『教行信証』の根本思想を分かりやすく述べる。書名が「教」(教え)、「行」(修行)、「信」(信心)、「証」(悟り)の内容を筋道立てて順番に項目として論ずる本であることが述べられている。
法然『選択本願念仏集』の中に、絵図としても遺されている「二河白道話」の法話が掲載されている。大河に取り残された迷い人が、北の水河(三毒の喩え)と南の火河(怒りの喩え)にも踏み込むことなく、呼ぶ声のままに導かれて白い細道を困難にめげずにひたすら進んで絶体絶命の窮地を逃れ、その後は幸福に暮らしたという内容である。法然も親鸞も著書にこの喩え話を掲載しており、どちらも正しく喩えの意味を解説している。親鸞の『教行信証』ではこの喩え話が「信」の巻に位置づけられている。迷い人が西岸(極楽浄土の喩え)に到達できたのは、自分を呼ぶ声を信じて救われる唯一の道を進んだからであると述べている。阿弥陀如来の本願を信じて迷うことなく念仏を称えることで極楽浄土へ往生を遂げる教えがこの「二河白道話」の法話である。法然が説いた説法を親鸞は『教行信証』において、同じ法話を繰り返しながらも、「信心」の中に正しく位置づけたのである。親鸞は法然をいかにして越えたのか?本書はそれを説いている名著である。
お勧めの一冊だ。

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『教行信証』を読む――親鸞の世界へ (岩波新書) 新書 – 2010/8/21
山折 哲雄
(著)
人殺しの大罪を犯したような極悪人は宗教的に救われるのか。救われるための条件は何か。親鸞自身の苦しみと思索の展開をたどり、引用経典の丁寧な読み解きとともに親鸞宗教思想の核心を浮彫りに。歴史的洞察や史料論的解釈、比較論的考察を交えながら、宗教思想史に屹立する親鸞をその自然な思想的相貌において捉え、平易に叙述する。
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2010/8/21
- ISBN-104004312639
- ISBN-13978-4004312635
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2010/8/21)
- 発売日 : 2010/8/21
- 言語 : 日本語
- 新書 : 224ページ
- ISBN-10 : 4004312639
- ISBN-13 : 978-4004312635
- Amazon 売れ筋ランキング: - 460,412位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,091位岩波新書
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著者について
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上位レビュー、対象国: 日本
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2019年1月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2020年3月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
教行信証を読まないでこの本を読むと何を言っているのか分からないと思う。
法然の「選択本願念仏集」があるのになぜ教行信証を書かなければならなかったかを推測していく内容。
教行信証を読んだ後だと「うんうんそうだよねぇ」と重要点の復習になる。
解説本と思わない方がいいかと。
顕浄土真実教行証文類 (現代語版)は古文漢文が分からなくても読めるのでそちらを先に。
法然の「選択本願念仏集」があるのになぜ教行信証を書かなければならなかったかを推測していく内容。
教行信証を読んだ後だと「うんうんそうだよねぇ」と重要点の復習になる。
解説本と思わない方がいいかと。
顕浄土真実教行証文類 (現代語版)は古文漢文が分からなくても読めるのでそちらを先に。
2018年2月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
我慢して我慢して読んでいました。
ほかの方も指摘していますが、古事記との比較が何の意味があるのかさっぱりわからない。
、、、指摘しておいた、とか、、、確認しておけばよい、とか何様だろうと思った。
親鸞はひたすらに信仰の吐露と人々の救済を求めて書いたのであり、もっと素直に解釈できないだろうか、、、、もぎとったとか、、、、注意を喚起しておいた、とかの表現は自分をどういう立場で書いているのか理解ができなかった。
ただし、五逆の罪が救われないことをいかに救済しようとしたか(自分もとても気になっていた)、化身土の概念、そして懴悔という自力を入れざる得なかったという点は発見であった。親鸞にもそうとうな葛藤があったのだろうと思う。もういちど、教行信証を読んで確認したい。
大臣たちが親殺しを正当化する理由も改めて確認できた。自分が教行信証を読んだ時もなるほど詭弁ではあるが、弁にはなっていると思った。すべてが因果律に支配されているなら、親殺しも何かの因か、縁か、果であるはずであり、自由意志などというものは存在しないことになる。これは今でも疑問である。
多分に失礼な物言いであるが、自らの金で購入した者としてお許し願いたい。
それにしても難書だった。
ほかの方も指摘していますが、古事記との比較が何の意味があるのかさっぱりわからない。
、、、指摘しておいた、とか、、、確認しておけばよい、とか何様だろうと思った。
親鸞はひたすらに信仰の吐露と人々の救済を求めて書いたのであり、もっと素直に解釈できないだろうか、、、、もぎとったとか、、、、注意を喚起しておいた、とかの表現は自分をどういう立場で書いているのか理解ができなかった。
ただし、五逆の罪が救われないことをいかに救済しようとしたか(自分もとても気になっていた)、化身土の概念、そして懴悔という自力を入れざる得なかったという点は発見であった。親鸞にもそうとうな葛藤があったのだろうと思う。もういちど、教行信証を読んで確認したい。
