巻末の訳者注で、フィリップのこと相当性格悪いと思ったでしょうと書いていたけれど…
そんなことでこの本を読むのを途中で止めてしまったとしたら勿体なさすぎる。
素晴らしい本です。なんという感情のうねり、なんという思考の軌跡。時を忘れるほどの経験だった。読み終わるのが辛くてたまらない程に。
「ここに描かれた感情はわたしのものである」とモームは語っている。その通りなんだろう。フィリップのあの狂気に飲み込まれそうな絶望、叫び、殺意、愛。自分の身体と心でずたずたになりながら経験した人にしかできない語りだ。そう実感できる程に本当に真に迫っていた。
最近のオンライン化した人間関係は、簡単に縁を切ることができてしまうし、ブロックしたらもう相手は完全に自分の世界から消えてしまったりもする。それは確かに爽快で、あと腐れがなくて格好いいんだろうけど、モームが描き出す人間関係というものは、そんな単純なものではない。相手に何か悪い面があったからといってさくっと切れるものではない。ヘイワードとの関係が象徴的で、ハイデルベルクにいたときからだんだんフィリップは彼の悪い面も認め始めるんだけど、それでもパリ、ロンドン、とずーっと友人として居続けるんだよね。そしてロンドンでは失意の中に現れたヘイワードにフィリップはかなり救われている。ローソンもそう。互いに見下しあったりしながら緩やかに関係を続けていく。そして救われる。また関係が悪くなる。また会うようになる。そしてささやかに救われる… 関係が続いているからこそだよね。これが人間関係の本質だと思うんだよなあ。ゼロか一かじゃなくて、ゆったりと世界の構成要素として関係が続く。世界は関係でできている。本当にそうだ。
相手の悪い面を見つけることが、単純に友情を終わらせる結果にはならない。これは真理だよ。完璧な人間などいないのだから。モームは人間の無謬性を注意深く取り除いている気がする。どの人間も嫌悪するべき側面があって、でもそれがその人を人間足らしめている。
サウス医師と対話するフィリップ。なんと美しく、頼もしく成長したのだろう。彼の佇まい、患者への態度、そして何よりも彼の言葉に、彼がこれまで生きてきた全てが豊かに実りをもたらしている。
昔の彼だったらサウス医師とは絶対にうまくいかなかった筈だ。
モームは人間を調理する。ごてごて味付けせずに、本質を見抜いて素材の味を引き出す腕が天才的。彼の人間を見る目が本当にいい。フィリップに限らず全ての人間に対してモームの瞳はいつも鋭くて少し冷ややかで、たまに意地悪で、なのに限りなく優しい。
ひとりの人間が文字通り苦しみぬきながら美しくしなやかに大人へと変貌を遂げていく姿を確かに見せてもらいました。感謝。
…あ、でもひとつだけ最後に…ノラが舞台装置のひとつとして現れて、ただただ装置として消えていったのは切なかったな…これだけが喉の奥に引っ掛かった小骨のようにいまもちりちり痛んでいる。
最後にフィリップが彼女のことを「優しく、勇敢な女性」と思い出しているけれど、客観的に（読者側から）見て、自分に非がない状態で最もフィリップに傷つけられたのは彼女だろう。まあこの非のあるなしは大したことじゃないし「客観的に」っていうのは独善的です。夫人だってファニーだってとても傷つけられた筈だ。人間はどうしようもなく傷つけあう存在だ。でも、彼女の救いはあからさまで薄っぺらくて、人工甘味料的な後味だった。
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