人種という点で複雑な歴史をもつアメリカ合衆国。奴隷制度がアメリカに南北戦争を勃発
させる導火線となった。それから随分と時間が過ぎてから、人種隔離と選挙権の剥奪が実
施され、アフリカ系アメリカ人は生涯を二流市民として過ごすことが強いられ、頻繁に暴
力的手段を通じて抑圧されてきた経緯がある。
よりよい世界へかすかな希望の光が見えたのは、1950年代になって公民権運動が盛んに
なりだした過渡期にある。そんな時代を生き抜いたボクサーの熱い物語が本著である。
本著では、多くのボクサーが紹介されるが、とりわけ、「キャッセル・マーセラス・クレ
イ」に着目しよう。
彼は、ファンにサインするときには、「キャッセル・X・クレイ」と書くという。「マル
コムX」には敬意を払うと同時に「クレイ」には、「泥」という意味があるという。
そのため、「クレイ」という名を嫌い「モハメド・アリ」という改名を宣言していた。宣
言の背景には、「白い悪魔」と呼ばれる教義、アメリカ社会からは嫌われ者である、伝統
的なイスラム教の教義をも否定し、むしろ傍流の新宗教。そう、「ブラック・ムスリム」
と呼ばれるNOIは、「白人社会への同化を拒否し、黒人の民族的優越を説く。「アリ」は、
ネーション・オブ・イスラム（N・O・I）の信者なのである。
無論、彼のような信者は格別珍しくもなく、公民権法が7月に制定された年でもあるだけ
に際立つ。
しかも、1964年のいう年。もう１つ大きな出来事。北ベトナムがアメリカ軍の駆逐艦の
攻撃を仕掛けた「トンキン湾事件」がきっかけで、アメリカ軍が大量に派遣されること
となった。
そんな渦中に、1967年4月、微集兵検査入隊所の入隊命令が「アリ」に下されるのだが、
「キャッセル・マーセラス・クレイ」と呼ばれたことから入隊を拒否する。そこから、世
界最強の男が、一度も破れることなく、ライセンスを取り消され、世界チャンピオンの認
定も取り消され、散々な波瀾万丈な人生が始まるのである。
連邦大陪審が下した判決は、「禁固5年と罰金１万ドル」、控訴もするが、棄却され、も
はや完全にボクサー生命が奪われるかに見えた。
一時には、「アラーに試されている」と自暴自棄となってさえいた。「映画の撮影」（ギ
ャラ１万ドル）も裁判費用を稼ぐための小遣い稼ぎ程度だ。
しかし、そうこうするうちに時代にも変革は起きる。かつてベトナム戦争を支持していた
世論が、戦争の泥沼化と年々増えていくアメリカ兵の戦死者数によって、徐々に不支持に
動き始めていたのだ。かつての「アメリカの敵」とされたアリの徴兵拒否は、アリのカム
バックを求むセンセーショナルな話題へと転換された。今や「モハメド・アリ」はベトナ
ム戦争への賛否、あるいは保守かリベラルかを測るリトマス試験紙となった。
そして、運命の日、1970年10月26日、「ノンタイトル戦」であるが、ジョージア州ア
トランタシティのオーディトリアムで、3年7ヶ月ぶりに「アリ」のリングが開催された。
対する相手クォーリ－を第三ラウンドTKO勝ちで打ちのめし復帰戦を飾った。しかもこ
の試合、チャンピオン戦のフレージャーと挑戦者フォースターとの対戦よりも5倍の稼ぎ
があったのだ。チャンプのフレージャーは屈辱を味わい「アリと戦いたい」と口にした。
これが契機なのか、ニューヨーク州地裁が、アリにはニューヨーク州でボクシング・ライ
センスが与えられるべきという裁定を下したのだった。
なお、この時のアリのリング評であるが、かつて「蝶のように舞う」華麗な足さばきが3
年間のブランクによって失われ、最大の防衛手段を失ったとの苦評もあるが、最終ラウン
ドで見せた素晴らしいパンチは、観客に「奇跡を起こす男」、やはりアリは何かを持って
いる、のである。
そして、4年近いブランクを経て、再びチャンプのフレージャーに挑もうというのだ。フ
レージャーを応援するのは、スーツを着た白人と、アラバマ州の保安官と。KKK団だけ。
フレージャーを応援する黒人は、アンクル・トムだとも。本人にしてみれば「金と車とき
れいな服が欲しくてボクサーになった。それに専念するのを、何故責められなければなら
ないのか」と自暴自棄に発言することもあった。サウスカロライナ州の極貧農家生まれの
フレージャーが、より「黒人的」なのである。対するケンタッキー州中産階級生まれのア
リとは雲泥の差などである。
このようなムーブメントが渦巻く中、1971年ニューヨークノMSGで世紀の一戦が行われ
た。以下463頁――――。467頁試合結果。
その上で、俯瞰すると、黒人の成功者を「本物の」アメリカ人と認められることができな
い人々が確かに存在したこと。イスラム教徒だというバーサー運動は、「非アメリカ人」
として貶め、むきだしの人種差別を奏でる。先進的国家であるはずのアメリカ合衆国。白
人至上主義の「オルタナ右翼運動」、国境を渡ろうとして行列をつくる黒い肌をした人々
を描いたポスターを披露して、反移民を訴えるということは世界中に起こりうることなの
である。
それだけに、「一滴の血」に沈みこまれてきた社会から「公民権」を勝ち取り、黒人が「
他者」になりえたのは、1965年の改正移民法によってである。これにより「アフリカン・
アメリカ」＝「アメリカの黒人」は確かにアメリカ社会で「共生」の存在となった。
今やWASP＝「ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント」の国とはもはや言えま
い。
1990年の改正移民法は、1965年改正法の基本原則を踏襲しつつ、「家族呼び寄せ」、「
雇用」、「多様化」といった3つのプログラムのカテゴリーが帰属のメルクマールとして
「共生」を決定づける社会に変貌しているのである。
百田氏は、「カエルの楽園2020」では2週間程度で文庫化としているが、本著の執筆には
2年の歳月。構想からするとそれ以上だという。それが充分に「府に落ちる」一冊であった。
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