今触れているスマホやメモ、電子書籍、そしてコパイロット。これら全てがわたしを「サイボーグ化」するためのアップグレードだったという考えは面白い。外的な記憶記録媒体を持っておくことは役立つだろうとは元々思っていたが、まだそれは、わたしという生身の肉体を本質と捉えた考え方だった。「道具はわたしたちである」というメッセージは強烈だった。
何かと混ざりあい、境界線をぼやかせるために、わたしは道具として優秀だったのだ。なぜわざわざこんな「エントロピーを下げる」ことにつながる人間が産まれたのだろうと不思議だったが、回答の方向性も見えてきた。何かとうまく融合する機能に特化した個体ないし群を系に投入すれば、ゆくゆくは、それらがさらに多様で乱雑な系へと変容していき、結果的にエントロピーは増大するのだろう。神はそれを期待し、投資の意味を込めて我々人間を設計し製造したのだと考えれば、なんとなく筋が通る気がする。
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生まれながらのサイボーグ: 心・テクノロジー・知能の未来 (現代哲学への招待 Great Works) 単行本 – 2015/7/24
最新テクノロジーと人間の融合のもたらす未来を探究し、「人間の本質」に肉薄する、まさに現代人のための哲学。
- 本の長さ400ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日2015/7/24
- 寸法13.6 x 2.5 x 19.6 cm
- ISBN-104393323521
- ISBN-13978-4393323526
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商品の説明
出版社からのコメント
著者について
[著者] アンディ・クラーク(Andy Clark)
1957年生まれ。英国スコットランドのスターリング大学を卒業。同大学でDPhil. を取得。グラスゴー大学やサセックス大学ほかで教鞭を執ったのち、現在は、エジンバラ大学哲学教授(論理学・形而上学講座)。専門は、認知科学の哲学および心の哲学、とりわけ身体性認知科学の世界的リーダー。邦訳のある著書に『認知の微視的構造――哲学、認知科学、PDPモデル』(産業図書、1997年)、『現れる存在――脳と身体と世界の再統合』(NTT出版、2012年)がある。
[訳者] 呉羽 真(Makoto Kureha)
1983年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、京都大学宇宙総合学研究ユニット特定研究員。専門は心の哲学、宇宙倫理学など多数。論文に、「ジェイムズの意識論とその現代的意義」(『現象学年報』第31号、2015年刊行予定)、その他の業績に、「犬の飼い方について」(『αシノドス』第164号、2015年)など。
[訳者] 久木田 水生(Minao Kukita)
1973年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、名古屋大学大学院情報科学研究科准教授。専門は哲学、倫理学。著書に、『科学技術をよく考える』(共著、名古屋大学出版会、2013年)、論文に、「ロボット倫理学の可能性」(『PROSPECTUS』第11号、2008年、1-10)など。
[訳者] 西尾 香苗(Kanae Nishio)
京都大学大学院理学研究科博士課程中退。生物系翻訳者。訳書に、ナム『超人類へ! 』(インターシフト/河出書房新社、2006年)、モレノ『マインド・ウォーズ』(共訳、アスキー・メディアワークス、2008年)、スミソニアン協会監修『地球博物学大図鑑』(共訳、東京書籍、2012年)、国際生物種探査研究所『新種の冒険』(朝日新聞出版、2015年)など。
1957年生まれ。英国スコットランドのスターリング大学を卒業。同大学でDPhil. を取得。グラスゴー大学やサセックス大学ほかで教鞭を執ったのち、現在は、エジンバラ大学哲学教授(論理学・形而上学講座)。専門は、認知科学の哲学および心の哲学、とりわけ身体性認知科学の世界的リーダー。邦訳のある著書に『認知の微視的構造――哲学、認知科学、PDPモデル』(産業図書、1997年)、『現れる存在――脳と身体と世界の再統合』(NTT出版、2012年)がある。
[訳者] 呉羽 真(Makoto Kureha)
1983年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、京都大学宇宙総合学研究ユニット特定研究員。専門は心の哲学、宇宙倫理学など多数。論文に、「ジェイムズの意識論とその現代的意義」(『現象学年報』第31号、2015年刊行予定)、その他の業績に、「犬の飼い方について」(『αシノドス』第164号、2015年)など。
[訳者] 久木田 水生(Minao Kukita)
