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コレラの時代の愛 単行本 – 2006/10/28
ガブリエル・ガルシア=マルケス
(著),
木村 榮一
(翻訳)
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- 本の長さ528ページ
- 言語日本語
- 出版社新潮社
- 発売日2006/10/28
- 寸法13.9 x 3.1 x 19.7 cm
- ISBN-104105090143
- ISBN-13978-4105090142
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登録情報
- 出版社 : 新潮社 (2006/10/28)
- 発売日 : 2006/10/28
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 528ページ
- ISBN-10 : 4105090143
- ISBN-13 : 978-4105090142
- 寸法 : 13.9 x 3.1 x 19.7 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 94,453位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 34位スペイン文学
- - 34位スペイン・ポルトガル文学研究
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年6月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ガルシア・マルケスは好きな作家のひとりで、『百年の孤独』『族長の秋』『予告された殺人の記録』等は繰り返し通読して楽しみ、フランチェスコ・ロージ監督の映画『予告された殺人の記録』もお気に入りだが、本作『コレラの時代の愛』は恥ずかしながら我が人生半ばにして初読である。正直に言えば、70過ぎの老人の恋愛事情など汚ならしくて恥ずかしくて読む気がしなかった。それが間違いだったのだ。見苦しい老齢エピソードは全体の1割程度で物語は目まぐるしく現在過去未来を飛び回り、青春時代から壮年期にかけてのキラ星のごとき想い出が積み重なって行く。フェルミーナ、フロレンティーノ、ウルビーノ博士の主人公男女3人はもちろん、脇役の一人一人までが魅力的な好人物揃いで鮮烈な印象を残して行く。読書という擬似的な体験ではあるが、長い苦楽を共にした後に訪れる老齢はもはや他人事ではない。フェルミーナが耳の不調を覚えるシーンでは死に至る深刻な病ではあるまいかと本気で心配してしまった。老女に萌える日が来ようとはビックリである。年老いた永遠の恋人と先行き不透明な苦難と小さな幸福が混在する船旅を強行する決意を固めたフロレンティーノの台詞「命の続く限りだ」が胸を刺す。『罪と罰』終盤のラスコーリニコフの台詞「まだ闘うぞ」に匹敵する凄絶に力強い名台詞である。人生に立ち向かう力を与えてくれる文学、こんなに素晴らしいものはない。
2020年5月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
なんじゃこりゃ!
500ページの本、
長くてややこしい名前がフルネームで最後まで出続ける(フロレンティーノ・アリーサ、フェルミーナ・ダーサ、フベナル・ウルビーノなどなど)、
ほぼ会話が出てこなくて地の文がえんえんと続いている。
(大昔バルザックを読んだときに感じたのと似ている。)
一人の女を50年以上も愛し続ける純愛って言ったって、女が他の男性と結婚後、男はずっと結婚こそしていないが一体どれだけの女性と関係を持ったことか、ましてや遠縁のまだ少女にさえ!…それなのに、純愛って言う?
『百年の孤独』を読む自信がなかったので、このコロナ禍の起きたとき新聞で紹介されたこの本を読んでみた。ガルシア・マルケスは短編集1冊読んだだけだったが、この短編集の印象は、設定にも表現・描写にも意表を突かれることだらけ、グロテスクにも感じることしきり。でも、これまでに読んだことのない感触があったから興味は残っていた、なんじゃこりゃ!と。
タイトルのコレラ自体は、テーマにほぼ関係なくて、それにも驚く。だからわざわざお勧めのレヴューを書くこともないし、星いくつっとも思えないのだが…だが…
それでも、これまで読んだ全ての本から受ける印象と違うのだ。日本人の見ている外界のスケール感が、ガルシア・マルケスのサイズと違うからか、南米の人の持っているおおらかさや自然と人間に対する見方の違いか、とにかくなんだか圧倒されることは確かだ。
それと矛盾するが、えんえん続く地の文の表現の中に、しばしば、そうそうと共感実感することが出てくるから不思議だ。ということは、こんなに違和の世界を描いているのに、人間の持つ普遍的な面も同時に表現されているからかなとも思えてくる。掴みがたいが、切り捨てられない何かを感じるので、星5つ付けてしまう。
これが映画になっていることにも驚く。主役を選び、ワキを固める役者を選び、50数年間を映像で表せることを想像することができない。ひょっとしたら映画を見ることで、今感じているなんじゃこりゃ!感が解決するかもしれない。映画も見てみたい。
500ページの本、
長くてややこしい名前がフルネームで最後まで出続ける(フロレンティーノ・アリーサ、フェルミーナ・ダーサ、フベナル・ウルビーノなどなど)、
ほぼ会話が出てこなくて地の文がえんえんと続いている。
(大昔バルザックを読んだときに感じたのと似ている。)
一人の女を50年以上も愛し続ける純愛って言ったって、女が他の男性と結婚後、男はずっと結婚こそしていないが一体どれだけの女性と関係を持ったことか、ましてや遠縁のまだ少女にさえ!…それなのに、純愛って言う?
