同じ平凡社新書で『日本人はいつから働きすぎになったのか - <勤勉> の誕生』という快著を出している著者による、現代日本人の「無宗教」の由来を解き明かそうとしたユニークな試み。昔は宗教心の篤かった日本人が、いつ頃から、どのような経緯で、(とくに仏教に対する)信仰心が薄れていったのかという問題を、おもに国家の方針転換による影響という視点から解き明かそうとしている。私の理解不足から、間違っているかもしれないが、この本の主張をまとめてみよう。
1) 江戸時代には、幕府はキリスト教を弾圧するために仏教にお墨付きを与えたが、いつしか仏教は形骸化し、すでにこの頃から「無宗教」の萌芽がみられた。それでも、「宗教」が「習俗」と密接に結びついていたので、一般大衆には安定した信仰が根づいていた。
2) しかし、明治時代に移るときに、廃仏毀釈の運動があり、この段階で「習俗」の部分が切り離されてしまった。それでも、「国家神道」といういびつな形ではあっても、まだ「宗教」は維持されていた。
3) ところが、太平洋戦争に負けて、この戦前の体制さえもが崩れてしまった結果、自称「無宗教」の人々が多数を占めるようになってきた……。
(……と要約してみたものの、少し要点がずれているかもしれなので、実物でご確認ただきたい)。
使われている史料も、珍しいものが含まれていて、「これは読んでみたい」という本が何冊か紹介されている。
『日本人はいつから働きすぎになったのか』と同様、軽く読めるわりに、非常に有益な視点を与えてくれる本であった。
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日本人は本当に無宗教なのか (924;924) (平凡社新書 924) 新書 – 2019/10/17
礫川 全次
(著)
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日本人は「無宗教」と言われるが、本当にそうか。
かつての日本では、宗教と習俗とが補完し合う形で
人々の心を支え、社会や共同体を支えていた。
ある時期まで、日本人は十分に「宗教的」だった。
では、いつから日本人はいつから無宗教になったのか。
どうして無宗教になったのだろうか。
日本人の間に「無宗教」が生じた時期、
その背景について歴史民俗学的考察を試みる。
かつての日本では、宗教と習俗とが補完し合う形で
人々の心を支え、社会や共同体を支えていた。
ある時期まで、日本人は十分に「宗教的」だった。
では、いつから日本人はいつから無宗教になったのか。
どうして無宗教になったのだろうか。
日本人の間に「無宗教」が生じた時期、
その背景について歴史民俗学的考察を試みる。
- 本の長さ237ページ
- 言語日本語
- 出版社平凡社
- 発売日2019/10/17
- ISBN-104582859240
- ISBN-13978-4582859249
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著者について
1949年生まれ。在野史家、歴史民俗学研究会代表。著書に『サンカと三角寛』『知られざる福沢諭吉』『アウトローの近代史』『日本人はいつから働きすぎになったのか』(いずれも平凡社新書)、『隠語の民俗学』『異端の民俗学』(いずれも河出書房新社)、『サンカと説教強盗』(河出文庫)、『史疑 幻の家康論』『大津事件と明治天皇』『日本保守思想のアポリア』(いずれも批評社)、『独学で歴史家になる方法』(日本実業出版社)、編著書に『タブーに挑む民俗学──中山太郎土俗学エッセイ集成』(河出書房新社)などがある。
登録情報
- 出版社 : 平凡社 (2019/10/17)
- 発売日 : 2019/10/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 237ページ
- ISBN-10 : 4582859240
- ISBN-13 : 978-4582859249
- Amazon 売れ筋ランキング: - 451,826位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 426位平凡社新書