1973年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、名古屋大学大学院情報科学研究科准教授。専門は哲学、倫理学。著書に、『科学技術をよく考える』(共著、名古屋大学出版会、2013年)、論文に、「ロボット倫理学の可能性」(『PROSPECTUS』第11号、2008年、1-10)など。
[訳者] 西尾 香苗(Kanae Nishio)
京都大学大学院理学研究科博士課程中退。生物系翻訳者。訳書に、ナム『超人類へ! 』(インターシフト/河出書房新社、2006年)、モレノ『マインド・ウォーズ』(共訳、アスキー・メディアワークス、2008年)、スミソニアン協会監修『地球博物学大図鑑』(共訳、東京書籍、2012年)、国際生物種探査研究所『新種の冒険』(朝日新聞出版、2015年)など。
登録情報
- 出版社 : 春秋社 (2015/7/24)
- 発売日 : 2015/7/24
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 400ページ
- ISBN-10 : 4393323521
- ISBN-13 : 978-4393323526
- 寸法 : 13.6 x 2.5 x 19.6 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 448,648位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 14,730位哲学・思想 (本)
- - 20,432位楽譜・スコア・音楽書 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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2005年、京都大学大学院文学研究科で博士号(文学)を取得。2017年より名古屋大学大学院情報学研究科准教授。専門は情報の哲学、技術哲学など。翻訳書にアンディー・クラーク『生まれながらのサイボーグ』(共訳、春秋社、2015年)、ウェンデル・ウォラック&コリン・アレン『ロボットに倫理を教える』(共訳、名古屋大学出版会、2019年)、マーク・クーケルバーク『AIの倫理学』(共訳、丸善出版、2020年)、著書に『ロボットからの倫理学入門』(共著、名古屋大学出版会、2017年)、『人工知能と人間・社会』(共編著、勁草書房、2020年)、『学問の在り方――真理探究、学会、評価をめぐる省察』(共著、ユニオン・エー、2021年)などがある。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年10月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
さすがに原著が2003年初版の本なので、古い情報に基づく考察があるのは致し方ない。ともあれ、人間を「生まれながらのサイボーグ」と言い放ったことで、賛否を含めてその後のサイボーグ論を活性化し、思想・哲学から認知科学、情報科学、ロボティクスの関係者を議論に巻き込んだ功績は疑えない。D・ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』とともに、サイボーグを考える者に参照され続ける「古典」になるだろう。
2015年8月4日に日本でレビュー済み
小説や映画などでしばしばわたしたちの空想の対象となってきた「サイボーグ」。しかし、本書の著者アンディ・クラークによれば、サイボーグはけっして空想上の存在ではない。じつは、わたしたち人間がすでにして「生まれながらのサイボーグ(natural-born cyborgs)」であるというのだ。
アンディ・クラークは個性的かつ非凡な哲学者である。認知科学をフィールドとし、心理学、人工知能、ロボット工学などの知見を撚り合わせながら、認知および心の探究を行っている。その経歴を遡ると、1980年代からは「コネクショニズム」を解説・受容する議論を展開。そして1990年代後半からは、いわゆる「力学系理論」をも採り入れつつ、「脳と身体と環境の相互作用からなる認知」というアイデアを推し進めている。2003年に著された本書も、その議論の延長線上に位置するものである。
では、クラークはどのような存在を「サイボーグ」としているのだろうか。それは、ひと言でいえば、テクノロジーや環境を積極的に活用し、自らの認知能力を拡大していく存在である。ここでいうテクノロジーは、なにも身体埋め込み式やワイヤー接続式のものである必要はない。スマートフォンであっても、ペンと紙であっても、あるいは書き言葉や話し言葉であってもよい。それらと緊密な仕方で結びつき、それらと一体となってよりよい問題解決を行うのであれば、その存在はサイボーグである、というわけだ。
