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ダライ・ラマ大乗の瞑想法 単行本 – 2003/7/1
- 本の長さ269ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日2003/7/1
- ISBN-104393133382
- ISBN-13978-4393133385
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
インドからチベットへ伝わった大乗の伝統的瞑想法に関する本格的な解説書。瞑想法の根本テキスト「修習次第(瞑想の手順)」を、ダライ・ラマが自らの瞑想体験に照らして読み解く。
登録情報
- 出版社 : 春秋社 (2003/7/1)
- 発売日 : 2003/7/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 269ページ
- ISBN-10 : 4393133382
- ISBN-13 : 978-4393133385
- Amazon 売れ筋ランキング: - 649,703位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年2月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ヨガを学ぶにはもってこいのバイブル、瞑想のことをじっくり学べそうです。
2010年11月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ダライラマによる仏教実践の教えの本です。たんなる瞑想技法のハウツー的な本ではなくて、仏教の精神をしっかり理解できるように構成されています。仏教として、根本的に重要な慈しみの心、菩薩心について、ダライラマが説いています。
仏教を実践的な観点から、取り組むための重要な著作です。
根本テキスト「修習次第」の貴重な翻訳が巻末におさめられています。
仏教を実践的な観点から、取り組むための重要な著作です。
根本テキスト「修習次第」の貴重な翻訳が巻末におさめられています。
2004年11月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
瞑想の意義や方法について、言葉で表現できる限りのことが記されている。
しかし、日々の生活において本当の瞑想を実践していくには、やはり活字による知識だけでは、全体の1割も体得できないと感じる。
対象の捉え方、自分との距離のおき方について、方法のひとつとして学ぶところは多いが、書籍として伝えていくには無理の多い内容だ。
しかし、日々の生活において本当の瞑想を実践していくには、やはり活字による知識だけでは、全体の1割も体得できないと感じる。
対象の捉え方、自分との距離のおき方について、方法のひとつとして学ぶところは多いが、書籍として伝えていくには無理の多い内容だ。
2009年10月24日に日本でレビュー済み
カマラシーラと言えば、サムイェー宗論で中国禅僧の摩訶衍を論破したことで有名であるが、世俗諦の観点に絞った現実の議論を展開するカマラシーラに対して、世俗諦と勝義諦の二諦を用いて議論しようとした摩訶衍が二諦の背反性(i.e. 世俗諦は衆生の観点、勝義諦は如来の観点)を突かれて自滅したのが事実だと思われる。
世俗諦は衆生が修行によって智慧を獲得して仏・如来となるための真理であり、勝義諦は如来が慈悲によって衆生を励ますための真理であるから、現実の事例を議論の対象とする場合は、世俗諦を土俵としなければならない。それに気づかなかった摩訶衍は未熟だった訳である。実際に、凡夫が四沙門果(or 菩薩)に向かう決意をするまでが勝義諦の役目であり、行動を開始した凡夫には世俗諦が道標となる。
ダライ・ラマの著作を丁寧に読むのは本書が初めてであるが、カマラシーラが伝えようとしている内容は、大乗仏教特有の言葉や表現に惑わされなければ、ブッダ釈尊の教法と同じであることが分かった。つまり、ブッダ釈尊が五比丘に対して初転法輪を説いたように、カマラシーラはチベットの比丘に対して初転法輪を説いたのである。
本書の核心である「集中の瞑想(止)」と「深い洞察の瞑想(観)」は、大乗特有の言葉と表現方法によって複雑で難しい説明となっているが、ブッダ釈尊の『Anapana-Sati Sutta』(前半の漢訳は『安那般那念経(雑阿含経803)』)と対比すれば、もっと簡単な説明が可能になる。