『百年の孤独』を読む自信がなかったので、このコロナ禍の起きたとき新聞で紹介されたこの本を読んでみた。ガルシア・マルケスは短編集1冊読んだだけだったが、この短編集の印象は、設定にも表現・描写にも意表を突かれることだらけ、グロテスクにも感じることしきり。でも、これまでに読んだことのない感触があったから興味は残っていた、なんじゃこりゃ!と。
タイトルのコレラ自体は、テーマにほぼ関係なくて、それにも驚く。だからわざわざお勧めのレヴューを書くこともないし、星いくつっとも思えないのだが…だが…
それでも、これまで読んだ全ての本から受ける印象と違うのだ。日本人の見ている外界のスケール感が、ガルシア・マルケスのサイズと違うからか、南米の人の持っているおおらかさや自然と人間に対する見方の違いか、とにかくなんだか圧倒されることは確かだ。
それと矛盾するが、えんえん続く地の文の表現の中に、しばしば、そうそうと共感実感することが出てくるから不思議だ。ということは、こんなに違和の世界を描いているのに、人間の持つ普遍的な面も同時に表現されているからかなとも思えてくる。掴みがたいが、切り捨てられない何かを感じるので、星5つ付けてしまう。
これが映画になっていることにも驚く。主役を選び、ワキを固める役者を選び、50数年間を映像で表せることを想像することができない。ひょっとしたら映画を見ることで、今感じているなんじゃこりゃ!感が解決するかもしれない。映画も見てみたい。
2023年4月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
自分が老齢に臭いを芬々とさせていることを改めて実感できるのがいい。
主人公の肉体に執着しない(愛の観念で時間を塗りたくって)年齢ではない無時間の不滅の感情に憧れる
喜劇的で悲しみあふれた傑作老人小説だ。さて、マルケスの作品は、はじめ、または終わり部分がいつも素晴らしいのですが、この「コレラの時代の愛」もまた。
雇われている 船長が「川をのぼり下りするとしても、いったいいつまで続けられるとお思いですか?」問うのに、雇い主で主人公のフロレンティーノ・アリーサは五十三年七ヵ月十一日前から、ちゃんと答えを用意していたのだった。
「命の続く限りだ」と彼は言った。
青年は、もし彼が本当の青年ならば、生涯にただひとりのフェルミ―ナ・ダーサを持ち続けるものだ。少なくともわたしはそうだ。その名は内藤秀子という。
長生きはするものです。自分が少年時代からずっとそのまんま老いることなく来たことを知って、至上の愛に包まれるのを実感できます、です。沁みるなあ、このリズール!
主人公の肉体に執着しない(愛の観念で時間を塗りたくって)年齢ではない無時間の不滅の感情に憧れる
喜劇的で悲しみあふれた傑作老人小説だ。さて、マルケスの作品は、はじめ、または終わり部分がいつも素晴らしいのですが、この「コレラの時代の愛」もまた。
雇われている 船長が「川をのぼり下りするとしても、いったいいつまで続けられるとお思いですか?」問うのに、雇い主で主人公のフロレンティーノ・アリーサは五十三年七ヵ月十一日前から、ちゃんと答えを用意していたのだった。
「命の続く限りだ」と彼は言った。
青年は、もし彼が本当の青年ならば、生涯にただひとりのフェルミ―ナ・ダーサを持ち続けるものだ。少なくともわたしはそうだ。その名は内藤秀子という。
長生きはするものです。自分が少年時代からずっとそのまんま老いることなく来たことを知って、至上の愛に包まれるのを実感できます、です。沁みるなあ、このリズール!