そのように、生物とテクノロジーとの融合、とりわけ、生物的な脳と非生物的なリソース(道具)との情報処理的な融合が、本書でいうサイボーグの正体である。ならば、両者にはそれぞれどんな特徴があって、そうした融合が可能になっているのだろうか。
まずテクノロジーに関していえば、クラークはその「透明性(transparency)」を強調する。すなわち、使用者にとって容易かつただちにアクセス可能であり、(その結果として)使用時にほとんど目に見えなくなることが、ここでいうテクノロジーの重要な特徴である。他方で、わたしたちの脳に関していえば、その「可塑性」と「ご都合主義(opportunism)」が重要であるという。卓越した情報処理装置である脳も、その能力には限界があるし、苦手な作業もある。そこでわたしたちの脳は、自らの認知的負荷を軽減するべく、周囲の環境を積極的に利用していると考えられるのである。
そのわかりやすい例として、「81×37」を計算するという場面を考えてみよう。頭のなかの計算だけでその答えにすぐさまたどりつけるという人は、おそらくあまり多くないだろう。だが反対に、ペンと紙を使えば大多数の人が比較的簡単に答えを得ることができるはずだ。そしてそのときわたしたちがなしているのは、計算を単純なステップ(7×1=7、7×8=56、…)に分解し、各ステップの結果を外部に書き記して、最後にそれらを足し合わせる、ということだろう。だがそれこそまさに、可塑的かつご都合主義的な脳が、透明な道具や外的環境(ペン、紙、書き記された数字)を巧みに利用しているという例にほかならない。そのようにして脳は、その認知的負荷を周囲の世界に肩代わりさせて、それ単独ではできないことを可能にしているのだ。「脳と身体と環境の相互作用からなる認知」あるいは「拡張した心(extended mind)」というアイデアが出てくるのも、まさにこうした点にもとづいてのことである。
最後にもうひとつ、クラークの「人間観」を強調しておこう。彼によれば、わたしたちはただのサイボーグではなく、「生まれながらの(natural-born)」サイボーグである。つまり、わたしたちはその本性(nature)からしてサイボーグであるというのだ。わたしたち人間はテクノロジーや環境を積極的に活用し、自らの認知能力を拡大していく。そして、それによって賢い世界(smart world)を作り出し、その一部を自身に組み入れることで、自らの認知能力をさらに増強していく。クラークによると、そうしたあり方こそがわたしたち人間の本性であり、ほかの動物とは異なるところなのだ。
以上が、本書(とくに第3章まで)の議論の骨子である。ただし以上の点以外にも、本書には興味深いアイデアがたくさんちりばめられており、それはまるでアイデアの宝庫のようである。認知的な起爆剤としての言語の役割(第3章)に、テクノロジーが位置感や自己感に与える影響(第4章、第5章)、そして、近未来のテクノロジーがもたらしうる弊害(第7章)など。とくに近年のテクノロジーについての議論は、本書の最大の魅力でありながら、ここでは十分に紹介できなかったので、ぜひ本書自身にあたってほしいところだ。
前著『現れる存在』と同様、本邦訳書も原書の刊行からずいぶん遅れて刊行された。だが、本書の魅力はいまだ色褪せていないし、いやむしろ、スマートフォンのようなテクノロジーが普及したいまこそ、わたしたちは実感をもってその議論をうまく理解できるかもしれない。哲学書ゆえ、本書を読み進めることはそれほど簡単ではないだろう。しかし、キラリと光るアイデアの種が蒔かれてもいるので、ぜひ多くの人に本書に挑戦してもらいたいと思う。
アンディ・クラークは個性的かつ非凡な哲学者である。認知科学をフィールドとし、心理学、人工知能、ロボット工学などの知見を撚り合わせながら、認知および心の探究を行っている。その経歴を遡ると、1980年代からは「コネクショニズム」を解説・受容する議論を展開。そして1990年代後半からは、いわゆる「力学系理論」をも採り入れつつ、「脳と身体と環境の相互作用からなる認知」というアイデアを推し進めている。2003年に著された本書も、その議論の延長線上に位置するものである。
では、クラークはどのような存在を「サイボーグ」としているのだろうか。それは、ひと言でいえば、テクノロジーや環境を積極的に活用し、自らの認知能力を拡大していく存在である。ここでいうテクノロジーは、なにも身体埋め込み式やワイヤー接続式のものである必要はない。スマートフォンであっても、ペンと紙であっても、あるいは書き言葉や話し言葉であってもよい。それらと緊密な仕方で結びつき、それらと一体となってよりよい問題解決を行うのであれば、その存在はサイボーグである、というわけだ。
そのように、生物とテクノロジーとの融合、とりわけ、生物的な脳と非生物的なリソース(道具)との情報処理的な融合が、本書でいうサイボーグの正体である。ならば、両者にはそれぞれどんな特徴があって、そうした融合が可能になっているのだろうか。
