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アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治 (講談社現代新書) Kindle版
移民への憎悪、個人化するテロリズム、伸張する権威主義。リベラリズムが崩壊し、怒りの政治が展開する現在、その底流を抉り出す。
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2020/9/16
- ファイルサイズ6794 KB
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登録情報
- ASIN : B08HM17HLF
- 出版社 : 講談社 (2020/9/16)
- 発売日 : 2020/9/16
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 6794 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 279ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 84,023位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- - 451位政治入門
- - 485位政治 (Kindleストア)
- - 907位講談社現代新書
- カスタマーレビュー:
著者について
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東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒。日本貿易振興機構(JETRO)調査部、パリセンター調査ディレクターを経て、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。日本学術振興会特別研究員等を経て、北海道大学法学研究科/公共政策大学院教授、現在同志社大学政策学部教授。その間、パリ政治学院ジャパンチェア招聘教授、同非常勤講師、同フランス政治研究所客員研究員、ニューヨーク大学客員研究員。現在、フランス国立社会科学高等研究院(EHESS)日仏財団(FFJ)リサーチアソシエイト。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年3月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
一九六八年、当時を生きて過ごして来なかった自分には、その時代の経験をもった者の郷愁は持たない。筆者も一九七五年生まれだから当時存命だったわけではない。けれどフランスに詳しい先生だから回想ではなくつながりを理解していったのだろう。ずっしり詰まった構成で、わたしには個々文が正解なのだか言い得ているのか定かではなかったものの、自身の経験枠組以上の時間軸、世情に対し関係性を張り巡らせた主張を面白く読んだ贅沢な時間になった。しかし、経験以上、以外になにか本当に”わかった”と言える域にたどり着くなんてできるのだろうか?
2024年2月17日に日本でレビュー済み
吉田徹(1975年~)氏は、慶大法学部政治学科卒、東大大学院総合文化研究科修士課程修了、ドイツ研究振興協会DIGESⅡ修了、東大大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学、JETRO勤務、日本学術振興会特別研究員、北大法学研究科准教授・教授等を経て、同志社大学政策学部教授、フランス社会科学高等研究院日仏財団リサーチ・アソシエイト。専門は、比較政治・ヨーロッパ政治。
本書は、近年世界的に広がる、リベラルな政治の後退と権威主義的な政治の台頭に加えて、歴史認識問題の拡大、世俗化に伴うテロやヘイトクライムの頻発、個人が扇動する社会運動等について、歴史的な背景を含めて、それらが相互にどのように関連しているのかを、政治学・社会学的に考察したものである。尚、内容の多くは、いくつかの共著や専門誌に掲載された論文をベースに書き改められたもの。
私は、昨今のリベラルの限界を指摘する多くの言説に強い問題意識を抱いており、これまでにも、田中拓道『リベラルとは何か』、萱野稔人『リベラリズムの終わり』ほか、様々な本を読んできて、本書についてもその流れで手に取った。
読み終えて、正直なところ、新書としてはあまり理解しやすい本ではなかった。というのは、初出が(専門的な)論文である内容をまとめているため、各章のつながりが見えにくく、各種引用もかなり広く深いためと思われる。