2020年5月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
いろんなエピソードがもの悲しく美しい。
皮肉めいていて「でも実際そうなんだよな」と、いろんな人生の真実に気づかされる箇所も多い。
一人で読んでいて思わず声に出して笑ってしまったところも少なくなかった。
描写も目に浮かぶようでした。慣れるまで少し時間かかりましたが。
芸術性とエンタメ性を超高レベルで両立している。
濃密な読書体験ができました。
百年の孤独に負けず劣らず素晴らしい作品でした。
皮肉めいていて「でも実際そうなんだよな」と、いろんな人生の真実に気づかされる箇所も多い。
一人で読んでいて思わず声に出して笑ってしまったところも少なくなかった。
描写も目に浮かぶようでした。慣れるまで少し時間かかりましたが。
芸術性とエンタメ性を超高レベルで両立している。
濃密な読書体験ができました。
百年の孤独に負けず劣らず素晴らしい作品でした。
2019年8月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ガルシア・マルケスの作品で、一番好きな作品です。
待ち続ける男に、ロマンスを感じます。
永遠に続く恋、とはフランソワーズ・サガンが「あり得ないと思う。」と言っていましたから。
はたして、現実にあるののでしょうか。
待ち続ける男に、ロマンスを感じます。
永遠に続く恋、とはフランソワーズ・サガンが「あり得ないと思う。」と言っていましたから。
はたして、現実にあるののでしょうか。
2015年3月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
主観が強くて独りよがりな物語に感じます。
もちろん、それなりに面白いし楽しめます。
もちろん、それなりに面白いし楽しめます。
2020年6月1日に日本でレビュー済み
恋をした男と女が永遠の愛を誓い結婚する意味は?
愛が冷めて、浮気をするまで、という<永遠>のなんと短いことか!
恋愛が成就しないで、ただ待ち続けて生きていく長いような短い一生。
結婚に破れた女たちや、未亡人として生きる女たち。
社会的な地位を確立した男たちが通う売春宿。
心やすまる隠れ家で優しく男に尽くす女たち。
男をあるがままの人間として<その場限りの男性として>受け入れる女性。
500頁を越える、この長篇小説は男と女の愛情関係を限りなく綴り続ける。
章立てもない、数字の道標もない、500頁を越える長い一本道。短い一生。
この道を歩き始めたときの若者は、500頁を越えると、いまや老人。
冒頭の献辞は、「むろんメルセーデスのために」
「メルセーデス」とは、著者ガルシア=マルケスの妻。
「むろん」というところがすさまじい。
<新型コロナの時代>の現代にも参考になるかと思って、
本書『コレラの時代の愛』を読んでみました。
35年も前の1985年に刊行された古い本ですけれど。
読み終わってみると、本書は、
特にコレラとか新型コロナとかの肉体の病気に限らない、恋の病のお話でした。
重度の恋わずらいは、周りの人間から見ればコレラの症状に似ている。ただそれだけ。
コレラや新型コロナとは直接関係のない、あいもかわらずの男と女の文学作品でした。
いつの時代も似たような男と女の絡み合い。
恋の病の症状は、コレラに似ているけれど、大人には感染(伝染)しません。
「母親は息子の状態が恋の病というよりもコレラの症状に似ていたので恐慌をきたした」(96頁)
「恋病の症状がコレラのそれにそっくりだということが分かった」(97頁)
主人公の男の名は、フロレンティーノ・アリーサ。
初恋の女性(フェルミーナ・ダーサ)に振られ捨てられたのに、あきらめきれず、
結婚をしないまま待ち続けている男。
えんえんと、待つこと、「51年9カ月と4日」(84頁、155頁、415頁、519頁)。
ウソ! ほんと? いくらフィクションでも、そんな長期間! ほとんど一生。
著者ガルシア=マルケスは、
「本当らしく見える限界」の<待ち時間>としては「35年間」(519頁、「解説」より)
と考えていたようです。
そんなストーリー(本書のアイデア)を思いついたと対談者に語ったそうです。
本書が出来上がってみると、「35年間」ではなく、「51年9カ月と4日」。大幅延長。
本当らしく見える限界をはるかに超えているではありませんか。