- カスタマーレビュー:
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2019年11月30日に日本でレビュー済み
本題とは関係ないが、「盆踊おどり」の習俗や、戦前において国家神道は宗教として位置づけられていなかったことなど、私の知らなかったことが書かれており、有益だった。
本書を読んで、宗教をどう定義するかは極めて難しいと改めて思った。
本書を読んで、宗教をどう定義するかは極めて難しいと改めて思った。
2019年10月23日に日本でレビュー済み
たいへんデリケートな問題だけに、著者の苦悩がにじみ出ている一冊である。だが、たいへん読みやすく、あっという間に読み切ってしまった。
阿満利麿氏の『日本人はなぜ無宗教なのか』も読んだことがあるが、日本人が無宗教なのか否かについては答えが出せない、というのが私の率直な感想だ。
それは恐らく、自分の宗教に対する無自覚・無関心からくるものだろう。
本書は、そんな日本人の宗教観(もっとも無自覚・無関心ならば宗教観などないのだろうが…)を歴史民俗学的に解明した名著といえよう。
阿満利麿氏の『日本人はなぜ無宗教なのか』も読んだことがあるが、日本人が無宗教なのか否かについては答えが出せない、というのが私の率直な感想だ。
それは恐らく、自分の宗教に対する無自覚・無関心からくるものだろう。
本書は、そんな日本人の宗教観(もっとも無自覚・無関心ならば宗教観などないのだろうが…)を歴史民俗学的に解明した名著といえよう。
2019年10月18日に日本でレビュー済み
日本人は本当に無宗教なのか。これが本書の「問い」であると、この本は書きはじめている。また、日本人の無宗教を解く最大の鍵は、「明治維新というネジレ」にあるという認識を持っているという。
そうして、やはり日本人は無宗教である、と結論づけているのだが、しかし、このように書いてしまえば実も蓋もない話であって、この二つの間に展開されている、ありとあらゆる文献を駆使しての礫川ワールドが、この本を面白く興味深いものにしているのである。
日本人の無宗教について書かれた文章は多いが、習俗との関わり、および、権力との関わり、この二つの視点から論じたものは、これまでになかったと自負している著者の、これは意欲作である。
そうして、やはり日本人は無宗教である、と結論づけているのだが、しかし、このように書いてしまえば実も蓋もない話であって、この二つの間に展開されている、ありとあらゆる文献を駆使しての礫川ワールドが、この本を面白く興味深いものにしているのである。
日本人の無宗教について書かれた文章は多いが、習俗との関わり、および、権力との関わり、この二つの視点から論じたものは、これまでになかったと自負している著者の、これは意欲作である。
2019年10月21日に日本でレビュー済み
本書は、「日本人は本当に無宗教なのか」という問いに、
・《核となる宗教があって、その周辺に習俗が存在している時代があった(江戸時代)。》
・《核となる宗教が形骸化し、習俗のみが存在している時代があった(明治・大正・昭和時代)。》
・《そして、今日、その習俗もまた、崩壊に瀕している。》(以上、p.216)
と、中心の「宗教」と周縁の「習俗」に区分し、まず近代には、「宗教」が「形式」化し、つぎに現代には、「習俗」も崩れ去ろうとしていると指摘しており、
・《国家権力、ないし、それに追随する知識人が、「宗教」というものに対して、禁圧や介入を繰り返してきた結果、「宗教」に対する民衆の意識が、偏向した形で(ネガティブな形で・習俗を否定する形で・混乱を招くような形で)固定してしまったから》(p.217)
と答えています。
この「宗教」と「習俗」の区分は、阿満利麿氏の著書「日本人はなぜ無宗教なのか」の中で、「宗教」を、教祖・経典・教団の3者がある「創唱(そうしょう)宗教」と、自然発生的な「自然宗教」に、二分したのちに取り上げられており、それを受け継ごうとしているようにみえます。
ですが、これだと現在は、「宗教」も「習俗」も崩壊間近といっているのに、なぜ大勢の人々が神社・仏寺に参拝するのかが説明できず、この現象は、「宗教」なのか、「習俗」なのかも不明です。
しかも、そもそも中世(1章)には、「宗教」も「習俗」も存在していたとして、