私なりに本書から読み取った理解を記すと以下である。
◆第二次大戦後に世界に広まった「リベラル・デモクラシー(自由民主主義)」とは、個人の「自由」を尊重するリベラリズムと、個人間の「平等」を尊重するデモクラシーという、元来は相性の悪いものが合体して成立した。それは、リベラリズムが経済的側面(資本主義)を抑制し、デモクラシーが政治的側面(ファシズムや社会主義)を抑制するという、それぞれの原理のネガティブな側面を薄めることによって可能となった。リベラル・デモクラシーは、戦後成長の中で生まれた中間層が基盤となったが、成長の鈍化、将来展望の不透明化が進む現在、中間層は政治的な急進主義(非リベラルな民主主義)に引き寄せられている。
◆19世紀以降、政治は、階級社会の対立軸である「保守vs左派」という構図をとってきた。しかし、階級政治の終焉、「ポスト工業社会」への移行に伴い、人々の価値観は、物質主義から脱物質主義(社会的・文化的価値観)」に変化し、政治の命題も、「社会はいかにあるべきか(資源・物質の再配分)」から「個人はどうあるべきか(価値の再配分)」に変わった。同時に、それまで対立軸を作ってきた保革政党が、保守政党の社会政策におけるリベラル化と、社民政党の経済政策におけるリベラル化によって、「リベラル・コンセンサス」を成立させたことにより、リベラルと、経済リベラルに反感を持つ労働者層と政治リベラルに対抗的な価値を掲げるニューライトが組んだ反リベラルの対立軸、即ち、「リベラルvs権威主義」という対立軸が生まれることになった。
◆1970年代以降顕著になった歴史認識問題の拡大は、それまで基本的に「公的な物語」であった歴史が、戦後世代が社会の中心になるにつれて、バラバラの「私的な記憶」(場合によってはフェイクの)の集合体となったことに起因する。それに伴い、政治は、未来の理想を語るものではなく、過去がどうであったのか、どうあるべきだったのかを論じるものに成り下がっている。これはかつて勝ち組だった中間層が、過去を美化するポピュリズム政治に惹かれることにも繋がる。
◆現在先進国を襲うテロやヘイトクライムは、社会に宗教色が強まったことが原因ではない。かつては、教会や宗教指導者の権威が強く、宗教が個人を操作していたが、現代では、社会が個人化したことにより、所謂「ウーバー化(サービスの提供者と利用者が直接結びつき、仲介者の役割を排除すること)」が進み、個人が宗教を自分のために利用するようになった。宗教の原理主義化は、伝統的な宗教・信仰のあり方から個人が離反したことによって生じているのであり、単に宗教を批判・抑制しても問題はなくならない。
◆そういう意味で歴史的起点となったのは、1968年に世界中で起こった、伝統的な集団(階級、宗教、地域、ジェンダー等)からの個人の解放を求める、所謂「新しい社会運動」である。しかし、個人化・個人主義の進展は、反作用として、上記のような社会の変容をもたらし、また、新たな他人との結びつきや社会・集団の形成を必要とするようになっている。
◆リベラリズムは歴史的に、「政治リベラリズム」、「経済リベラリズム」、「個人主義リベラリズム」、「社会リベラリズム」、「寛容リベラリズム」の5つのレイヤーに分けられるが、上記のような現象は、5つのリベラリズム相互の不適応(バランスの欠如)によるものである。個人の尊重は重要だが、その行き過ぎは、他人との差異を際立たせ、社会に対立と分断を作ることに繋がりかねない。リベラリズムの最大の強みは、多様な意味を持ち、かつ、自らを刷新・進化させられることにある。まずは、個人主義リベラリズムと寛容リベラリズムの均衡と、経済リベラリズムと社会リベラリズムの均衡を、そして、人間性の剥奪に抵抗する、整合的なリベラリズムへの進化を目指す必要がある。
「リベラル」、「リベラリズム」について一冊だけ読むなら、敢えて本書である必要はないが、相応に問題意識を持つ向きには、複数のうちの一冊として読む価値はあるだろう。
(2024年2月了)
本書は、近年世界的に広がる、リベラルな政治の後退と権威主義的な政治の台頭に加えて、歴史認識問題の拡大、世俗化に伴うテロやヘイトクライムの頻発、個人が扇動する社会運動等について、歴史的な背景を含めて、それらが相互にどのように関連しているのかを、政治学・社会学的に考察したものである。尚、内容の多くは、いくつかの共著や専門誌に掲載された論文をベースに書き改められたもの。
私は、昨今のリベラルの限界を指摘する多くの言説に強い問題意識を抱いており、これまでにも、田中拓道『リベラルとは何か』、萱野稔人『リベラリズムの終わり』ほか、様々な本を読んできて、本書についてもその流れで手に取った。
