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森鴎外 ――よみがえる天才8 (ちくまプリマー新書) 新書 – 2022/4/7
購入オプションとあわせ買い
相当部分を網羅した優れた研究書は散見されるが、
素人や門外漢は容易に手を出せない、分厚くて高価なものばかりである。
そこでこの一冊で『鷗外丸わかり』になる廉価本を目指した。
――海堂尊
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
陸軍軍医、作家、啓蒙家として膨大かつ質の高い仕事をした森鷗外。留学、創作、出征、論争。豊穣でありながら複雑怪奇の天才の全体像を鷲づかみにする本格伝記。
「鷗外の作品群は、彼の壮大な人生を描き出した、私小説の大河小説であるとも言えるでしょう。自己の感情を隠匿し、二重の仮面を被り続けた鷗外の本音が、創作物の中にあっさり見つかることも多々あります。(……)小説家、文芸批評家、軍陣衛生学の樹立者、軍医にして最高位の軍医総監、百科事典派的な啓蒙家、社会主義的思想家、国体護持的思想家など、鷗外を形容する肩書きは多数あります。それは全て鷗外であり、全て鷗外ではないのかもしれません。」(序章より)
【目次】
序章 あなたは「森鷗外」を知っていますか?
1章 津和野の侍医の嫡男、東京医学校へ
文久2年(1862)1歳〜明治14年(1881)20歳
2章 陸軍軍医部に出仕し、陸軍官費留学生に
明治15年(1882)21歳〜明治17年(1884)23歳
3章 ドイツの青春
明治17年(1884)23歳〜明治21年(1888)27歳
4章 軍陣衛生学確立と戦闘的言論時代、鷗外誕生
明治21年(1888)27歳〜明治26年(1893)32歳
5章 日清戦争、台湾戦役と小倉左遷
明治27年(1894)32歳〜明治36年(1903)42歳
6章 日露戦争、軍医総監就任と「豊穣の時代」
明治37年(1904)43歳〜大正5年(1916)55歳
7章 大正期最初の軍医総監、退役後の文化活動
大正2年(1913)52歳〜大正11年(1922)61歳
森鷗外年譜/陸軍軍医総監一覧/付録地図/参考図書・文献
- 本の長さ288ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2022/4/7
- 寸法10.6 x 1.4 x 17.3 cm
- ISBN-104480684255
- ISBN-13978-4480684257
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出版社より
医師を家業とする家に生まれ、幼少時から神童と呼ばれた森鷗外。東大医学部に学び、ドイツ留学を経て、陸軍軍医・小説家など多くの分野で膨大かつ質の高い仕事をこなした。複雑怪奇な天才の全体像が今、明らかに。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
著者 海堂 尊(かいどう・たける)
1961年千葉県生まれ。医師、作家。外科医・病理医としての経験を活かした医療現場のリアリティあふれる描写で現実社会に起こっている問題を衝くアクチュアルなフィクション作品を発表し続けている。作家としてのデビュー作『チーム・バチスタの栄光』(宝島社)をはじめ、同シリーズは累計1千万部を超え、映像化作品多数。Ai(オートプシー・イメージング=死亡時画像診断)の概念提唱者で関連著作に『死因不明社会2018』(講談社)がある 。近刊著に『コロナ黙示録』『コロナ狂騒録』(宝島社)、『奏鳴曲 北里と鷗外』(文藝春秋)、 『北里柴三郎 よみがえる天才7』(ちくまプリマー新書) 。
商品の説明
出版社からのコメント