本書は、もはや本当の現実を超えて、幻想の領域に入っています。
「幻想的としか言いようのない恋をリアリズムの器に盛り込もうとして創作を行い、見事に成功している」(520頁、「解説」より)
と訳者の木村榮一さんは本作品を高く評価しています。
ガルシア=マルケスの表現は、計数可能な範囲ではウソみたく具体的で細かいです。
「それから五十年後に、 (中略) ノートは二十五冊ほどたまり、愛の記録にとどめられていない無数のつかの間の恋を別にして、しばらく続いた六百二十二人にのぼる女性との関係が記録されていた」(223頁)
「六百二十二人」とは! 絶句す。
しかし、そんな数字の記録も、限界を超えると、
<永遠の愛>みたく、一気にあいまいな抽象的な表現になります。
そこが面白い。くくく。バカバカしくなりますけれど。
ガルシア=マルケスは「永遠の愛というのは存在する」(519頁、「解説」より)
とマジで言ったそうです。
しかし、永遠の愛は、人生の局面ごとに形をさまざまに変化させます。千変万化の愛の形。
その<永遠の愛>を描くリアリズムの限界は、死という現実。
限りある命。「寿命」。あわれ。「永遠」には、限界はないはずなのに。
ガルシア=マルケスは、本書最終行で<現実の時間の限界>をきちんと示してくれました。
「『川をのぼり下りするとしても、いったいいつまで続けられるとお思いですか?』
フロレンティーノ・アリーサは五十三年七ヵ月十一日前から、ちゃんと答を用意していた。
『命の続く限りだ』と彼は言った」(502頁)
いいねえ、最後の決め台詞。「命の続く限り」か。それが<現実の時間の限界>だもんね。
いつまで続くのか誰にも分からない人生。幻想的としか言いようのない恋と命と人生を、
ガルシア=マルケスは、みごとに描いています。さすがです。感動。
《備考》
時代設定: 「1860年代から1930年代にかけて」(518頁、「解説」より)
舞台設定: 「コロンビアの地方都市」(518頁、「解説」より)
登場人物: 「長い姓をもった名士の家族」(453頁)のみ列記します。
フベナル・ウルビーノ博士: 医者。フェルミーナ・ダーサの夫。
フェルミーナ・ダーサ: 18歳のとき、フロレンティーノ・アリーサを振る。ウルビーノ博士と結婚。
フロレンティーノ・アリーサ: 76歳。独身を通す。カリブ河川運輸会社の後継社長。
トランシト・アリーサ: フロレンティーノ・アリーサの母親。
ロタリオ・トゥグット: フロレンティーノ・アリーサの先輩の電信技師。
ロレンソ・ダーサ: フェルミーナ・ダーサは一人娘。
エスコラスティカ叔母: ロレンソの妹。40歳。独身。
ドン・レオ十二世ロアイサ: フロレンティーノ・アリーサの叔父。カリブ河川運輸会社の社長。フロレンティーノ・アリーサを後継者に。
レオーナ・カッシアーニ: レオ十二世の私設秘書の黒人女性。
リンチ嬢: ジョナサン・B・リンチ師の一人娘。神学博士。28歳。離婚後、58歳のウルビーノ博士の愛人。
アメリカ・ビクーニャ: 14歳。遠縁のフロレンティーノ・アリーサが身元引受人。
<愛の名(迷)言集>
「一緒に寝なくても女性と親しくなれるのだということを、フロレンティーノ・アリーサはようやく悟った」(273頁)
「腰から上の愛と腰から下の愛、というわけなの」(288頁)
「人は同時に何人もの人と、それも誰一人裏切ることなく、同じ苦しみを味わいつつ愛することができる」(391頁)
「人の心には売春宿以上に沢山の部屋があるんだ」(391頁)
「愛は災厄の中でより偉大で高貴なものになる」(487頁)
「愛の営みにとって、過剰な愛は、愛の欠如と同じくらいよくないんだよ」(490頁)
<愛の匂い>
この上もなく心やさしいチェスの好敵手が
自殺のために気化させたシアンのビター・アーモンドを思わせる匂い。(13頁)
「町中にフェルミーナ・ダーサの匂いがたちこめ、あらゆるものに彼女の匂いが感じとれた」(217頁)
などと勘違いしている、鼻がどうかしているフロレンティーノ・アリーサ。
押入れの中で眠り込んでいる三歳の息子を猟犬のような嗅覚で見つけたフェルミーナ・ダーサが
夫に訊かれた<見つける方法>とは? その答えは、「ウンコの匂いよ」(343頁)
夫の不倫相手の黒人女の匂いを鼻で嗅ぎつけたフェルミーナ・ダーサ(363頁)
愛が冷めて、浮気をするまで、という<永遠>のなんと短いことか!