・近世(2・4章):反宗教的とされる武士(人口の約7%)や、脱宗教的とされる町人(約5%)、弾圧されたキリシタンは少数で、多数の百姓(約85%)が本書で取り上げられていない
・近代(5・7章):廃仏毀釈に参加したのは、民衆の少数だったとみられ、もし多数だったら、仏教・キリスト教勢力の抵抗で、維新政府が推進した神道の国教化を断念していないはずで、政府に弾圧されたキリスト教・新宗教も少数なので、多数の臣民(国民)が本書で取り上げられていない
のに、少数・傍流の事例を持ち出して、多数・本流の日本人を読み解こうとするのは、やや強引ではないでしょうか。
廃仏毀釈後も、戦後しばらくまで、神棚とともに仏壇が、大半の家庭に設置されていたのは、神道・神式は、現世の祈願しか請け負えず、来世の葬儀は、仏教・仏式が請け負うのが妥当だったからでしょう。
私は、宗教を検討する際には、「思想」的な側面(教義面)と、「形式」的な側面(儀礼面)の、両面に区分すれば理解しやすくなるとみています。
既成の宗教だと、一般に、神道には、教義がなく(あっても、他宗教の「思想」を援用しています)、儀礼のみで、儒教には、儀礼がなく(命日や御盆の先祖祭祀は、儒教由来で、すでに中国で仏教行事に取り込まれました)、教義のみで、仏教・キリスト教には、教義と儀礼の両方があります。
そのうえ、宗教は、一般に、教団に所属した親が、子とともに儀礼へ参加するうちに、教義を吸収していくので、多数が「形式」を体験し、そのうちの少数が「思想」を信仰するものといえます(ただし、国家神道は、教師が生徒に「思想」を教育しました)。
そして、日本の宗教の本流は、社会環境の影響で、次のように移り変わっていったと、まとめられます。
・古代~中世:神仏習合で、仏教が主(武士の「思想」は主に禅)・神道が従
・近世:武士の「思想」は儒教(朱子学)、庶民は仏教が主(寺檀制)・神道が従
・近代:神仏分離で、全臣民の「形式」は神道・「思想」は儒教
このうち、武士は、主従関係が原則で、中世武士は、実力のある主君との契約的・双務的な関係だったので、師と弟子の上下関係を選択できる、禅が利用されました。
一方、近世武士は、戦乱が終息し、世襲の主君との宿命的・片務的な関係になったので、上下の秩序を尊重する、儒教(朱子学)が利用されました。
また、中世には、仏教は庶民救済のための存在だったので、「思想」と「形式」が一体しており、庶民が信仰のもと、教団で行動、武将にも敵対しました。
ところが、近世には、徳川幕府により、庶民が武士の統制下になり、地元仏寺が役所化、仏教の「思想」も形骸化しはじめ、庶民は、講(こう)を活用する等し、有名社寺を参詣、疎遠な神仏とも親密になるとともに、地元神社の祭礼に見物客が参加するようにもなりました。
庶民は、地元仏寺に行動を制限されていましたが、神仏参拝だけは遠方でも許容されていたので、表では、有名社寺参詣といいつつ、裏では、社寺周辺での遊興も満喫でき、宗教が行楽・旅行として「形式」化していきました。
それが近代には、公的な「思想」では、儒教の忠孝一致が利用され、最も疎遠だった天皇が君主になり、全臣民に崇敬・絶対忠誠が要求され、公的な「形式」では、皇室神道が国家祭儀化される反面(国家神道)、私的な「思想」や「形式」では、信教の自由が確保されました(神道非宗教論)。
公的な「思想」を儒教が、公的な「形式」を神道が、受け持ったのは、儒教には、儀礼がなく、神道には、教義がなかったからで(神儒合一)、ここで注目すべきは、公的世界と私的世界を二分したからこそ、皇室神道の国家祭儀化と、個人の信教の自由との矛盾を、解消できたことです。
しかし、個人の信教の自由に侵食してきた国家に反抗するほどの、私的な「思想」や「形式」を持ち合わせていたのは、新宗教徒・キリスト教徒等だけだったので、戦後に、公的な「思想」や「形式」が廃止されると、宗教を信仰したのは極少数で、大多数は無宗教になりました。
それでも、神社・仏寺への参拝という「形式」は、大勢の人々が受け入れましたが、神棚・仏壇を祀る・祈るという「形式」は、それほど受け入れられず、近年では、クリスマス・ハロウィンや恵方巻の「形式」が受け入れられています。
