原始仏教は、最も最初に説かれたものと言われています。つまりお釈迦様の説かれた内容であるのです。
阿含経典に代表される、縁起の法は、仏教の基本となり。無から空へと言葉の違いがありますが、究極的には、すべてが一つに集約される法は誠に素晴らしいものです。これを理解し、実践できれば、すべてが入輪になるでしょう。 以上
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原始仏教 サーラ叢書 4 (サ-ラ叢書) 単行本 – 1994/3/1
水野 弘元
(著)
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- 本の長さ308ページ
- 言語日本語
- 出版社平楽寺書店
- 発売日1994/3/1
- ISBN-104831300047
- ISBN-13978-4831300041
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登録情報
- 出版社 : 平楽寺書店 (1994/3/1)
- 発売日 : 1994/3/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 308ページ
- ISBN-10 : 4831300047
- ISBN-13 : 978-4831300041
- Amazon 売れ筋ランキング: - 566,369位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 97,053位人文・思想 (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年7月14日に日本でレビュー済み
仏典を読む前に、本書を読んでも難しすぎると思う。しかし、仏典を一通り読むと、様々な疑問が湧く筈で、その段階で本書を読むとそれらの疑問が氷解する。
本書を読んで私が特に気づいたことを幾つか列挙したい。
[1]第二章冒頭部分の「六師外道」の説明は良く纏まっており、分かり易い。
[2]第二章p.81~82に、「色界天の存在にしても、その説明にはかなりに変なものがある。」「色界定や無色界定と言われる禅定の名も仏教独特のものではなく、外教のものから採用したらしい。」とある。これは私の他のレビューで詳しく説明したことがある。
[3]第三章p.91の「断見」と「常見」の説明も分かり易い。
[4]第三章p.99の「形而上学」、p.105「三法印・四法印」の説明も分かり易い。
[5]第四章p.117に、「原始仏教の阿含経の中には、無我説は随所に述べられている。しかし、そこには無我の最も高い意味を含んだ究極的なものは少なく、何れかと言えば通俗的な低い立場のものが多い。それは、現存する原始仏教聖典が、全て部派仏教により伝えられたものであり、部派仏教は何事についても、原始仏教の第一義的立場を捨てて世俗的立場の学説のみを採用しているからである。」という指摘は重要である。その理由も私の他のレビューで詳しく説明している。
[6]第四章p.119に、五蘊を無我で説く四種類の方法を分かり易く解説している。ただし、これは『パーリ語中部経典』第44「小有明経」の内容である。このパーリ仏典より古いとされる『漢訳雑阿含経』巻第五「仙尼経」宋天竺三蔵求那跋陀羅訳(大正大蔵No.105)には、もっと本質的な記述がある。
両者を比較すると、パーリ仏典の「色(五蘊、五陰)は我である」という見解を漢訳では《我》と呼称し、「色(五蘊、五陰)は我の所有である」を《異我》と呼称し、「色(五蘊、五陰)の中に我がある」を《相在》と呼称する。パーリ仏典では、以上の3つに「我の中に色(五蘊、五陰)がある」という「唯識」の見解を加えた4つが間違った無我の見解である。この「唯識」の見解は、漢訳には無く、「唯識」教義が普及していたブッダゴーサ時代の付加増広と考える。
一方、漢訳では「唯識」の見解が無い代わりに、《我》《異我》《相在》の3つが間違った見解であるとした上で、パーリ仏典には記述されていない「無我」の正しい見解として《如来応等正覚見》が示される。その部分の漢訳は、
「因縁による五陰(五蘊)の化合そのものが自我であり、因縁が消滅すれば五陰(五蘊)も消滅し、同
時に自我も消滅する。人間の生命(我)は因縁所生のものであるから、因縁の続く限りは生死(我の消
