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論理哲学論考 (光文社古典新訳文庫) Kindle版
20世紀を代表する哲学書であり、最も難解といわれる『論理哲学論考』は、シンプルなドイツ語で書かれた美しい作品だ。今回の新訳では、その微妙なスタンス、ニュアンスを、細やかな目配りで忠実に再現した。いつでも、どこでも、肩の力を抜いて読める、まったく新しい『論考』をここにお届けする。■野家啓一さんの解説「高校生のための『論考』出前講義」を収録
- 言語日本語
- 出版社光文社
- 発売日2014/1/20
- ファイルサイズ1079 KB
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登録情報
- ASIN : B015F4CCME
- 出版社 : 光文社 (2014/1/20)
- 発売日 : 2014/1/20
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 1079 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効
- Word Wise : 有効にされていません
- 付箋メモ : Kindle Scribeで
- 本の長さ : 185ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 6,177位Kindleストア (Kindleストアの売れ筋ランキングを見る)
- - 12位光文社古典新訳文庫
- - 105位思想
- - 129位哲学・思想 (Kindleストア)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年5月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
何時もは直ぐに役に立つ情報を求めてしまいがちです。正直に言って理解できない内容でした。手元に置いて読み返す時が楽しみです。
2016年12月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は論考はこの本で初めて読んだのであるが、まず最初の解説がわかりやすくまとまっている。
必要な言葉に対する解説や概念に関する解説があり、本文を読み進めるうえでおおいに役立つであろう。
哲学は活動である。思考の境界線を引くことである。これはヴィトゲンシュタインの主張と言ってよいだろう。
そして境界線を引き終えたとき、すべての活動は終わると考えたのであろうが、このあたりはぜひ本書を手に取って読んでいただきたい。
簡単ではないが、とても面白い。
本自体は薄い。薄いが気軽に流し読みして理解できるものでは決してない。
だからこそ読む価値はあるだろうし、読み進めるうちに反論もしたくもなるだろう。
そういったところも含めてやはり面白いのである。
私は哲学は全く詳しくないが、それでも根気よく読めば自分なりに読めたし、すべての根気強い読者もそうであろう。
読んで損はしないはずである。
必要な言葉に対する解説や概念に関する解説があり、本文を読み進めるうえでおおいに役立つであろう。
哲学は活動である。思考の境界線を引くことである。これはヴィトゲンシュタインの主張と言ってよいだろう。
そして境界線を引き終えたとき、すべての活動は終わると考えたのであろうが、このあたりはぜひ本書を手に取って読んでいただきたい。
簡単ではないが、とても面白い。
本自体は薄い。薄いが気軽に流し読みして理解できるものでは決してない。
だからこそ読む価値はあるだろうし、読み進めるうちに反論もしたくもなるだろう。
そういったところも含めてやはり面白いのである。
私は哲学は全く詳しくないが、それでも根気よく読めば自分なりに読めたし、すべての根気強い読者もそうであろう。
読んで損はしないはずである。
2020年11月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この訳のほうが原著の雰囲気に近いと言うのは、たしかにそう感じる。読みやすい。ただ、それでも和訳の断絶は感じる。論考のような極限まで削ぎ落とした文章だけになおさら際立ってしまうのだろう。
冒頭の野家氏の解説が非常に秀逸で、このためだけに購入する価値あり。
トートロジーを解説する式に誤植がある(初版 第4刷)。6.1203の2つ目、120ページ上段の式、右のqがpになっている。また121ページ1行目~(p.~p)は、~(p.~q)なので注意。
本書のような厳密な記述では致命的になり得る。
冒頭の野家氏の解説が非常に秀逸で、このためだけに購入する価値あり。
トートロジーを解説する式に誤植がある(初版 第4刷)。6.1203の2つ目、120ページ上段の式、右のqがpになっている。また121ページ1行目~(p.~p)は、~(p.~q)なので注意。
本書のような厳密な記述では致命的になり得る。
2023年4月23日に日本でレビュー済み
バートランドラッセルによる解説が読みたいなら岩波文庫版です。
本編の他に29ページにわたる、バートランドラッセルによる解説が含まれています。
そして、光文社文庫版には冒頭に野家啓一氏による「高校生のための『論考』出前講義」が含まれます。
【翻訳】
岩波;世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。
光文社;世界は、事実によって規定されている。その事実がすべて事実であることによって、規定されている。
どっちがわかりやすいですか?