読み終えて、正直なところ、新書としてはあまり理解しやすい本ではなかった。というのは、初出が(専門的な)論文である内容をまとめているため、各章のつながりが見えにくく、各種引用もかなり広く深いためと思われる。
私なりに本書から読み取った理解を記すと以下である。
◆第二次大戦後に世界に広まった「リベラル・デモクラシー(自由民主主義)」とは、個人の「自由」を尊重するリベラリズムと、個人間の「平等」を尊重するデモクラシーという、元来は相性の悪いものが合体して成立した。それは、リベラリズムが経済的側面(資本主義)を抑制し、デモクラシーが政治的側面(ファシズムや社会主義)を抑制するという、それぞれの原理のネガティブな側面を薄めることによって可能となった。リベラル・デモクラシーは、戦後成長の中で生まれた中間層が基盤となったが、成長の鈍化、将来展望の不透明化が進む現在、中間層は政治的な急進主義(非リベラルな民主主義)に引き寄せられている。
◆19世紀以降、政治は、階級社会の対立軸である「保守vs左派」という構図をとってきた。しかし、階級政治の終焉、「ポスト工業社会」への移行に伴い、人々の価値観は、物質主義から脱物質主義(社会的・文化的価値観)」に変化し、政治の命題も、「社会はいかにあるべきか(資源・物質の再配分)」から「個人はどうあるべきか(価値の再配分)」に変わった。同時に、それまで対立軸を作ってきた保革政党が、保守政党の社会政策におけるリベラル化と、社民政党の経済政策におけるリベラル化によって、「リベラル・コンセンサス」を成立させたことにより、リベラルと、経済リベラルに反感を持つ労働者層と政治リベラルに対抗的な価値を掲げるニューライトが組んだ反リベラルの対立軸、即ち、「リベラルvs権威主義」という対立軸が生まれることになった。
◆1970年代以降顕著になった歴史認識問題の拡大は、それまで基本的に「公的な物語」であった歴史が、戦後世代が社会の中心になるにつれて、バラバラの「私的な記憶」(場合によってはフェイクの)の集合体となったことに起因する。それに伴い、政治は、未来の理想を語るものではなく、過去がどうであったのか、どうあるべきだったのかを論じるものに成り下がっている。これはかつて勝ち組だった中間層が、過去を美化するポピュリズム政治に惹かれることにも繋がる。
◆現在先進国を襲うテロやヘイトクライムは、社会に宗教色が強まったことが原因ではない。かつては、教会や宗教指導者の権威が強く、宗教が個人を操作していたが、現代では、社会が個人化したことにより、所謂「ウーバー化(サービスの提供者と利用者が直接結びつき、仲介者の役割を排除すること)」が進み、個人が宗教を自分のために利用するようになった。宗教の原理主義化は、伝統的な宗教・信仰のあり方から個人が離反したことによって生じているのであり、単に宗教を批判・抑制しても問題はなくならない。
◆そういう意味で歴史的起点となったのは、1968年に世界中で起こった、伝統的な集団(階級、宗教、地域、ジェンダー等)からの個人の解放を求める、所謂「新しい社会運動」である。しかし、個人化・個人主義の進展は、反作用として、上記のような社会の変容をもたらし、また、新たな他人との結びつきや社会・集団の形成を必要とするようになっている。
◆リベラリズムは歴史的に、「政治リベラリズム」、「経済リベラリズム」、「個人主義リベラリズム」、「社会リベラリズム」、「寛容リベラリズム」の5つのレイヤーに分けられるが、上記のような現象は、5つのリベラリズム相互の不適応(バランスの欠如)によるものである。個人の尊重は重要だが、その行き過ぎは、他人との差異を際立たせ、社会に対立と分断を作ることに繋がりかねない。リベラリズムの最大の強みは、多様な意味を持ち、かつ、自らを刷新・進化させられることにある。まずは、個人主義リベラリズムと寛容リベラリズムの均衡と、経済リベラリズムと社会リベラリズムの均衡を、そして、人間性の剥奪に抵抗する、整合的なリベラリズムへの進化を目指す必要がある。
「リベラル」、「リベラリズム」について一冊だけ読むなら、敢えて本書である必要はないが、相応に問題意識を持つ向きには、複数のうちの一冊として読む価値はあるだろう。
(2024年2月了)
2020年11月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
蛍光ペンのインクが途中でなくなるほど線を引きながら読んだ。自分がここ数年薄々感じていたリベラルに対する疑問が気持ちよいくらいスッキリ解けた。ほとんど洗脳が解除された気分である。