滅と発生)を繰り返す。因縁を無視して生命(我)それ自体が永遠に続くもの(常見)ではなく、また、
因縁が消滅しない限り、死んだからといってそれで生命(我)が断滅してしまうもの(断見)でもない。
生命(我)は因縁によって生じ因縁によって消滅するものである。」である。
[7]第四章p.150~151に、「部派仏教は世俗的な低い立場を採用するために、十二縁起の説明解釈についても、世俗的な譬喩的説明が縁起説の本来のものであるかのように誤り解されるようになってしまった。」その一つが「十二縁起説を低俗な三世両重の因果として解した」ことである、とする。
非公開の私の論考では、十二支縁起の本質は「行、識、(六処+触)、受、(愛+取)」となり、これを「行、識、色、受、想」と並び変えた五蘊縁起と対比させることによって、「四聖諦」が導かれることを初めて解明した。
以上の様に、古書であるが、その内容は書店に陳列される現在の仏教書より遙かに濃密である。
本書を読んで私が特に気づいたことを幾つか列挙したい。
[1]第二章冒頭部分の「六師外道」の説明は良く纏まっており、分かり易い。
[2]第二章p.81~82に、「色界天の存在にしても、その説明にはかなりに変なものがある。」「色界定や無色界定と言われる禅定の名も仏教独特のものではなく、外教のものから採用したらしい。」とある。これは私の他のレビューで詳しく説明したことがある。
[3]第三章p.91の「断見」と「常見」の説明も分かり易い。
[4]第三章p.99の「形而上学」、p.105「三法印・四法印」の説明も分かり易い。
[5]第四章p.117に、「原始仏教の阿含経の中には、無我説は随所に述べられている。しかし、そこには無我の最も高い意味を含んだ究極的なものは少なく、何れかと言えば通俗的な低い立場のものが多い。それは、現存する原始仏教聖典が、全て部派仏教により伝えられたものであり、部派仏教は何事についても、原始仏教の第一義的立場を捨てて世俗的立場の学説のみを採用しているからである。」という指摘は重要である。その理由も私の他のレビューで詳しく説明している。
[6]第四章p.119に、五蘊を無我で説く四種類の方法を分かり易く解説している。ただし、これは『パーリ語中部経典』第44「小有明経」の内容である。このパーリ仏典より古いとされる『漢訳雑阿含経』巻第五「仙尼経」宋天竺三蔵求那跋陀羅訳(大正大蔵No.105)には、もっと本質的な記述がある。
両者を比較すると、パーリ仏典の「色(五蘊、五陰)は我である」という見解を漢訳では《我》と呼称し、「色(五蘊、五陰)は我の所有である」を《異我》と呼称し、「色(五蘊、五陰)の中に我がある」を《相在》と呼称する。パーリ仏典では、以上の3つに「我の中に色(五蘊、五陰)がある」という「唯識」の見解を加えた4つが間違った無我の見解である。この「唯識」の見解は、漢訳には無く、「唯識」教義が普及していたブッダゴーサ時代の付加増広と考える。
一方、漢訳では「唯識」の見解が無い代わりに、《我》《異我》《相在》の3つが間違った見解であるとした上で、パーリ仏典には記述されていない「無我」の正しい見解として《如来応等正覚見》が示される。その部分の漢訳は、
「因縁による五陰(五蘊)の化合そのものが自我であり、因縁が消滅すれば五陰(五蘊)も消滅し、同
時に自我も消滅する。人間の生命(我)は因縁所生のものであるから、因縁の続く限りは生死(我の消
滅と発生)を繰り返す。因縁を無視して生命(我)それ自体が永遠に続くもの(常見)ではなく、また、
因縁が消滅しない限り、死んだからといってそれで生命(我)が断滅してしまうもの(断見)でもない。
生命(我)は因縁によって生じ因縁によって消滅するものである。」である。
[7]第四章p.150~151に、「部派仏教は世俗的な低い立場を採用するために、十二縁起の説明解釈についても、世俗的な譬喩的説明が縁起説の本来のものであるかのように誤り解されるようになってしまった。」その一つが「十二縁起説を低俗な三世両重の因果として解した」ことである、とする。
非公開の私の論考では、十二支縁起の本質は「行、識、(六処+触)、受、(愛+取)」となり、これを「行、識、色、受、想」と並び変えた五蘊縁起と対比させることによって、「四聖諦」が導かれることを初めて解明した。
以上の様に、古書であるが、その内容は書店に陳列される現在の仏教書より遙かに濃密である。