空」という実相に対する無知だとされる。無知ゆえに、間違った方向へ「識」を進めてしまう力である「行」が生まれ、それにしたがって「識」が染まる。「行」は「私」を形成する力である。「私」の芽がそれ以後の流れを「苦」の方向へ運ぶ力となっていく。
世尊は「私」を形成する「行」を滅尽せよという。それは「無明」という根源が自覚的にアプローチできる対象ではないからだろう。明らかにすることのできない何物かであるため、「無明」と名付けられた。
たとえば、「花」という言葉は、そう呼ばれた途端に「花」以外のものとの関係性が断たれる。まるで茎や葉がなくとも「花」が存在すると感じられるような奇妙な自立性を言葉によって帯びる。言葉は無常性も奪う。「花」は散るものなのに、言葉で示された「花」はなんとなく不変に感じられる。あらゆるものに名前がつけられ、概念が実体化し、それがさらに思考を呼ぶ。それによって実物にはなかった自立性と恒久性が具わったモノたちは、やがてお互いが対立する存在にもなっていく。どんどん「全体性」が分断され、「空」から離れていく。
概念は恐ろしい力を発揮する。浮かんだ言葉の内実を充実させようと体が変化していく。「病」というレッテルによって自然治癒力が低下して症状が悪化しレッテル通りになろうとする。
諸行無常で諸法無我だからこそ、実相は常に私たちの脳の認識である「色」を超える。
「空」というのは「いのち」のまま、「色」というのはそれに脳(私)が手心を加えた現象である。
などなど。
般若心経は作者不明であり、玄奘三蔵訳や鳩摩羅什訳など8種の訳があるが内容に大差はないそうである。
・・・
変化するからこそ関係しあえる。関係するからこそ見えたり聞こえたりという「受」も起きる。モノは見え続け、聞こえ続けるだけで変化し続け、しかもそれを見た眼も聞いた耳も変化し続けている。
世尊は、物質とは「変化するもの」「やがて壊れるもの」と理解していた。あらゆるモノは単独自立した主体をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある。
空即是色とは、空であるたゆえに縁起し、あらゆることが現象してくる、ということ。
なぜすべては変化し続けるのか。それはおそらく、すべてが「不完全」だから。私も宇宙も不完全なままに「縁起」によって変化しつづけているのだろう。
概念のこわいところは、それが常に主観の理解しやすい鋳型に実相を無理矢理収めてしまうこと、またそれによって比較できないものを比較せしめ、ときに競争するための尺度を提供することである。
アーラヤ識は五蘊でいえば「表象(想)」の素になる種子(しゅうじ)が入っている場所という意味で「種子識」ともよばれる。その種子の中からマナ識が自己愛に基づいて適宜に「表象」を導き、それがさらに「行(意志)」になり、またしても「識」に収められる。
世尊の瞑想法は大別すれば「止」と「観」の2つの方法といえる。「止」とは心を継続的に1点に集中すること。「観」とは対象への細やかで逐次的な観察力を養うこと。
時間も空間も、意識が概念へと移行する過程で生み出しているもの。
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2019年9月3日に日本でレビュー済み
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子供の頃から持ち続けて来た違和感を解消するため、今までずっと量子力学を追いかけて来たが、結局この本一冊で解決しました。
2017年11月15日に日本でレビュー済み
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般若心経を自分で、新書で読むにはアッサリ読めてよかった。初心者向けの一冊。
2016年5月6日に日本でレビュー済み
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現代の物理学などの見地を大胆に取り入れた現代語訳を主にしつつ、きっちり原文、読み下し文、お経を唱える時の読み方も網羅している。
ブッダと直弟子を表したかわいいイラストもちょこちょこ入ってたり、般若心経を絵にして昔の日本人が読みやすいように書かれた当時の絵文字般若心経も掲載されていて、親しみやすさとレベルの高さを両立しているのも高ポイント。
新書でかつ適度な分厚さのため、持ち運んでどこでも読みやすいのも評価できる。
ブッダと直弟子を表したかわいいイラストもちょこちょこ入ってたり、般若心経を絵にして昔の日本人が読みやすいように書かれた当時の絵文字般若心経も掲載されていて、親しみやすさとレベルの高さを両立しているのも高ポイント。
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2016年1月16日に日本でレビュー済み
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般若心経について一般的な理解を得たいと思われる方にはお勧めしません。一見、平易にかかれているようですが、他の本に比べてその内容が理解しにくい(わかりにくい)からです。これは著者が、般若心経に書かれていることは、その人が「悟る」べきものと考えているためのように思います。それは断定的な説明(解釈)はしないことにつながります。これがわかりにくい原因なのかもしれません。