高度経済成長、東西冷戦のさなかに義務教育を受けた人間にとってリベラル・デモクラシーは人類が二度の戦争を経て手にした尊いものという刷り込みがある。ちょうど成人したころに東西冷戦が終了し、リベラル・デモクラシーの最終勝利を宣言したフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』がベストセラーになった。
あれから30年、リベラル・デモクラシーはあらゆる先進国で衰退し、その最大の旗振り役であったアメリカが修復は不可能ではないかと思えるほどに分断され、権威主義の大国が覇権を広げつつある。このような状況のなか「リベラル・デモクラシーはなぜ劣化したのか」を問う書物が多く出された。
しかしそもそもこの問いが間違っていたのだ。リベラル・デモクラシーは劣化したリベラルと劣化したデモクラシーの妥協の産物であり、人類の叡智のとりあえずの到達点ですらなく、期間限定のクーポン券(しかも期限きれてる)みたいなものだったのだ。
「一般的にリベラリズムは個人の自由を、デモクラシーは個人間の平等を尊重するゆえに相性が悪いとされる」。しかし「リベラル・デモクラシーは・・・双方のネガティブな面――リベラリズムと資本主義の結びつき、デモクラシーの人民主義的側面――を抑制することで成り立った。そして、この取引が可能になったからこそ、不自然な組み合わせとのリベラル・デモクラシーが戦後にはじめて安定したのだ」。
ではなぜこのような「取引」が可能になったのか。本書はそれを「二つの条件が奇跡的に出揃ったから」と説明する。一つは「放っておけば衝突する資本主義と民主主義を、社民的な国家が媒介したから」。もうひとつが「冷戦構造がこうした戦後コンセンサスを背後から支えた」から。ここでいう「戦後コンセンサス」とは「戦前の野放図な資本主義の負の効果、市場の暴走を国家が公共部門や社会保障を通じて修正し、戦後復興による経済の果実が再分配されることを企図する」というものだ。
この「戦後コンセンサス」はアングロサクソンが戦勝国となったことで「リベラル・デモクラシー」という名で「事後的に」正当化された。一方で、戦争からの復興の過程、つまり「経済リベラリズム(ブルジョワのリベラリズム)と人民民主主義(労働者のデモクラシー)」の妥協によって」生まれた中間層が「史上はじめて社会の多数派に」なり、「リベラル・デモクラシーの果実の受益者となるとともに、その担い手となった」。
この「分厚い中間層」の出現により、「階級」が政治的に意味を持たなくなる。不平等や貧困は「政治を通じてその解消が実現されなくとも、経済発展と生産活動の拡大による分配が行き渡ればそれが可能になる」からだ。その結果、「左派による生産手段の国有化と保守の私的所有権の擁護」は政治的な争点ではなくなり、1980年代に入るころから先進国における選挙公約には「非経済的争点」が「経済的争点」を上回るようになっていく。
政治に文化的次元、脱物質的次元が加わることによって争点の対立軸が変容していくのは必然の流れだったが、「重要なのは、リベラルな価値と結びつくとされてきた脱物質主義が、実際には、権威主義的次元を伴っているという視点」だと著者は指摘する。さらに「権威主義的政治は左派[労働者の権利]、政治的リベラル[マイノリティの権利、個人の自己決定、寛容]、新自由主義[個人が市場を通じて能力を最大化する権利、いわゆるネオリベ]とそれに対立する潮流の新たなオルタナティブとして現れた」とし、「これは戦前のコミュニズム、議会エリート、資本階級をファシズムが攻撃した構図と類似している」と続ける。
そうやって生まれてきた「オルタナ右翼」「ニューライト」のちの「極右ポピュリスト」とよばれる層を伸張させた保革政党がそれぞれにリベラル化して対立軸を収斂させていった「リベラル・コンセンサス」である。経済リベラリズムを国の介入によって抑制しつつ復興の果実を平等に分配していこうという「戦後コンセンサス」は、中間層のマジョリティ化による階級政治の後退により、「富の分配」から「価値の分配」へと政治の争点が移るなかで、「リベラル・コンセンサス」に帰着した。それはまた高所得者の支持する保守と高学歴者の支持する左派による「複合エリート」政治であった。このリベラル・コンセンサスが完成していくのと並行して、グローバル化や産業構造の変化により、先進国において製造業が衰退し、中間層が没落していく。この中間層のニーズにこたえる政党はもはやなく、彼らがニューライトやポピュリズムの温床となっていく。「『国家』と『平等』の組合せは、今、権威主義政治として生まれつつある」。