まずテクノロジーに関していえば、クラークはその「透明性(transparency)」を強調する。すなわち、使用者にとって容易かつただちにアクセス可能であり、(その結果として)使用時にほとんど目に見えなくなることが、ここでいうテクノロジーの重要な特徴である。他方で、わたしたちの脳に関していえば、その「可塑性」と「ご都合主義(opportunism)」が重要であるという。卓越した情報処理装置である脳も、その能力には限界があるし、苦手な作業もある。そこでわたしたちの脳は、自らの認知的負荷を軽減するべく、周囲の環境を積極的に利用していると考えられるのである。
そのわかりやすい例として、「81×37」を計算するという場面を考えてみよう。頭のなかの計算だけでその答えにすぐさまたどりつけるという人は、おそらくあまり多くないだろう。だが反対に、ペンと紙を使えば大多数の人が比較的簡単に答えを得ることができるはずだ。そしてそのときわたしたちがなしているのは、計算を単純なステップ(7×1=7、7×8=56、…)に分解し、各ステップの結果を外部に書き記して、最後にそれらを足し合わせる、ということだろう。だがそれこそまさに、可塑的かつご都合主義的な脳が、透明な道具や外的環境(ペン、紙、書き記された数字)を巧みに利用しているという例にほかならない。そのようにして脳は、その認知的負荷を周囲の世界に肩代わりさせて、それ単独ではできないことを可能にしているのだ。「脳と身体と環境の相互作用からなる認知」あるいは「拡張した心(extended mind)」というアイデアが出てくるのも、まさにこうした点にもとづいてのことである。
最後にもうひとつ、クラークの「人間観」を強調しておこう。彼によれば、わたしたちはただのサイボーグではなく、「生まれながらの(natural-born)」サイボーグである。つまり、わたしたちはその本性(nature)からしてサイボーグであるというのだ。わたしたち人間はテクノロジーや環境を積極的に活用し、自らの認知能力を拡大していく。そして、それによって賢い世界(smart world)を作り出し、その一部を自身に組み入れることで、自らの認知能力をさらに増強していく。クラークによると、そうしたあり方こそがわたしたち人間の本性であり、ほかの動物とは異なるところなのだ。
以上が、本書(とくに第3章まで)の議論の骨子である。ただし以上の点以外にも、本書には興味深いアイデアがたくさんちりばめられており、それはまるでアイデアの宝庫のようである。認知的な起爆剤としての言語の役割(第3章)に、テクノロジーが位置感や自己感に与える影響(第4章、第5章)、そして、近未来のテクノロジーがもたらしうる弊害(第7章)など。とくに近年のテクノロジーについての議論は、本書の最大の魅力でありながら、ここでは十分に紹介できなかったので、ぜひ本書自身にあたってほしいところだ。
前著『現れる存在』と同様、本邦訳書も原書の刊行からずいぶん遅れて刊行された。だが、本書の魅力はいまだ色褪せていないし、いやむしろ、スマートフォンのようなテクノロジーが普及したいまこそ、わたしたちは実感をもってその議論をうまく理解できるかもしれない。哲学書ゆえ、本書を読み進めることはそれほど簡単ではないだろう。しかし、キラリと光るアイデアの種が蒔かれてもいるので、ぜひ多くの人に本書に挑戦してもらいたいと思う。
2016年5月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
知識はどこにあり、思考はどこで行われるのか。
自己は、どこにあるのか。
心は、どこにあるのか。
これらの問いに答え、わたしたちの正体を明らかにするのが本書である。
わたしたちは、非生物的な道具やテクノロジー、情報等と一体化しているサイボーグなのである。
インプラントされなくても、縫合手術の痕跡がなくても、新旧の多様な道具やテクノロジーが組み込まれたサイボーグなのである。
脳は、機能が貧弱なので、中枢にはなりえない。
記憶や計算の容量は小さく、脳だけではあまり役に立たないのである。
また、脳だけに記憶や計算の大きな負担をかけると、それぞれの状況において、わたしたちは自由に行動できなくなる。
そのため、記憶についてであれば、脳の外部を活用し、メモをすることなどがある。
社会的な記憶装置として、慰霊碑や式典、書物、インターネットもある。
あるいは、他者と語り合い、記憶を共有することもできる。
3桁や4桁のかけ算を暗算でするのと、筆算でするのとを比べるとどうか。
紙とペンを使って筆算でする方が早く、正確な計算ができる。
さらに、電卓や携帯電話の計算アプリを使えば、さらに早く、正確である。
これらの場合に明らかなように、脳の外部の文化的な道具やリソースを使って、他者とともに能力を拡大することができる。
能力は、脳を超えて、身体はもちろん、その外部の環境とが一体となるネットワークが形成するものである。
そのような能力を発揮する自己は、そのようなネットワークの全体に及ぶと言えよう。
脳、身体、他者、環境のそれぞれが相互作用するプロセスに知識や思考、心を見出すことができよう。