このように、「思想」は、忘れ去られても、「形式」は、生き残るので、最近の寺社では、「思想」を布教せず、祈り・祭りの「形式」を紹介することで、誰にでも門戸を開放し、永続しようとしています。
大勢の人々に、「思想」がないといえるのは、自分の参拝した神社・仏寺の祭神・仏像や、自分の家系の宗派を、知らずに過ごしても平気だからで、「形式」は、簡単にいえば気分転換です。
そこで、私は、個人・集団の不安を乗り越えようとする、非合理的な(根拠や理屈のない)宗教の、「思想」と「形式」を難易度により、次のように設定してみました。
・信じる者は、救われる(信仰による救済):易しい「思想」=教義
・悟る者は、救われる(達観による救済):難しい「思想」=真理、禅問答
・祈り祭る者は、救われる(拝礼による救済):易しい「形式」=儀式、念仏・座禅、習俗
・行いの良い者は、救われる(善行による救済):難しい「形式」=修行・戒律、徳目、寄進
仏教やキリスト教では、「思想」「形式」において、在家信者や信徒は、易しいほうを、出家信者や神父・牧師は、難しいほうを選択し、後者は、前者を救済するのが仕事で、前者の一部が後者へと踏み込めば、宗教として成り立ちます。
筆者は、「宗教」と「習俗」を区分していますが、曖昧でわかりにくく、しきたり・ならわしの「習俗」は、易しい「形式」といえますが、仏教の一向宗・曹洞宗も、それぞれ念仏・座禅のみに特化し、易しく「形式」化されているので、「宗教」かどうかの議論は不毛です。
むしろ、「思想」と「形式」の二分は、「宗教」や「習俗」の周辺の言動にも適用できます。
たとえば、本書でも取り上げられた、本居宣長は、「思想」(言説)では、日中朝・神仏儒の文献に混入した、外来の漢意(からごころ、理屈・合理性)を排除し、日本古来の大和心(やまとごころ、感情・非合理性)を抽出・読解しようとし、そこから、皇国の優位性を主張するようになりました。
他方、宣長は、「形式」(行動)では、「万葉集」や「古事記」を研究し、後世の学説を排除しましたが、実作になると、古風の歌と後世風の歌を詠み分けており、古道の一貫性に抵抗しています(脱中華的)。
ちなみに、筆者は、宣長が皇国の優位性を霊妙なる信仰だといい、説明しないのを批判していますが、当時の天皇は、権威あり・権力なしで、御所に引き籠もり、時の政権の統治を公認するだけで、ほぼ何もしない、多元的な(多様性のある)世界観でした(脱中華的)。
だからこそ、宣長は、大は小を制するのを当然とする、上田秋成の一元的(中華思想的)な世界観を批判し、曖昧な「徳」(有徳)で、皇帝が上から統治するよりも、明確な「血」(血統)で、天皇のもと、下から結集するほうが皆が納得できるので、皇国の優位性を主張したのではないでしょうか。
中国皇帝の有徳による統治は、名目上でしかなく、実質上は武力による統治なので、それは、皆に納得を強要した一元的(中華思想的)な世界観なのです。
宣長の皇国の優位性は、国連の事務総長が大国から選出されない慣例になっているのと類似しており、そうすることで、多元的な世界観を確保しようとし、もしその地位を武力を背景にした大国が競い合えば、一元的な世界観になってしまいます。
宣長が説明しないのは、皇国の優位性を非合理的な宗教とみているからで、もし天皇が、合理的な政治に関与していたのなら、その根拠や理屈が必要ですが、そうではないので不要なのです。
でも、宣長の皇国の優位性は、欧米列強の日本接近が本格化する以前の鎖国状態だったからこそ主張でき、平田篤胤の時代以降、武力を背景にした列強の圧迫が強烈になったので、日本も列強と渡り合うために、一元的な世界観が必須になり、後世に宣長の意味を真逆に変容させたのです。
したがって、宣長と篤胤では、社会環境が激変しているので、両者を同等に取り扱ってはいけないのではないでしょうか。
上記4項目で、私が、達観による救済も取り入れたのは、仏教での万物やその現象が相互関連性で成り立っているという因縁生起や、儒教での道徳等にはもはや信仰するしかない非合理的な内容だからで、これは、宗教の範囲といえ、この「思想」の創出で自己救済しようとしています。
宣長は、人の合理的な政治(顕事/あらわごと)だけでは、吉(吉善事/よごと)が、やがて凶(凶悪事/まがごと)になることもあるため、そこで神仏の非合理的な宗教(幽事/かくりごと)により、凶から吉へと回復させ、それを交互に反復するのをイメージしています。