個人の解放というリベラルな論理やそれに基づいた制度がそこからはみ出す人を生み、個人の自由をむしろ制限する権威主義的に向かわせた。その転換点は1968年だったというのが著者の見立てである。1968年にはフランスの「68年革命」をはじめとする学生や労働者による大規模な抗議運動が全世界で同時多発的に進行した。その担い手となったのは戦後生まれ世代、日本でいえば「団塊の世代」でありアメリカでいえば「ベビーブーマー」である。彼らにとっての争点は賃金や雇用ではなくアイデンティティや自己決定権などの非経済的価値だった。彼らの「新しい社会運動」は「組織と集団を否定し、個人を解放」することを目指した。敗戦国であった日本や西独においてそれは戦勝国(米英)によって強烈に刷り込まれた意識であったが、それを両国市民は喜んで受け入れ、「リベラル・デモクラシーが支配的な価値となった。
リベラルな価値を掲げた「新しい社会運動」は個人の承認欲求や自己実現欲求によって駆動されているものであり、社会運動といいながら、つまるところ「個人運動」の束であった。したがって、「何か具体的なことを実現するよりは、何か共有されたイメージを提示することを目的とするもの」でしかなくもはや運動というよりも現象に近いものとなる。本書でもっとも強調されているといっていいのが、こうした一連の運動というか現象に対するカウンターとして生まれてきたのがニューライトであるという説である。
「集団や組織が否定されて個人が優先されれば、その個人の間を取り持つのは赤裸々な権力関係でしかない。人間関係を左右するのが暴力でなければ、後は社会資本的資本や経済的資本が権力関係を左右することになる。・・・個人によって構成される社会は、個人の間に不可避的に横たわる不平等を埋める制度や手立て、組織を失うことになる」。
それによって生じた不安や理不尽を埋めるものとして権威主義に救いを求める層がニューライトである。リベラル・デモクラシーを標榜する新左翼とニューライト、そしてその「対立軸の間隙を突いて1970年代後半から80年代にかけて誕生したのは、新自由主義」だった。俗にネオリベと呼ばれる彼らは「個人の能力を最大化させることで、市場と社会の活力を取り戻す」ことを是とした。
乱暴だがわかりやすくいえば、日本では朝日新聞とほぼ日VS日本会議VSホリエモンみたいなことだろう。本書ではニューライトやネオリベの起源を68年革命に求めているが、もうひとつ重要な指摘は「68年革命が生んだ個人主義と消費資本主義は親和的な関係にある」ということだ。「抗議や抵抗を個人的なものだとした68年革命の精神が、組織的・集団的な抗議を忌避」した結果、消費資本主義に取り込まれるしかなかった。わかりやすい例として、管理社会の象徴としての制服を廃止した結果、若者たちがブランドや流行に走って自らを誇示するようになったという流れである。抗議や抵抗すらも「アピールの場であり、企業ブランドの価値向上の機会でしかない」。#MeTooやBLMやLGBTQ運動など、異論はなくむしろ共感を覚えつつもどこかフルコミットできないもどかしさがずっとあったが、その理由はここにあった。
「自己決定権そのものについての賛否と、その自己決定権による社会変容の成否は分けて議論しなければならない。・・・個人が幸せになることと、社会で正義がなされることは、地続きであるにせよ、完全に等価ではない余地が残る。・・・最終的に声が大きいもの・・・が社会的な正義として大手を振ることになる」。
そんななかで結局は保革の「複合エリート」が正義や正論をがなりたてて社会の分断を深めている。誰だって切り取り方によってはマイノリティだ。そのマイノリティ性につけこんで自分たちの運動に引き込もうとする勢力がある。その運動の目的は世直しをうたったセルフブランディングやアイデンティティ政治だったりして、そこがリベラルのうさん臭さんにつながっているのではないか。
誰もがマイノリティになりうるという前提でいえばマイノリティに必要なのは「自らがマイノリティであることを一度相対化し、マイノリティであるという属性から自由になったうえで、何を選択するのかという主体性を取り戻すこと」にあるという著者の指摘には完全に同意する。これは「自己リテラシー」ともいえるものだ。本当は自身のごく一部にすぎないマイノリティ性に依拠したアイデンティ対する承認を市場(SNSも含め)に求めるとき、「それはあえて美化されたり賞賛されたりする」だけでなく他のアイデンティティと衝突さえする。だから「ダイバーシティ」を声高に唱える人ほど「非寛容」という矛盾が起きる。「特定の集団や民族の属性のみを寛容の基準としたため、マジョリティによる不寛容を生み、敵対性を強めていく」とう現象がいま起きていることだ。