医師を家業とする家に生まれ、幼少時から神童と呼ばれた森鷗外。東大医学部に学び、ドイツ留学を経て、陸軍軍医・小説家など多くの分野で膨大かつ質の高い仕事をこなしました。そのメモリアル・イヤーに、複雑怪奇な天才の全体像を見晴らすための一冊を、『奏鳴曲 北里と鷗外』(文藝春秋)著者・海堂尊さんが書き下ろしました。
著者について
1961年千葉県生まれ。医師、作家。外科医・病理医としての経験を活かした医療現場のリアリティあふれる描写で現実社会に起こっている問題を衝くアクチュアルなフィクション作品を発表し続けている。作家としてのデビュー作『チーム・バチスタの栄光』(宝島社)をはじめ、同シリーズは累計1千万部を超え、映像化作品多数。Ai(オートプシー・イメージング=死亡時画像診断)の概念提唱者で関連著作に『死因不明社会2018』(講談社)がある 。近刊著に『コロナ黙示録』『コロナ狂騒録』(宝島社)、『奏鳴曲 北里と鷗外』(文藝春秋)、 『北里柴三郎 よみがえる天才7』(ちくまプリマー新書) 。
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2022/4/7)
- 発売日 : 2022/4/7
- 言語 : 日本語
- 新書 : 288ページ
- ISBN-10 : 4480684255
- ISBN-13 : 978-4480684257
- 寸法 : 10.6 x 1.4 x 17.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 70,433位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
1961年千葉県生まれ。医学博士。
第4回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作『チーム・バチスタの栄光』(宝島社)にて2006年デビュー。
著書に『ナイチンゲールの沈黙』『ジェネラル・ルージュの凱旋』『ジェネラル・ルージュの伝説』『イノセント・ゲリラの祝祭』、医師の立場から書いた『トリセツ・カラダ カラダ地図を描こう』(以上宝島社)、『極北クレイマー』(朝日新聞出版)、『マドンナ・ヴェルデ』(新潮社)他、多数。『死因不明社会』(講談社)で、第3回科学ジャーナリスト賞受賞。
イメージ付きのレビュー
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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ちゃんとした評伝なら巻末付録程度のものでしょう。
ちくま文庫には鴎外全集があり、プリマー新書の同シリーズには岡田暁生氏の「モーツァルト」のような良書もあるのに、なぜこの著者で、この内容で企画が通ったのか不思議です。
それではこの本の巻末付録には何があるのかというと、全体の約1/4が著者の著作目録と自己宣伝の文章です。これはびっくりしますなあ。
●『舞姫』のエリスのモデル、エリーゼについて
「5歳年下のエリーゼ(・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト)と林太郎がいつ頃、どのようにして知り合ったのかは、今日でも謎に包まれている」。
「(林太郎は明治22年)7月29日、仏汽船『アバ号』に乗船し、ヨーロッパを離れた。林太郎はエリーゼの船旅のスケジュールを把握していた。彼と(上司の)石黒の荷物の別送便に使った船にエリーゼを乗せたからだ。途中の寄港地、スリランカのコロンボでは、後から来るエリーゼに小説を言付けている。そこには『この本はつまらないので読む価値はない』というコメントがつけられていた。・・・間もなく日本に到着するという晩、林太郎は、エリーゼが自分を追って日本に来ると石黒に告げた。すると石黒の顔が険しくなった。石黒は『赤松中将のご令嬢との縁談はどうするつもりだ』と詰問した」。