よって、日本で天皇は、自身が政治に関与しなくなると、時の政権の統治を公認する程度になり、変化・変動の時の政権による政治と、不変・不動の天皇による祭祀で、不即不離の補完関係になったとも導き出せます。
それで、個人・集団の不安を、合理的に乗り越えようとする政治は、物的・量的な満足を請け負い、非合理的に乗り越えようとする宗教は、心的・質的な満足を請け負ってきました。
非合理的で、心的・質的な満足をさせるのは、宗教の他にも、文化・芸術・スポーツ等があり、合理的にすべき仕事等で落ち込んでも、気分転換できるので、これも不即不離の補完関係といえます。
中世の宗教が近世に形骸化したのは、戦争の時代から平和の時代になり、特権階級のほぼ独占だった文化が、庶民の間にも普及していったので(近代以前の庶民文化の発達は、世界で極稀)、庶民を救済する手段が、宗教から文化へと移り変わったからではないでしょうか。
筆者の主張だと、国家権力や知識人が宗教に度々介入・弾圧したので、それが庶民の意識に影響したと、みていますが、キリスト教等は、散々介入・弾圧されても抵抗し、絶滅せずに少数派で細々と存続しました。
なので、私は、庶民の多数派が江戸期の平和の中で、強制的というより、自発的に宗教の形骸化=「形式」化を選択し、文化に接近していったとみています。
・《核となる宗教があって、その周辺に習俗が存在している時代があった(江戸時代)。》
・《核となる宗教が形骸化し、習俗のみが存在している時代があった(明治・大正・昭和時代)。》
・《そして、今日、その習俗もまた、崩壊に瀕している。》(以上、p.216)
と、中心の「宗教」と周縁の「習俗」に区分し、まず近代には、「宗教」が「形式」化し、つぎに現代には、「習俗」も崩れ去ろうとしていると指摘しており、
・《国家権力、ないし、それに追随する知識人が、「宗教」というものに対して、禁圧や介入を繰り返してきた結果、「宗教」に対する民衆の意識が、偏向した形で(ネガティブな形で・習俗を否定する形で・混乱を招くような形で)固定してしまったから》(p.217)
と答えています。
この「宗教」と「習俗」の区分は、阿満利麿氏の著書「日本人はなぜ無宗教なのか」の中で、「宗教」を、教祖・経典・教団の3者がある「創唱(そうしょう)宗教」と、自然発生的な「自然宗教」に、二分したのちに取り上げられており、それを受け継ごうとしているようにみえます。
ですが、これだと現在は、「宗教」も「習俗」も崩壊間近といっているのに、なぜ大勢の人々が神社・仏寺に参拝するのかが説明できず、この現象は、「宗教」なのか、「習俗」なのかも不明です。
しかも、そもそも中世(1章)には、「宗教」も「習俗」も存在していたとして、
・近世(2・4章):反宗教的とされる武士(人口の約7%)や、脱宗教的とされる町人(約5%)、弾圧されたキリシタンは少数で、多数の百姓(約85%)が本書で取り上げられていない
・近代(5・7章):廃仏毀釈に参加したのは、民衆の少数だったとみられ、もし多数だったら、仏教・キリスト教勢力の抵抗で、維新政府が推進した神道の国教化を断念していないはずで、政府に弾圧されたキリスト教・新宗教も少数なので、多数の臣民(国民)が本書で取り上げられていない
のに、少数・傍流の事例を持ち出して、多数・本流の日本人を読み解こうとするのは、やや強引ではないでしょうか。
廃仏毀釈後も、戦後しばらくまで、神棚とともに仏壇が、大半の家庭に設置されていたのは、神道・神式は、現世の祈願しか請け負えず、来世の葬儀は、仏教・仏式が請け負うのが妥当だったからでしょう。
私は、宗教を検討する際には、「思想」的な側面(教義面)と、「形式」的な側面(儀礼面)の、両面に区分すれば理解しやすくなるとみています。
既成の宗教だと、一般に、神道には、教義がなく(あっても、他宗教の「思想」を援用しています)、儀礼のみで、儒教には、儀礼がなく(命日や御盆の先祖祭祀は、儒教由来で、すでに中国で仏教行事に取り込まれました)、教義のみで、仏教・キリスト教には、教義と儀礼の両方があります。