著者はこうした矛盾に容赦なく切り込んでいく。「個人が伝統的な集団(階級、宗教、地域、ジェンダーなど)から解放されればされるほどに、不安定で脆弱な存在になりえる」がゆえに「個人化が進むほどに新しい社会が要請されることになる」。そこに権威主義の入り込む大きな隙間ができる。本書の終章に出てくるホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』に沿って言えば、その隙間はリベラルが用意した。つまり野蛮は啓蒙に内在していたのである。
つまり「戦後にできあがったリベラル・デモクラシーの核となった中間層は68年以降の学生・労働運動とグローバル化によって解体され、それに付随してリベラルな価値観・文化的価値に基づく政治が生まれ、これに対する反作用から、政治のコンテンツそのものの変遷が歴史認識問題やテロとして生じている」ということになる。
本書の歴史認識についての章(第3章)はそれだけで別のレビューが1本かけてしまうほど興味深いものだったが、ここでとくに印象に残ったのは、「ホロコーストの問題が世界で広く認識されるようになったのは1980年代に入ってから」「『被害者』としてのドイツの記憶が語られ始めたのは冷戦が終わった1990年代だった」という話だ。「戦中に民衆が受けた苦しみと屈辱のすべてをナチスに責任を負わせることで、自らがユダヤ人を加害した記憶を忘却することができる」からだと著者は指摘する。日本の場合はいまだに「被害者」としての記憶がきちんと語られていない。ポスト冷戦期はそれまでの反共イデオロギーが後退して歴史の記憶がせり出してきた。著者は「記憶をめぐる問題はこれからも強度を増していき、世界の歴史認識をめぐる争点は内外で増えていくだろう」と指摘する。
といって、著者はリベラルをディスるために本書を書いたのではない。リベラリズム再生の提案もしている。そのひとつが「人びとの間の違いではなく、何を共通としているのかについての合意を得る努力を続けること」だ。つまり分かり合えない人間と対話を続ける努力である。「政治とは、異なる者との間の共存を可能にするための営みのことだ。そうであるならば、必然的に対話の契機が含まれていなければならない」。
あるべき理想を説くために常に誰かを悪者・敵にしたてあげるのではなく、自分を理解するためのリテラシー、他者と理解し合うため(あるいは対立し続けないため)の対話こそがいま求められている。
高度経済成長、東西冷戦のさなかに義務教育を受けた人間にとってリベラル・デモクラシーは人類が二度の戦争を経て手にした尊いものという刷り込みがある。ちょうど成人したころに東西冷戦が終了し、リベラル・デモクラシーの最終勝利を宣言したフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』がベストセラーになった。
あれから30年、リベラル・デモクラシーはあらゆる先進国で衰退し、その最大の旗振り役であったアメリカが修復は不可能ではないかと思えるほどに分断され、権威主義の大国が覇権を広げつつある。このような状況のなか「リベラル・デモクラシーはなぜ劣化したのか」を問う書物が多く出された。
しかしそもそもこの問いが間違っていたのだ。リベラル・デモクラシーは劣化したリベラルと劣化したデモクラシーの妥協の産物であり、人類の叡智のとりあえずの到達点ですらなく、期間限定のクーポン券(しかも期限きれてる)みたいなものだったのだ。
「一般的にリベラリズムは個人の自由を、デモクラシーは個人間の平等を尊重するゆえに相性が悪いとされる」。しかし「リベラル・デモクラシーは・・・双方のネガティブな面――リベラリズムと資本主義の結びつき、デモクラシーの人民主義的側面――を抑制することで成り立った。そして、この取引が可能になったからこそ、不自然な組み合わせとのリベラル・デモクラシーが戦後にはじめて安定したのだ」。
ではなぜこのような「取引」が可能になったのか。本書はそれを「二つの条件が奇跡的に出揃ったから」と説明する。一つは「放っておけば衝突する資本主義と民主主義を、社民的な国家が媒介したから」。もうひとつが「冷戦構造がこうした戦後コンセンサスを背後から支えた」から。ここでいう「戦後コンセンサス」とは「戦前の野放図な資本主義の負の効果、市場の暴走を国家が公共部門や社会保障を通じて修正し、戦後復興による経済の果実が再分配されることを企図する」というものだ。
この「戦後コンセンサス」はアングロサクソンが戦勝国となったことで「リベラル・デモクラシー」という名で「事後的に」正当化された。一方で、戦争からの復興の過程、つまり「経済リベラリズム(ブルジョワのリベラリズム)と人民民主主義(労働者のデモクラシー)」の妥協によって」生まれた中間層が「史上はじめて社会の多数派に」なり、「リベラル・デモクラシーの果実の受益者となるとともに、その担い手となった」。