「早々にサロンを辞去した林太郎は横浜港に向かった。前日、林太郎は横浜に1泊していた。エリーゼの乗った客船が到着したからだ。だが大嵐で上陸が叶わず船内泊になり、翌日林太郎は陸軍サロンでの講演予定だったので、東京へ戻らなければならなかった。やむなく林太郎は、弟の篤次郎に対応を頼んだのだった。小雨の中、エリーゼは埠頭に降り立った。ひとりぼっちの船旅、日本に着いたと思ったら嵐の中の船中泊。さぞ心細かっただろうと思うと、林太郎の胸は一杯になった。エリーゼは築地の精養軒に宿泊したが、入れ替わり立ち替わり鴎外の親族や友人が現れた。妹の夫、小金井良精はドイツ語が堪能だったので話し相手を務めた。エリーゼは、自分が歓迎されていないと感じ、次第に元気を失っていった。森家のおんなたちは一斉に反発した。特に母峰子の鴎外への執着は凄まじく、妹・喜美子の夫の小金井良精に泣きついた。彼は精養軒に日参し林太郎を翻意させようとしたが謝絶され、賀古鶴所に援軍を頼んだ。賀古は、『ここはひとまず引いて、エリーゼをドイツに帰せ』と提案した。賀古は2カ月後、山県有朋の通訳として1年間欧州に行くので、彼がドイツにいる間に全てを始末してドイツに来ればいい、という。他に妙案もなく林太郎はその提案に同意した。賀古と話し、エリーゼも同意した。10月17日、来日1カ月後に来た時と同じ客船で帰国した」。
「林太郎は結局、17歳の赤松登志子と婚約した。すべては林太郎の優柔不断のせいだ。彼は賀古に託した手紙で、ドイツに行けなくなったと認めた。それはエリーゼとの結婚が駄目になったことを意味した。・・・林太郎とエリーゼの恋は終わったが、文通は終生続いたという」。母親の猛反対に遭ってエリーゼを捨てることになってしまったが、エリーゼと結婚したいという林太郎の気持ちは本物だったのでしょう。痛恨の極みです。
●脚気原因論争について
「軍医としても日清・日露の2つの戦争に従軍しています、ただしこの時、陸軍の兵食を、脚気の原因のビタミンB1不足につながる米食に拘り続け、多くの兵を損ないました。このことは鴎外の消せない疵でしょう」。脚気病原菌説を支持した鴎外だが、医師として冷静・公平に判断すれば、脚気米因説に宗旨替えして、米食を麦食に変更することは可能だったはずです。鴎外のためにも、脚気で亡くなった多くの兵士のためにも、悔やまれてなりません。
●遺言について
「遺言で『石見人森林太郎として 死せんと欲す』とし、『宮内省陸軍皆 縁故あれども生死の別るる瞬間 あらゆる外形的取扱ひを辞す』とし、『墓は森林太郎墓の 外一字もほる可らす 宮内省陸軍の栄誉は絶対に取りやめを請ふ』と記しています。これを読むと、鴎外は世俗の名誉に興味のない、悟った人のように思えます。・・・しかし遺言をそのまま受け取るとまた、鴎外の思惑に引っ掛かるでしょう。鴎外は、自分がどう見られているかを気にし、常に本音を隠蔽することに気を遣っていました。・・・鴎外本人は、8年半も軍医総監を努めながら貴族院議員になれず、男爵も受爵できませんでした。なので没後も爵位をもらえないだろうと予想していたため、先手を打って『そんなものはこっちから願い下げだ』と啖呵を切った可能性もあるのです」。この鋭い指摘には、目から鱗が落ちました。
「見方を変えれば鴎外の作品群は、彼の壮大な人生を描き出した、私小説の大河小説であるとも言うこともできるでしょう。自己の感情を隠匿し、二重の仮面を被り続けた鴎外の本音が、創作物の中にあっさり見つかることも多々あります」。この指摘にも驚かされました。
●『舞姫』のエリスのモデル、エリーゼについて
「5歳年下のエリーゼ(・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト)と林太郎がいつ頃、どのようにして知り合ったのかは、今日でも謎に包まれている」。