恋愛が成就しないで、ただ待ち続けて生きていく長いような短い一生。
結婚に破れた女たちや、未亡人として生きる女たち。
社会的な地位を確立した男たちが通う売春宿。
心やすまる隠れ家で優しく男に尽くす女たち。
男をあるがままの人間として<その場限りの男性として>受け入れる女性。
500頁を越える、この長篇小説は男と女の愛情関係を限りなく綴り続ける。
章立てもない、数字の道標もない、500頁を越える長い一本道。短い一生。
この道を歩き始めたときの若者は、500頁を越えると、いまや老人。
冒頭の献辞は、「むろんメルセーデスのために」
「メルセーデス」とは、著者ガルシア=マルケスの妻。
「むろん」というところがすさまじい。
<新型コロナの時代>の現代にも参考になるかと思って、
本書『コレラの時代の愛』を読んでみました。
35年も前の1985年に刊行された古い本ですけれど。
読み終わってみると、本書は、
特にコレラとか新型コロナとかの肉体の病気に限らない、恋の病のお話でした。
重度の恋わずらいは、周りの人間から見ればコレラの症状に似ている。ただそれだけ。
コレラや新型コロナとは直接関係のない、あいもかわらずの男と女の文学作品でした。
いつの時代も似たような男と女の絡み合い。
恋の病の症状は、コレラに似ているけれど、大人には感染(伝染)しません。
「母親は息子の状態が恋の病というよりもコレラの症状に似ていたので恐慌をきたした」(96頁)
「恋病の症状がコレラのそれにそっくりだということが分かった」(97頁)
主人公の男の名は、フロレンティーノ・アリーサ。
初恋の女性(フェルミーナ・ダーサ)に振られ捨てられたのに、あきらめきれず、
結婚をしないまま待ち続けている男。
えんえんと、待つこと、「51年9カ月と4日」(84頁、155頁、415頁、519頁)。
ウソ! ほんと? いくらフィクションでも、そんな長期間! ほとんど一生。
著者ガルシア=マルケスは、
「本当らしく見える限界」の<待ち時間>としては「35年間」(519頁、「解説」より)
と考えていたようです。
そんなストーリー(本書のアイデア)を思いついたと対談者に語ったそうです。
本書が出来上がってみると、「35年間」ではなく、「51年9カ月と4日」。大幅延長。
本当らしく見える限界をはるかに超えているではありませんか。
本書は、もはや本当の現実を超えて、幻想の領域に入っています。
「幻想的としか言いようのない恋をリアリズムの器に盛り込もうとして創作を行い、見事に成功している」(520頁、「解説」より)
と訳者の木村榮一さんは本作品を高く評価しています。
ガルシア=マルケスの表現は、計数可能な範囲ではウソみたく具体的で細かいです。
「それから五十年後に、 (中略) ノートは二十五冊ほどたまり、愛の記録にとどめられていない無数のつかの間の恋を別にして、しばらく続いた六百二十二人にのぼる女性との関係が記録されていた」(223頁)
「六百二十二人」とは! 絶句す。
しかし、そんな数字の記録も、限界を超えると、
<永遠の愛>みたく、一気にあいまいな抽象的な表現になります。
そこが面白い。くくく。バカバカしくなりますけれど。
ガルシア=マルケスは「永遠の愛というのは存在する」(519頁、「解説」より)
とマジで言ったそうです。
しかし、永遠の愛は、人生の局面ごとに形をさまざまに変化させます。千変万化の愛の形。
その<永遠の愛>を描くリアリズムの限界は、死という現実。