そのうえ、宗教は、一般に、教団に所属した親が、子とともに儀礼へ参加するうちに、教義を吸収していくので、多数が「形式」を体験し、そのうちの少数が「思想」を信仰するものといえます(ただし、国家神道は、教師が生徒に「思想」を教育しました)。
そして、日本の宗教の本流は、社会環境の影響で、次のように移り変わっていったと、まとめられます。
・古代~中世:神仏習合で、仏教が主(武士の「思想」は主に禅)・神道が従
・近世:武士の「思想」は儒教(朱子学)、庶民は仏教が主(寺檀制)・神道が従
・近代:神仏分離で、全臣民の「形式」は神道・「思想」は儒教
このうち、武士は、主従関係が原則で、中世武士は、実力のある主君との契約的・双務的な関係だったので、師と弟子の上下関係を選択できる、禅が利用されました。
一方、近世武士は、戦乱が終息し、世襲の主君との宿命的・片務的な関係になったので、上下の秩序を尊重する、儒教(朱子学)が利用されました。
また、中世には、仏教は庶民救済のための存在だったので、「思想」と「形式」が一体しており、庶民が信仰のもと、教団で行動、武将にも敵対しました。
ところが、近世には、徳川幕府により、庶民が武士の統制下になり、地元仏寺が役所化、仏教の「思想」も形骸化しはじめ、庶民は、講(こう)を活用する等し、有名社寺を参詣、疎遠な神仏とも親密になるとともに、地元神社の祭礼に見物客が参加するようにもなりました。
庶民は、地元仏寺に行動を制限されていましたが、神仏参拝だけは遠方でも許容されていたので、表では、有名社寺参詣といいつつ、裏では、社寺周辺での遊興も満喫でき、宗教が行楽・旅行として「形式」化していきました。
それが近代には、公的な「思想」では、儒教の忠孝一致が利用され、最も疎遠だった天皇が君主になり、全臣民に崇敬・絶対忠誠が要求され、公的な「形式」では、皇室神道が国家祭儀化される反面(国家神道)、私的な「思想」や「形式」では、信教の自由が確保されました(神道非宗教論)。
公的な「思想」を儒教が、公的な「形式」を神道が、受け持ったのは、儒教には、儀礼がなく、神道には、教義がなかったからで(神儒合一)、ここで注目すべきは、公的世界と私的世界を二分したからこそ、皇室神道の国家祭儀化と、個人の信教の自由との矛盾を、解消できたことです。
しかし、個人の信教の自由に侵食してきた国家に反抗するほどの、私的な「思想」や「形式」を持ち合わせていたのは、新宗教徒・キリスト教徒等だけだったので、戦後に、公的な「思想」や「形式」が廃止されると、宗教を信仰したのは極少数で、大多数は無宗教になりました。
それでも、神社・仏寺への参拝という「形式」は、大勢の人々が受け入れましたが、神棚・仏壇を祀る・祈るという「形式」は、それほど受け入れられず、近年では、クリスマス・ハロウィンや恵方巻の「形式」が受け入れられています。
このように、「思想」は、忘れ去られても、「形式」は、生き残るので、最近の寺社では、「思想」を布教せず、祈り・祭りの「形式」を紹介することで、誰にでも門戸を開放し、永続しようとしています。
大勢の人々に、「思想」がないといえるのは、自分の参拝した神社・仏寺の祭神・仏像や、自分の家系の宗派を、知らずに過ごしても平気だからで、「形式」は、簡単にいえば気分転換です。
そこで、私は、個人・集団の不安を乗り越えようとする、非合理的な(根拠や理屈のない)宗教の、「思想」と「形式」を難易度により、次のように設定してみました。
・信じる者は、救われる(信仰による救済):易しい「思想」=教義
・悟る者は、救われる(達観による救済):難しい「思想」=真理、禅問答
・祈り祭る者は、救われる(拝礼による救済):易しい「形式」=儀式、念仏・座禅、習俗
・行いの良い者は、救われる(善行による救済):難しい「形式」=修行・戒律、徳目、寄進
仏教やキリスト教では、「思想」「形式」において、在家信者や信徒は、易しいほうを、出家信者や神父・牧師は、難しいほうを選択し、後者は、前者を救済するのが仕事で、前者の一部が後者へと踏み込めば、宗教として成り立ちます。
筆者は、「宗教」と「習俗」を区分していますが、曖昧でわかりにくく、しきたり・ならわしの「習俗」は、易しい「形式」といえますが、仏教の一向宗・曹洞宗も、それぞれ念仏・座禅のみに特化し、易しく「形式」化されているので、「宗教」かどうかの議論は不毛です。