「(林太郎は明治22年)7月29日、仏汽船『アバ号』に乗船し、ヨーロッパを離れた。林太郎はエリーゼの船旅のスケジュールを把握していた。彼と(上司の)石黒の荷物の別送便に使った船にエリーゼを乗せたからだ。途中の寄港地、スリランカのコロンボでは、後から来るエリーゼに小説を言付けている。そこには『この本はつまらないので読む価値はない』というコメントがつけられていた。・・・間もなく日本に到着するという晩、林太郎は、エリーゼが自分を追って日本に来ると石黒に告げた。すると石黒の顔が険しくなった。石黒は『赤松中将のご令嬢との縁談はどうするつもりだ』と詰問した」。
「早々にサロンを辞去した林太郎は横浜港に向かった。前日、林太郎は横浜に1泊していた。エリーゼの乗った客船が到着したからだ。だが大嵐で上陸が叶わず船内泊になり、翌日林太郎は陸軍サロンでの講演予定だったので、東京へ戻らなければならなかった。やむなく林太郎は、弟の篤次郎に対応を頼んだのだった。小雨の中、エリーゼは埠頭に降り立った。ひとりぼっちの船旅、日本に着いたと思ったら嵐の中の船中泊。さぞ心細かっただろうと思うと、林太郎の胸は一杯になった。エリーゼは築地の精養軒に宿泊したが、入れ替わり立ち替わり鴎外の親族や友人が現れた。妹の夫、小金井良精はドイツ語が堪能だったので話し相手を務めた。エリーゼは、自分が歓迎されていないと感じ、次第に元気を失っていった。森家のおんなたちは一斉に反発した。特に母峰子の鴎外への執着は凄まじく、妹・喜美子の夫の小金井良精に泣きついた。彼は精養軒に日参し林太郎を翻意させようとしたが謝絶され、賀古鶴所に援軍を頼んだ。賀古は、『ここはひとまず引いて、エリーゼをドイツに帰せ』と提案した。賀古は2カ月後、山県有朋の通訳として1年間欧州に行くので、彼がドイツにいる間に全てを始末してドイツに来ればいい、という。他に妙案もなく林太郎はその提案に同意した。賀古と話し、エリーゼも同意した。10月17日、来日1カ月後に来た時と同じ客船で帰国した」。
「林太郎は結局、17歳の赤松登志子と婚約した。すべては林太郎の優柔不断のせいだ。彼は賀古に託した手紙で、ドイツに行けなくなったと認めた。それはエリーゼとの結婚が駄目になったことを意味した。・・・林太郎とエリーゼの恋は終わったが、文通は終生続いたという」。母親の猛反対に遭ってエリーゼを捨てることになってしまったが、エリーゼと結婚したいという林太郎の気持ちは本物だったのでしょう。痛恨の極みです。
●脚気原因論争について
「軍医としても日清・日露の2つの戦争に従軍しています、ただしこの時、陸軍の兵食を、脚気の原因のビタミンB1不足につながる米食に拘り続け、多くの兵を損ないました。このことは鴎外の消せない疵でしょう」。脚気病原菌説を支持した鴎外だが、医師として冷静・公平に判断すれば、脚気米因説に宗旨替えして、米食を麦食に変更することは可能だったはずです。鴎外のためにも、脚気で亡くなった多くの兵士のためにも、悔やまれてなりません。
●遺言について
「遺言で『石見人森林太郎として 死せんと欲す』とし、『宮内省陸軍皆 縁故あれども生死の別るる瞬間 あらゆる外形的取扱ひを辞す』とし、『墓は森林太郎墓の 外一字もほる可らす 宮内省陸軍の栄誉は絶対に取りやめを請ふ』と記しています。これを読むと、鴎外は世俗の名誉に興味のない、悟った人のように思えます。・・・しかし遺言をそのまま受け取るとまた、鴎外の思惑に引っ掛かるでしょう。鴎外は、自分がどう見られているかを気にし、常に本音を隠蔽することに気を遣っていました。・・・鴎外本人は、8年半も軍医総監を努めながら貴族院議員になれず、男爵も受爵できませんでした。なので没後も爵位をもらえないだろうと予想していたため、先手を打って『そんなものはこっちから願い下げだ』と啖呵を切った可能性もあるのです」。この鋭い指摘には、目から鱗が落ちました。
「見方を変えれば鴎外の作品群は、彼の壮大な人生を描き出した、私小説の大河小説であるとも言うこともできるでしょう。自己の感情を隠匿し、二重の仮面を被り続けた鴎外の本音が、創作物の中にあっさり見つかることも多々あります」。この指摘にも驚かされました。