大臣たちが親殺しを正当化する理由も改めて確認できた。自分が教行信証を読んだ時もなるほど詭弁ではあるが、弁にはなっていると思った。すべてが因果律に支配されているなら、親殺しも何かの因か、縁か、果であるはずであり、自由意志などというものは存在しないことになる。これは今でも疑問である。
多分に失礼な物言いであるが、自らの金で購入した者としてお許し願いたい。
それにしても難書だった。
2023年1月14日に日本でレビュー済み
教行信証とは、2つの主題、1つの目標を持つ
しかし、内容は、親鸞が悩みながら書いたかのように
かなり錯綜しているとのこと
大きなテーマは、悪人正機(5逆を行った悪人の救済)
これは、浄土教の最大経典である大経の第壱拾八願の例外規定に対する、挑戦。観経、涅槃経を元に克服しようとした。このために、仮の浄土を設定した。
【所感】
他力、縁を考え抜いた先には
どんな悪人にも救いが必然。
そのために大経の例外規定への挑戦ということか。
繰り返しになるが、嘆異抄でも感じた、すべての人は極悪人だという感覚と、すべてに仏が宿るという感覚の先には、やはり全ての救いの必然という感覚になる。
しかし、内容は、親鸞が悩みながら書いたかのように
かなり錯綜しているとのこと
大きなテーマは、悪人正機(5逆を行った悪人の救済)
これは、浄土教の最大経典である大経の第壱拾八願の例外規定に対する、挑戦。観経、涅槃経を元に克服しようとした。このために、仮の浄土を設定した。
【所感】
他力、縁を考え抜いた先には
どんな悪人にも救いが必然。
そのために大経の例外規定への挑戦ということか。
繰り返しになるが、嘆異抄でも感じた、すべての人は極悪人だという感覚と、すべてに仏が宿るという感覚の先には、やはり全ての救いの必然という感覚になる。
2019年10月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
親鸞思想の核心を衝いた本。類書をみない。懺悔こそが親鸞の信仰の核心。それ以外の解釈は堕落であることがはっきりする。山折氏を師として仰ぐことにした。宗教の選択は懺悔を中心に置いているか否かで判断しよう。
2013年7月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
山折先生の本は易しく解りやすいので、注文したのすが、
今回のは原作自体内容が難しいため、2点にしました。
今回のは原作自体内容が難しいため、2点にしました。
2015年10月27日に日本でレビュー済み
読みごたえのある本だった。この本を書いた時点で氏はすでに七十代後半だったらしいが、
そうとは思えぬ迫力に満ちており、半世紀に渡る思索の成果が隅々にまで行き渡っている。
氏は「教行信証」の中心は悪人救済にあると考えており、中でも「大無量寿経」の第十八願
で救いの除外となっている「五逆と誹謗正法」を救う道を求めて親鸞聖人が葛藤していたと言
う。そして、「観無量寿経」はその内の「五逆」は救うものの、「誹謗正法」は除外しているため、
両者を救う「大般涅槃経」にたどり着き、経典の大量引用に至ったと述べる。ちなみに、ここで
言う極重悪人とは「阿闍世」のことであり、聖人は阿闍世を救うことに懸命な余り、自ずと師で
ある法然の教えをのりこえたそうだ。
さて、読了して感じたことは、聖人は「教行信証」という書を自分のために書いたのではとい
うことだった。すなわち、阿闍世を自分と重ね合わせ、阿闍世のような悪人が救われなければ
自分も救われないとの思いで生涯かけて打ちこんだ。恐らく、自己の安心の根拠が欲しかった
のだろう。また、この本では「往相廻向」と「還相廻向」にも触れられていたが、こちらについて
はいまひとつわからなかったものの、「教行信証」という難解な書物の輪郭がおぼろげながら
でも見えたことは収穫だった。
氏は「教行信証」を「未完の作品」と呼ぶが、「とぼとぼと歩きつづけることをやめない老親鸞
の行く先に、ほんのかすかに『自然法爾』の光が静かにともっている」という言葉が印象的である。
そうとは思えぬ迫力に満ちており、半世紀に渡る思索の成果が隅々にまで行き渡っている。
氏は「教行信証」の中心は悪人救済にあると考えており、中でも「大無量寿経」の第十八願
で救いの除外となっている「五逆と誹謗正法」を救う道を求めて親鸞聖人が葛藤していたと言
う。そして、「観無量寿経」はその内の「五逆」は救うものの、「誹謗正法」は除外しているため、
両者を救う「大般涅槃経」にたどり着き、経典の大量引用に至ったと述べる。ちなみに、ここで
言う極重悪人とは「阿闍世」のことであり、聖人は阿闍世を救うことに懸命な余り、自ずと師で
ある法然の教えをのりこえたそうだ。
さて、読了して感じたことは、聖人は「教行信証」という書を自分のために書いたのではとい
うことだった。すなわち、阿闍世を自分と重ね合わせ、阿闍世のような悪人が救われなければ
自分も救われないとの思いで生涯かけて打ちこんだ。恐らく、自己の安心の根拠が欲しかった
のだろう。また、この本では「往相廻向」と「還相廻向」にも触れられていたが、こちらについて
はいまひとつわからなかったものの、「教行信証」という難解な書物の輪郭がおぼろげながら
でも見えたことは収穫だった。
氏は「教行信証」を「未完の作品」と呼ぶが、「とぼとぼと歩きつづけることをやめない老親鸞
の行く先に、ほんのかすかに『自然法爾』の光が静かにともっている」という言葉が印象的である。
2016年12月15日に日本でレビュー済み
この本、教行信証をめぐるミステリーの謎解き的趣きがある。文体もそう。
教行信証という書名の謎、総序があって全体のモチーフが示されているのに、なぜまた途中で序が入るのかの謎、親鸞直筆本とされる「信」巻序文の裏に、親鸞自身の筆により落書きのような文章書き写しがある謎、等々。思わず引き込まれる。教行信証の入門書としてはいい。この本を入り口にもっと深みに入るのだ。
教行信証という書名の謎、総序があって全体のモチーフが示されているのに、なぜまた途中で序が入るのかの謎、親鸞直筆本とされる「信」巻序文の裏に、親鸞自身の筆により落書きのような文章書き写しがある謎、等々。思わず引き込まれる。教行信証の入門書としてはいい。この本を入り口にもっと深みに入るのだ。