両方読んだ私からすると、
本作品はいずれにしても文章の向こう側を読む必要があり、
翻訳はその入り口に過ぎない。
その入り口が押して開くドアか、引いて開くドアかという違いであれば、読み手が入りやすい方を選ばれたらよい。
本編の他に29ページにわたる、バートランドラッセルによる解説が含まれています。
そして、光文社文庫版には冒頭に野家啓一氏による「高校生のための『論考』出前講義」が含まれます。
【翻訳】
岩波;世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。
光文社;世界は、事実によって規定されている。その事実がすべて事実であることによって、規定されている。
どっちがわかりやすいですか?
両方読んだ私からすると、
本作品はいずれにしても文章の向こう側を読む必要があり、
翻訳はその入り口に過ぎない。
その入り口が押して開くドアか、引いて開くドアかという違いであれば、読み手が入りやすい方を選ばれたらよい。
2015年10月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
独我論や「語りえぬものには沈黙しなければならない(岩波版)」でよく引用される前期ウィトゲンシュタインンの主著。岩波版とは訳出の方針が違っていて訳者による強調を避け原文のニュアンスをより尊重したそうだ。前書きの「「高校生のための出前講義」は高校生向きとは思えないが、よくまとまっている。
内容は深く表現は禅問答のようなものもある。従来の哲学の問題の多くは言語の誤った使用によると切って捨てみせて本文が始まるが、世界と世界の外、論理と論理の外、形而上と形而下、など考えさせられる。世界と“私の世界”など、存在論と認識論が織り交ぜられているようで、独我論に関しても真意と違う引用(利用?)もされている可能性を感じる。自ら著作を読む必要性を大いに認識させられた。また、フレーゲやラッセルなどは押さえておかねばならないだろう。
内容は深く表現は禅問答のようなものもある。従来の哲学の問題の多くは言語の誤った使用によると切って捨てみせて本文が始まるが、世界と世界の外、論理と論理の外、形而上と形而下、など考えさせられる。世界と“私の世界”など、存在論と認識論が織り交ぜられているようで、独我論に関しても真意と違う引用(利用?)もされている可能性を感じる。自ら著作を読む必要性を大いに認識させられた。また、フレーゲやラッセルなどは押さえておかねばならないだろう。
2022年4月14日に日本でレビュー済み
20世紀初頭における哲学界の寵児であったヴィトゲンシュタインの作品である。
潮流に位置付ければ論理実証学派の先駆けとなった存在として評し得ようが、
自ら恃むところの多い青年哲学者の、若く清冽な議論が簡潔に展開される内容は、
まことに小気味が良い。
知力と反骨精神で、一刀両断する論じぶりは、特に若い哲学学徒にとっての魅力に
溢れる著作である。
潮流に位置付ければ論理実証学派の先駆けとなった存在として評し得ようが、
自ら恃むところの多い青年哲学者の、若く清冽な議論が簡潔に展開される内容は、
まことに小気味が良い。
知力と反骨精神で、一刀両断する論じぶりは、特に若い哲学学徒にとっての魅力に
溢れる著作である。
2023年4月19日に日本でレビュー済み
訳がいまひとつ。
以下、冒頭を引用する。
1 世界は、そうであることのすべてである。
1.1 世界は、事実の総体である。事物の総体ではない。
1.11 世界は、事実によって規定されている。その事実がすべて事実であることによって、限定されている。
1.12 というのも、事実の総体が、なにがそうであるのかを、そしてまた、なにがそうでないのかを、規定するからである。
1.13 論理空間のなかにある事実が、世界である。
冒頭に、野毛敬一氏の「高校生のため論孝』出前講義」、巻末に同氏の「ヴィトゲンシュタイン年譜」が収められている。独英対訳版に掲載されたラッセルの「案内」は収められていない。