限りある命。「寿命」。あわれ。「永遠」には、限界はないはずなのに。
ガルシア=マルケスは、本書最終行で<現実の時間の限界>をきちんと示してくれました。
「『川をのぼり下りするとしても、いったいいつまで続けられるとお思いですか?』
フロレンティーノ・アリーサは五十三年七ヵ月十一日前から、ちゃんと答を用意していた。
『命の続く限りだ』と彼は言った」(502頁)
いいねえ、最後の決め台詞。「命の続く限り」か。それが<現実の時間の限界>だもんね。
いつまで続くのか誰にも分からない人生。幻想的としか言いようのない恋と命と人生を、
ガルシア=マルケスは、みごとに描いています。さすがです。感動。
《備考》
時代設定: 「1860年代から1930年代にかけて」(518頁、「解説」より)
舞台設定: 「コロンビアの地方都市」(518頁、「解説」より)
登場人物: 「長い姓をもった名士の家族」(453頁)のみ列記します。
フベナル・ウルビーノ博士: 医者。フェルミーナ・ダーサの夫。
フェルミーナ・ダーサ: 18歳のとき、フロレンティーノ・アリーサを振る。ウルビーノ博士と結婚。
フロレンティーノ・アリーサ: 76歳。独身を通す。カリブ河川運輸会社の後継社長。
トランシト・アリーサ: フロレンティーノ・アリーサの母親。
ロタリオ・トゥグット: フロレンティーノ・アリーサの先輩の電信技師。
ロレンソ・ダーサ: フェルミーナ・ダーサは一人娘。
エスコラスティカ叔母: ロレンソの妹。40歳。独身。
ドン・レオ十二世ロアイサ: フロレンティーノ・アリーサの叔父。カリブ河川運輸会社の社長。フロレンティーノ・アリーサを後継者に。
レオーナ・カッシアーニ: レオ十二世の私設秘書の黒人女性。
リンチ嬢: ジョナサン・B・リンチ師の一人娘。神学博士。28歳。離婚後、58歳のウルビーノ博士の愛人。
アメリカ・ビクーニャ: 14歳。遠縁のフロレンティーノ・アリーサが身元引受人。
<愛の名(迷)言集>
「一緒に寝なくても女性と親しくなれるのだということを、フロレンティーノ・アリーサはようやく悟った」(273頁)
「腰から上の愛と腰から下の愛、というわけなの」(288頁)
「人は同時に何人もの人と、それも誰一人裏切ることなく、同じ苦しみを味わいつつ愛することができる」(391頁)
「人の心には売春宿以上に沢山の部屋があるんだ」(391頁)
「愛は災厄の中でより偉大で高貴なものになる」(487頁)
「愛の営みにとって、過剰な愛は、愛の欠如と同じくらいよくないんだよ」(490頁)
<愛の匂い>
この上もなく心やさしいチェスの好敵手が
自殺のために気化させたシアンのビター・アーモンドを思わせる匂い。(13頁)
「町中にフェルミーナ・ダーサの匂いがたちこめ、あらゆるものに彼女の匂いが感じとれた」(217頁)
などと勘違いしている、鼻がどうかしているフロレンティーノ・アリーサ。
押入れの中で眠り込んでいる三歳の息子を猟犬のような嗅覚で見つけたフェルミーナ・ダーサが
夫に訊かれた<見つける方法>とは? その答えは、「ウンコの匂いよ」(343頁)
夫の不倫相手の黒人女の匂いを鼻で嗅ぎつけたフェルミーナ・ダーサ(363頁)
2012年11月27日に日本でレビュー済み
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It's good to read it. It has been leading booklet for us.