『Anapana-Sati Sutta』は、1)カーヤ(身体・呼吸体)を対象とする瞑想、2)ウェダナー(感情)を対象とする瞑想、3)チッタ(心)を対象とする瞑想、4)ダンマ(五蘊に対する四聖諦)を対象とする瞑想、の4段階からなり、各段階はさらに4ステップからなる。第1段階の第4ステップで「仮想の像(ニミッタ)」(空海はこれを明星と表現した)が現れる所までが、「集中の瞑想(止)」である。第2〜4段階は「深い洞察の瞑想(観)」である。21世紀はこうした比較対象により、ブッダ釈尊の教法を明確にすることが望まれる。
世俗諦は衆生が修行によって智慧を獲得して仏・如来となるための真理であり、勝義諦は如来が慈悲によって衆生を励ますための真理であるから、現実の事例を議論の対象とする場合は、世俗諦を土俵としなければならない。それに気づかなかった摩訶衍は未熟だった訳である。実際に、凡夫が四沙門果(or 菩薩)に向かう決意をするまでが勝義諦の役目であり、行動を開始した凡夫には世俗諦が道標となる。
ダライ・ラマの著作を丁寧に読むのは本書が初めてであるが、カマラシーラが伝えようとしている内容は、大乗仏教特有の言葉や表現に惑わされなければ、ブッダ釈尊の教法と同じであることが分かった。つまり、ブッダ釈尊が五比丘に対して初転法輪を説いたように、カマラシーラはチベットの比丘に対して初転法輪を説いたのである。
本書の核心である「集中の瞑想(止)」と「深い洞察の瞑想(観)」は、大乗特有の言葉と表現方法によって複雑で難しい説明となっているが、ブッダ釈尊の『Anapana-Sati Sutta』(前半の漢訳は『安那般那念経(雑阿含経803)』)と対比すれば、もっと簡単な説明が可能になる。
『Anapana-Sati Sutta』は、1)カーヤ(身体・呼吸体)を対象とする瞑想、2)ウェダナー(感情)を対象とする瞑想、3)チッタ(心)を対象とする瞑想、4)ダンマ(五蘊に対する四聖諦)を対象とする瞑想、の4段階からなり、各段階はさらに4ステップからなる。第1段階の第4ステップで「仮想の像(ニミッタ)」(空海はこれを明星と表現した)が現れる所までが、「集中の瞑想(止)」である。第2〜4段階は「深い洞察の瞑想(観)」である。21世紀はこうした比較対象により、ブッダ釈尊の教法を明確にすることが望まれる。
2007年10月16日に日本でレビュー済み
「瞑想」というものをしてみたいけれど、どうしたらいいものかと
なかなか始めることができない人もいらっしゃるのではないでしょうか?
また、そもそも「瞑想とはどのようなものなのか?」と思ってる人もいるかと思います。
この本ではあのダライラマ法王が自ら、瞑想の方法を分かりやすく説明しています。
このような類いの本は難しい仏教用語が出てきたりするものが多いのですが
この本は本当に易しい言葉で書かれています。
ダライラマや仏教関係の書籍は沢山ありますが、入門書としてこれはオススメです。
瞑想法は人それぞれ。でも、あのダライラマ法王が説く瞑想の心得には一度は目を通す価値は
十分にあるのではないでしょうか?
とても重要なエッセンスが含まれているように感じました。
瞑想を実際に出来なくても、日々の生活にも役立ちそうな言葉がたくさんつまっていますよ。
私は折に触れ、そういえばこんな状況のことについて書かれていたなあ、と思い出しては
時々ページを開いています。
なかなか始めることができない人もいらっしゃるのではないでしょうか?
また、そもそも「瞑想とはどのようなものなのか?」と思ってる人もいるかと思います。
この本ではあのダライラマ法王が自ら、瞑想の方法を分かりやすく説明しています。
このような類いの本は難しい仏教用語が出てきたりするものが多いのですが
この本は本当に易しい言葉で書かれています。
ダライラマや仏教関係の書籍は沢山ありますが、入門書としてこれはオススメです。
瞑想法は人それぞれ。でも、あのダライラマ法王が説く瞑想の心得には一度は目を通す価値は
十分にあるのではないでしょうか?
とても重要なエッセンスが含まれているように感じました。
瞑想を実際に出来なくても、日々の生活にも役立ちそうな言葉がたくさんつまっていますよ。
私は折に触れ、そういえばこんな状況のことについて書かれていたなあ、と思い出しては
時々ページを開いています。