意識と非意識、生物と非生物とが織りなすマトリックスの全体に漂うような、可塑的な情報のサーキットが自己なのである。
もはや、頭蓋や皮膚の内部に、心や自己を閉じ込めることはできないのであろう。
本書は、ペンや紙、印刷等の古いテクノロジーに比べてパソコンや携帯電話、インターネット等の今日的なテクノロジーの優位性を説いている。
もちろん、それらの問題点についても、述べてはいる。
それでも、今日的なテクノロジーに対する、筆者の信頼や期待には進歩主義を感じないではいられない。
自己は、どこにあるのか。
心は、どこにあるのか。
これらの問いに答え、わたしたちの正体を明らかにするのが本書である。
わたしたちは、非生物的な道具やテクノロジー、情報等と一体化しているサイボーグなのである。
インプラントされなくても、縫合手術の痕跡がなくても、新旧の多様な道具やテクノロジーが組み込まれたサイボーグなのである。
脳は、機能が貧弱なので、中枢にはなりえない。
記憶や計算の容量は小さく、脳だけではあまり役に立たないのである。
また、脳だけに記憶や計算の大きな負担をかけると、それぞれの状況において、わたしたちは自由に行動できなくなる。
そのため、記憶についてであれば、脳の外部を活用し、メモをすることなどがある。
社会的な記憶装置として、慰霊碑や式典、書物、インターネットもある。
あるいは、他者と語り合い、記憶を共有することもできる。
3桁や4桁のかけ算を暗算でするのと、筆算でするのとを比べるとどうか。
紙とペンを使って筆算でする方が早く、正確な計算ができる。
さらに、電卓や携帯電話の計算アプリを使えば、さらに早く、正確である。
これらの場合に明らかなように、脳の外部の文化的な道具やリソースを使って、他者とともに能力を拡大することができる。
能力は、脳を超えて、身体はもちろん、その外部の環境とが一体となるネットワークが形成するものである。
そのような能力を発揮する自己は、そのようなネットワークの全体に及ぶと言えよう。
脳、身体、他者、環境のそれぞれが相互作用するプロセスに知識や思考、心を見出すことができよう。
意識と非意識、生物と非生物とが織りなすマトリックスの全体に漂うような、可塑的な情報のサーキットが自己なのである。
もはや、頭蓋や皮膚の内部に、心や自己を閉じ込めることはできないのであろう。
本書は、ペンや紙、印刷等の古いテクノロジーに比べてパソコンや携帯電話、インターネット等の今日的なテクノロジーの優位性を説いている。
もちろん、それらの問題点についても、述べてはいる。
それでも、今日的なテクノロジーに対する、筆者の信頼や期待には進歩主義を感じないではいられない。
2023年2月16日に日本でレビュー済み
googleメガネやDBSやBMIなど出版当初の2000年ごろは画期的な技術としておおいに期待して紹介しているんでしょうけど、とにかく20年前のことばかりなので古くて役に立たず。。。。
それにしてもどうして文章がこんなにも長いのか…冗長
それにしてもどうして文章がこんなにも長いのか…冗長
2018年3月17日に日本でレビュー済み
すでにサイボーグ化されているという主張は確かに納得できる。
数10年、数年前には人工知能として研究されていた分野も、今やコモディティ化して単なるWebサービスと見なされているのと同じようにサイボーグという概念もどんどんシフトしていっている。それを無視してあえて10年、20年前の基準からすれば我々は十分サイボーグ化されていている。その流れが留まることもないであろう。その現実を実感する意味で面白い。
そういった読み方はできるが、やっぱり古い。古臭さを感じるのは、元テキストが2003年に著されたもので、その当時の概念・用語で日本語化しているから。2015年にこの本を新しい本かのように出版するのは、怠惰か、この領域の哲学者が時代に置き去りにされているから。実際に本が書かれたのは、1990年代の中盤ではなかろうか。
数10年、数年前には人工知能として研究されていた分野も、今やコモディティ化して単なるWebサービスと見なされているのと同じようにサイボーグという概念もどんどんシフトしていっている。それを無視してあえて10年、20年前の基準からすれば我々は十分サイボーグ化されていている。その流れが留まることもないであろう。その現実を実感する意味で面白い。
そういった読み方はできるが、やっぱり古い。古臭さを感じるのは、元テキストが2003年に著されたもので、その当時の概念・用語で日本語化しているから。2015年にこの本を新しい本かのように出版するのは、怠惰か、この領域の哲学者が時代に置き去りにされているから。実際に本が書かれたのは、1990年代の中盤ではなかろうか。
2021年3月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
アンディ・クラークにとって、息抜きの著作という感じがします。
読む側も気楽に読めます。
読む側も気楽に読めます。