なお、原文はネットで公開されている。
1. Die Welt ist alles, was der Fall ist.
Fallはラテン語のcasus(転倒、事故、イベント、災害など)が語源である。
また、英語では、
1. The world is everything that is the case.
と翻訳されていて、本書では
1. 世界は、そうであることのすべてである。
と翻訳されている。
「Fall」とは、「何かが起きること」と言うニュアンスであって、
「そうであること」に違和感を覚える。
以下、冒頭を引用する。
1 世界は、そうであることのすべてである。
1.1 世界は、事実の総体である。事物の総体ではない。
1.11 世界は、事実によって規定されている。その事実がすべて事実であることによって、限定されている。
1.12 というのも、事実の総体が、なにがそうであるのかを、そしてまた、なにがそうでないのかを、規定するからである。
1.13 論理空間のなかにある事実が、世界である。
冒頭に、野毛敬一氏の「高校生のため論孝』出前講義」、巻末に同氏の「ヴィトゲンシュタイン年譜」が収められている。独英対訳版に掲載されたラッセルの「案内」は収められていない。
なお、原文はネットで公開されている。
1. Die Welt ist alles, was der Fall ist.
Fallはラテン語のcasus(転倒、事故、イベント、災害など)が語源である。
また、英語では、
1. The world is everything that is the case.
と翻訳されていて、本書では
1. 世界は、そうであることのすべてである。
と翻訳されている。
「Fall」とは、「何かが起きること」と言うニュアンスであって、
「そうであること」に違和感を覚える。
2019年7月7日に日本でレビュー済み
仏教書ばっかり読んでいると、思考が固まってしまうので、全然違うアプローチの本を読もうと思いたつ。Kindleのランキングで上位にあったこの本を選択。これも仏縁。
引用:(4.115
哲学は、言うことのできるものをクリアに描くことによって、言うことの出来ないものを指ししめすだろう。)
なんか生死、浄土のことを言っているような気がする…。
未来の出来事を、私たちは現在の出来事から推測することはできないので、因果連鎖は迷信であると言い切る。
ここまでくると、なんか仏教に対して物申されているとしか思えなくなってくる…。
論理的に言語で説明できないことが存在したとして、それを私たちは考えることができないのだから、言語化して話すことができないという。そして、明日のことは仮説であって、明日太陽が昇るかどうかというようなことは、私たちにはわからないという。
ヴィトゲンシュタインは、内側から、明確に言えることだけを固めていく。そしてわからないことの境界線ができてくる。仏教は、その境界線の外側のことを言っている。
内側からだけでなく、宇宙としてみている感じだろうか。自分と他という関係性ではない。
西洋的な視点も、唯識や空について考えるときに、とても参考になる。少しずつ読んでいきたいと思う。
引用:(4.115
哲学は、言うことのできるものをクリアに描くことによって、言うことの出来ないものを指ししめすだろう。)
なんか生死、浄土のことを言っているような気がする…。
未来の出来事を、私たちは現在の出来事から推測することはできないので、因果連鎖は迷信であると言い切る。
ここまでくると、なんか仏教に対して物申されているとしか思えなくなってくる…。
論理的に言語で説明できないことが存在したとして、それを私たちは考えることができないのだから、言語化して話すことができないという。そして、明日のことは仮説であって、明日太陽が昇るかどうかというようなことは、私たちにはわからないという。
ヴィトゲンシュタインは、内側から、明確に言えることだけを固めていく。そしてわからないことの境界線ができてくる。仏教は、その境界線の外側のことを言っている。
内側からだけでなく、宇宙としてみている感じだろうか。自分と他という関係性ではない。
西洋的な視点も、唯識や空について考えるときに、とても参考になる。少しずつ読んでいきたいと思う。