この頃、アインシュタインの相対性理論という、時間と空間を「相対化」して観測する理論が陽の目を見て普及し始めた頃だ。しかも、量子論に関しては1900年にマックス・プランクが発表してから認められるまでに11年を要しているが、この時期まだ量子論に関してはまだ議論の熱が止んでいなかったという時期と理解してから読んだ方が良い(マイケル・ポランニー「
暗黙知の次元
」参照)。
つまり、そういうことを考えて読まないと、議論が「古く」感じるという人がいるかもしれない。しかし、この時間と空間の認識論を哲学のパースペクティブ(視野)に取り入れた哲学者は、意外かもしれないが大変に少ない。このホワイトヘッドの様に、数学や物理学に精通した哲学者は、科学の専門化が広がり始めたこの時期にはすでに、横断的に思考出来る人が少なくなっていたのだ。
読もうと思ったきっかけは、茂木健一郎「
脳とクオリア
」でこの本を紹介していたことによる。ホワイトヘッドは確かに、自然を認識とあらゆる科学、宇宙、物理学、などを感覚と結びつけた「自然哲学」の計画を練っていたことは、この本を読むとわかる。しかもかなり用意周到で、ラッセルとコンビで出版した「プリンキピア・マテマティカ」から分かる通り、論理学の記号記述が多様で、この本の中にあちこちに散見されていて、数学の不得意な人は辟易する内容が出てくる。ホワイトヘッドは、「具体と抽象を取り違える錯誤」に陥らない為に、記述にも気を配っていたと思われる。詳しくはこの本の解説を読んだ方が良い。
ホワイトヘッドは、この本で延長(的)抽象化の方法という紹介していて、単純化して表現する為の方法として知的推論の操作を書いている。しつこいが、詳しくはこの本の「解説」を読んでから本書を読んだ方が良い(笑)。
「延長(的)抽象化の方法」というのは、興味深いというよりカッコよさがある。つまり、「抽象化」しないと、思考の中で思索する操作が出来ないという「確信」があったと思われ、抽象化すると、「概念」として、操作できる素材となることを理解していた様だ。しかし、同時に抽象的なままでは現実的世界では「実用」も出来ないことを知っていた。ここがホワイトヘッドの優れたところだ。「具体と抽象を取り違える錯誤」に陥らない覚悟がある。「体系化を好む知性は、むきだしの現実を嫌悪する」という警句は重要だ。
さらに、ホワイトヘッドの使っている「進入」(ingression)という言葉を「潜入」(dwell in)と置き換えると、これはマイケル・ポランニーの暗黙知に近い認識論になっていく。マイケル・ポランニーは密かに私淑していたと思しきところがあるが、用語はかなり変えている。「暗黙的認識は包括的存在(comprehensive entity)を理解することだ」(マイケル・ポランニー「
暗黙知の次元
」より引用)という内容などは、抱握(prehension)というホワイトヘッドの有名な用語に近い。このことを誰も気にしないのが不思議な位だ。あのマイケル・ポランニーを連呼していた、栗本慎一郎氏も避けていたのか、無視したのか、マイケル・ポランニーの方を担いだせいかは知らないが、メルロ=ポンティも、晩年はホワイトヘッドの哲学を見直そうとしている(「
眼と精神
」を執筆するきっかけだったと、サルトルも懐古している)。
出来事(event)という用語を彼は使っているが、これがホワイトヘッドの大著「過程と実在」になると「actual entity」(活動的存在)という用語になって、主要な概念になる。彼の後の大著への素材がこの本にはたくさん散らばっていて、ホワイトヘッドの研究者にしてみれば読んだ方が良いのだろう。
しかし、私はホワイトヘッドの「有機体の哲学」を評価はしていても研究者というわけではないので、解説はここまでにしたい。現代では補足説明が必要なところも無きにしも非ずだ。さすがに100年も経つと物理学や医学、化学、複雑系など、知られたことも増えていて、コンピューターが普及した今となっては論理学の複雑な演算はコンピューターに任せたいと思える。何よりも「面倒」であるからだ。
「すべての科学哲学者にとってもっとも重要な処世訓は、<つねに単純性を追及し、そして、たえずそれを疑うべし>」と述べている。これは本質を突いている。
ホワイトヘッドの先進性があるとするならば、時間とか、空間とか、一般の人々が使っている言葉を不用意に使うことを禁じていることであろうか。これは物理学者のカルロ・ロヴェッリが「[[ASIN:4140818816 世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論」で述べていて、これらの言葉の「語弊」が欧米における「二元論」を促したとホワイトヘッドと共に述べている。重要な指摘である。主観と客観とかも実は、心理学や大脳生理学ではシームレスなものであることは、現代では常識化しつつあるが、一般人は「内」と「外」を分けたがるが、実はそんなものは曖昧な「観念」でしかない。
ホワイトヘッドはそれを分断せずに「関係づける」、「繋いでいく」ことを重視している。
この本は万人にはお勧めしない。そういう意味で★3である。

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自然という概念 (ホワイトヘッド著作集) 単行本 – 1982/7/20
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
(著),
藤川 吉美
(翻訳)
自然という概念
- 本の長さ272ページ
- 言語日本語
- 出版社松籟社
- 発売日1982/7/20
- ISBN-104879840297
- ISBN-13978-4879840295
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登録情報
- 出版社 : 松籟社 (1982/7/20)
- 発売日 : 1982/7/20
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 272ページ
- ISBN-10 : 4879840297
- ISBN-13 : 978-4879840295
- Amazon 売れ筋ランキング: - 677,492位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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