この「分厚い中間層」の出現により、「階級」が政治的に意味を持たなくなる。不平等や貧困は「政治を通じてその解消が実現されなくとも、経済発展と生産活動の拡大による分配が行き渡ればそれが可能になる」からだ。その結果、「左派による生産手段の国有化と保守の私的所有権の擁護」は政治的な争点ではなくなり、1980年代に入るころから先進国における選挙公約には「非経済的争点」が「経済的争点」を上回るようになっていく。
政治に文化的次元、脱物質的次元が加わることによって争点の対立軸が変容していくのは必然の流れだったが、「重要なのは、リベラルな価値と結びつくとされてきた脱物質主義が、実際には、権威主義的次元を伴っているという視点」だと著者は指摘する。さらに「権威主義的政治は左派[労働者の権利]、政治的リベラル[マイノリティの権利、個人の自己決定、寛容]、新自由主義[個人が市場を通じて能力を最大化する権利、いわゆるネオリベ]とそれに対立する潮流の新たなオルタナティブとして現れた」とし、「これは戦前のコミュニズム、議会エリート、資本階級をファシズムが攻撃した構図と類似している」と続ける。
そうやって生まれてきた「オルタナ右翼」「ニューライト」のちの「極右ポピュリスト」とよばれる層を伸張させた保革政党がそれぞれにリベラル化して対立軸を収斂させていった「リベラル・コンセンサス」である。経済リベラリズムを国の介入によって抑制しつつ復興の果実を平等に分配していこうという「戦後コンセンサス」は、中間層のマジョリティ化による階級政治の後退により、「富の分配」から「価値の分配」へと政治の争点が移るなかで、「リベラル・コンセンサス」に帰着した。それはまた高所得者の支持する保守と高学歴者の支持する左派による「複合エリート」政治であった。このリベラル・コンセンサスが完成していくのと並行して、グローバル化や産業構造の変化により、先進国において製造業が衰退し、中間層が没落していく。この中間層のニーズにこたえる政党はもはやなく、彼らがニューライトやポピュリズムの温床となっていく。「『国家』と『平等』の組合せは、今、権威主義政治として生まれつつある」。
個人の解放というリベラルな論理やそれに基づいた制度がそこからはみ出す人を生み、個人の自由をむしろ制限する権威主義的に向かわせた。その転換点は1968年だったというのが著者の見立てである。1968年にはフランスの「68年革命」をはじめとする学生や労働者による大規模な抗議運動が全世界で同時多発的に進行した。その担い手となったのは戦後生まれ世代、日本でいえば「団塊の世代」でありアメリカでいえば「ベビーブーマー」である。彼らにとっての争点は賃金や雇用ではなくアイデンティティや自己決定権などの非経済的価値だった。彼らの「新しい社会運動」は「組織と集団を否定し、個人を解放」することを目指した。敗戦国であった日本や西独においてそれは戦勝国(米英)によって強烈に刷り込まれた意識であったが、それを両国市民は喜んで受け入れ、「リベラル・デモクラシーが支配的な価値となった。
リベラルな価値を掲げた「新しい社会運動」は個人の承認欲求や自己実現欲求によって駆動されているものであり、社会運動といいながら、つまるところ「個人運動」の束であった。したがって、「何か具体的なことを実現するよりは、何か共有されたイメージを提示することを目的とするもの」でしかなくもはや運動というよりも現象に近いものとなる。本書でもっとも強調されているといっていいのが、こうした一連の運動というか現象に対するカウンターとして生まれてきたのがニューライトであるという説である。
「集団や組織が否定されて個人が優先されれば、その個人の間を取り持つのは赤裸々な権力関係でしかない。人間関係を左右するのが暴力でなければ、後は社会資本的資本や経済的資本が権力関係を左右することになる。・・・個人によって構成される社会は、個人の間に不可避的に横たわる不平等を埋める制度や手立て、組織を失うことになる」。
それによって生じた不安や理不尽を埋めるものとして権威主義に救いを求める層がニューライトである。リベラル・デモクラシーを標榜する新左翼とニューライト、そしてその「対立軸の間隙を突いて1970年代後半から80年代にかけて誕生したのは、新自由主義」だった。俗にネオリベと呼ばれる彼らは「個人の能力を最大化させることで、市場と社会の活力を取り戻す」ことを是とした。