むしろ、「思想」と「形式」の二分は、「宗教」や「習俗」の周辺の言動にも適用できます。
たとえば、本書でも取り上げられた、本居宣長は、「思想」(言説)では、日中朝・神仏儒の文献に混入した、外来の漢意(からごころ、理屈・合理性)を排除し、日本古来の大和心(やまとごころ、感情・非合理性)を抽出・読解しようとし、そこから、皇国の優位性を主張するようになりました。
他方、宣長は、「形式」(行動)では、「万葉集」や「古事記」を研究し、後世の学説を排除しましたが、実作になると、古風の歌と後世風の歌を詠み分けており、古道の一貫性に抵抗しています(脱中華的)。
ちなみに、筆者は、宣長が皇国の優位性を霊妙なる信仰だといい、説明しないのを批判していますが、当時の天皇は、権威あり・権力なしで、御所に引き籠もり、時の政権の統治を公認するだけで、ほぼ何もしない、多元的な(多様性のある)世界観でした(脱中華的)。
だからこそ、宣長は、大は小を制するのを当然とする、上田秋成の一元的(中華思想的)な世界観を批判し、曖昧な「徳」(有徳)で、皇帝が上から統治するよりも、明確な「血」(血統)で、天皇のもと、下から結集するほうが皆が納得できるので、皇国の優位性を主張したのではないでしょうか。
中国皇帝の有徳による統治は、名目上でしかなく、実質上は武力による統治なので、それは、皆に納得を強要した一元的(中華思想的)な世界観なのです。
宣長の皇国の優位性は、国連の事務総長が大国から選出されない慣例になっているのと類似しており、そうすることで、多元的な世界観を確保しようとし、もしその地位を武力を背景にした大国が競い合えば、一元的な世界観になってしまいます。
宣長が説明しないのは、皇国の優位性を非合理的な宗教とみているからで、もし天皇が、合理的な政治に関与していたのなら、その根拠や理屈が必要ですが、そうではないので不要なのです。
でも、宣長の皇国の優位性は、欧米列強の日本接近が本格化する以前の鎖国状態だったからこそ主張でき、平田篤胤の時代以降、武力を背景にした列強の圧迫が強烈になったので、日本も列強と渡り合うために、一元的な世界観が必須になり、後世に宣長の意味を真逆に変容させたのです。
したがって、宣長と篤胤では、社会環境が激変しているので、両者を同等に取り扱ってはいけないのではないでしょうか。
上記4項目で、私が、達観による救済も取り入れたのは、仏教での万物やその現象が相互関連性で成り立っているという因縁生起や、儒教での道徳等にはもはや信仰するしかない非合理的な内容だからで、これは、宗教の範囲といえ、この「思想」の創出で自己救済しようとしています。
宣長は、人の合理的な政治(顕事/あらわごと)だけでは、吉(吉善事/よごと)が、やがて凶(凶悪事/まがごと)になることもあるため、そこで神仏の非合理的な宗教(幽事/かくりごと)により、凶から吉へと回復させ、それを交互に反復するのをイメージしています。
よって、日本で天皇は、自身が政治に関与しなくなると、時の政権の統治を公認する程度になり、変化・変動の時の政権による政治と、不変・不動の天皇による祭祀で、不即不離の補完関係になったとも導き出せます。
それで、個人・集団の不安を、合理的に乗り越えようとする政治は、物的・量的な満足を請け負い、非合理的に乗り越えようとする宗教は、心的・質的な満足を請け負ってきました。
非合理的で、心的・質的な満足をさせるのは、宗教の他にも、文化・芸術・スポーツ等があり、合理的にすべき仕事等で落ち込んでも、気分転換できるので、これも不即不離の補完関係といえます。
中世の宗教が近世に形骸化したのは、戦争の時代から平和の時代になり、特権階級のほぼ独占だった文化が、庶民の間にも普及していったので(近代以前の庶民文化の発達は、世界で極稀)、庶民を救済する手段が、宗教から文化へと移り変わったからではないでしょうか。
筆者の主張だと、国家権力や知識人が宗教に度々介入・弾圧したので、それが庶民の意識に影響したと、みていますが、キリスト教等は、散々介入・弾圧されても抵抗し、絶滅せずに少数派で細々と存続しました。
なので、私は、庶民の多数派が江戸期の平和の中で、強制的というより、自発的に宗教の形骸化=「形式」化を選択し、文化に接近していったとみています。