乱暴だがわかりやすくいえば、日本では朝日新聞とほぼ日VS日本会議VSホリエモンみたいなことだろう。本書ではニューライトやネオリベの起源を68年革命に求めているが、もうひとつ重要な指摘は「68年革命が生んだ個人主義と消費資本主義は親和的な関係にある」ということだ。「抗議や抵抗を個人的なものだとした68年革命の精神が、組織的・集団的な抗議を忌避」した結果、消費資本主義に取り込まれるしかなかった。わかりやすい例として、管理社会の象徴としての制服を廃止した結果、若者たちがブランドや流行に走って自らを誇示するようになったという流れである。抗議や抵抗すらも「アピールの場であり、企業ブランドの価値向上の機会でしかない」。#MeTooやBLMやLGBTQ運動など、異論はなくむしろ共感を覚えつつもどこかフルコミットできないもどかしさがずっとあったが、その理由はここにあった。
「自己決定権そのものについての賛否と、その自己決定権による社会変容の成否は分けて議論しなければならない。・・・個人が幸せになることと、社会で正義がなされることは、地続きであるにせよ、完全に等価ではない余地が残る。・・・最終的に声が大きいもの・・・が社会的な正義として大手を振ることになる」。
そんななかで結局は保革の「複合エリート」が正義や正論をがなりたてて社会の分断を深めている。誰だって切り取り方によってはマイノリティだ。そのマイノリティ性につけこんで自分たちの運動に引き込もうとする勢力がある。その運動の目的は世直しをうたったセルフブランディングやアイデンティティ政治だったりして、そこがリベラルのうさん臭さんにつながっているのではないか。
誰もがマイノリティになりうるという前提でいえばマイノリティに必要なのは「自らがマイノリティであることを一度相対化し、マイノリティであるという属性から自由になったうえで、何を選択するのかという主体性を取り戻すこと」にあるという著者の指摘には完全に同意する。これは「自己リテラシー」ともいえるものだ。本当は自身のごく一部にすぎないマイノリティ性に依拠したアイデンティ対する承認を市場(SNSも含め)に求めるとき、「それはあえて美化されたり賞賛されたりする」だけでなく他のアイデンティティと衝突さえする。だから「ダイバーシティ」を声高に唱える人ほど「非寛容」という矛盾が起きる。「特定の集団や民族の属性のみを寛容の基準としたため、マジョリティによる不寛容を生み、敵対性を強めていく」とう現象がいま起きていることだ。
著者はこうした矛盾に容赦なく切り込んでいく。「個人が伝統的な集団(階級、宗教、地域、ジェンダーなど)から解放されればされるほどに、不安定で脆弱な存在になりえる」がゆえに「個人化が進むほどに新しい社会が要請されることになる」。そこに権威主義の入り込む大きな隙間ができる。本書の終章に出てくるホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』に沿って言えば、その隙間はリベラルが用意した。つまり野蛮は啓蒙に内在していたのである。
つまり「戦後にできあがったリベラル・デモクラシーの核となった中間層は68年以降の学生・労働運動とグローバル化によって解体され、それに付随してリベラルな価値観・文化的価値に基づく政治が生まれ、これに対する反作用から、政治のコンテンツそのものの変遷が歴史認識問題やテロとして生じている」ということになる。
本書の歴史認識についての章(第3章)はそれだけで別のレビューが1本かけてしまうほど興味深いものだったが、ここでとくに印象に残ったのは、「ホロコーストの問題が世界で広く認識されるようになったのは1980年代に入ってから」「『被害者』としてのドイツの記憶が語られ始めたのは冷戦が終わった1990年代だった」という話だ。「戦中に民衆が受けた苦しみと屈辱のすべてをナチスに責任を負わせることで、自らがユダヤ人を加害した記憶を忘却することができる」からだと著者は指摘する。日本の場合はいまだに「被害者」としての記憶がきちんと語られていない。ポスト冷戦期はそれまでの反共イデオロギーが後退して歴史の記憶がせり出してきた。著者は「記憶をめぐる問題はこれからも強度を増していき、世界の歴史認識をめぐる争点は内外で増えていくだろう」と指摘する。
といって、著者はリベラルをディスるために本書を書いたのではない。リベラリズム再生の提案もしている。そのひとつが「人びとの間の違いではなく、何を共通としているのかについての合意を得る努力を続けること」だ。つまり分かり合えない人間と対話を続ける努力である。「政治とは、異なる者との間の共存を可能にするための営みのことだ。そうであるならば、必然的に対話の契機が含まれていなければならない」。
あるべき理想を説くために常に誰かを悪者・敵にしたてあげるのではなく、自分を理解するためのリテラシー、他者と理解し合うため(あるいは対立し続けないため)の対話こそがいま求められている。