『暗黒街の弾痕』(You Only Live Once)('37)
出演 ∶ヘンリー·フォンダ、シルヴィア·シドニー、ウィリアム·ガーガン、バートン·マクレーン、ジーン·ディクソン、ジェローム·コーワン、マーガレット·ハミルトン、ウォード·ボンド、グイン·ウィリアムズ、ジャック·カーソン
監督∶フリッツ·ラング
アメリカで1940〜50年代に隆盛を誇ったフィルム·ノワールと呼ばれる犯罪映画のジャンルがあるが、1937年製作のこの映画『暗黒街の弾痕』は、その"走り"ではないだろうか。止むに止まれぬ事情(or 自業自得の理由)で、犯罪絡みの転落コースに足を踏み入れてしまった主人公たちが落ちてゆく、その生きザマ(or 死にザマ)を描いたサスペンス映画……というのが、その典型だ。(たまにハッピーエンドもあるが……)
主演のシルヴィア·シドニーとヘンリー·フォンダは、この前年製作の初のオールカラー西部劇『丘の一本松』でも共演している。子供の頃から決められた許嫁(いいなずけ)同士という役柄でした。(どちらの作品のクレジットでも、シルヴィア·シドニーの名前の方が先になってます。彼女の方が格上?)
ドイツ映画界で大物監督となったユダヤ系のフリッツ·ラング監督が、ナチの迫害を逃れて亡命後、『激怒』('36)に続いて放った渡米第2作だ。シルヴィア·シドニーは、『激怒』でもヒロイン役をやってましたね。(同年製作のアルフレッド·ヒッチコック監督の『サボタージュ』にも主演してました。20代にして、巨匠に一目置かれる女優さんだったようですね)
[物語] ジョー(シドニー)は、弁護士ウィットニー(マクレーン)の事務所で働きながら、刑務所に服役中の恋人エディ(フォンダ)の出所を待っていた。ウィットニーの尽力もあって、エディは仮出所となり、運送会社の運転手の仕事も紹介され、ジョーはそんなエディと結婚する。
だが、世間は前科者に冷たかった。旅先では前歴がバレて宿泊を断られ、勤務先は遅刻を理由に解雇されてしまう。結婚生活や新居のために地道でも安定した収入を求めるエディは、刑務所仲間からの"ボロい仕事"への誘いも断り、カタギの就職口を探し歩く。
そんな時、銀行の現金輸送車が毒ガスで襲撃され、数名の死者を残して大金が輸送車ごと強奪され、その行方は杳として不明となる。現場にイニシャル入りのエディの帽子が落ちていたことから、エディに容疑がかかり逮捕される。状況は圧倒的に不利で、前科3犯のエディは有罪、死刑判決を受けてしまう。
妊娠中の妻ジョーのためにも自由になりたいエディは死刑執行直前、以前の懲役仲間の手引きで拳銃を入手して脱獄を図る。そんな時、盗まれた輸送車の残骸が、真犯人の死体とともに発見され、エディの無実が判明する。だが、時すでに遅く、エディは恩人である刑務所のドーラン神父(ガーガン)を射殺してしまい、脱獄していた。
エディの連絡を受けたジョーは、姉ボニー(ディクソン)やウィットニー弁護士の制止を振り切り、エディとともに逃避行へ。指名手配された二人は犯行を重ねることになり、彼らの賞金額も倍増してゆく。そんな二人を、ボニーとウィットニーは船に密航させて海外に逃がそうとするが……。
'40年代以降に大流行するフィルム·ノワールの"走り"と前述したが、のちの典型的ノワール作品の乾いたタッチと比べると、かなりセンチメンタルで、むしろ良質なメロドラマを思わせる作品だ。
前半、エディが前科者として差別され、冤罪で逮捕されるまでが丁寧に描かれているのに対して、脱獄後、二人揃って転落していくくだりが駆け足になってしまったのが残念だ。(途中、ジョーの出産などもあって、ドラマチックに膨らませる要素が多々あっただけにね) この当時の一般的娯楽映画が、1時間10分〜30分ぐらいの尺だったことを考えると、仕方のないことなのでしょうか……。
前作『激怒』も本作『暗黒街の弾痕』も共に、身に覚えのない冤罪で逮捕されてしまった主人公の悲劇が描かれている。ユダヤ系というだけで迫害され、やがては収容所で処刑される国から逃れてきたフリッツ·ラングが、それを監督することに、どこまで本人の意志があったのか、どこまで反ナチ·プロパガンダを狙う映画会社or政府(?)の意図があったのかはよくわかりません。
そのような政治的·思想的背景も考えられる時代の映画ではあるが、それを抜きにしてもこの作品はフィルム·ノワールいやサスペンス·メロドラマの古典的傑作だと思う。
[余談]『暗黒街の弾痕』という、犯罪組織の抗争劇を思わせるようなハードボイルドな邦題が付いているが、原題は“You Only Live Once(人生は一度だけ)”という慣用句である。これで連想したのは、ある有名なスパイ·アクション映画(及び原作小説)のこと。その原題は、“You Only Live Twice”で、邦題は『007は二度死ぬ』だ。
どちらも原題では“Live(生きる)”が使われているのに、なぜか邦題は「生」ではなく、「弾痕」「二度死ぬ」と「死」のイメージを強調している。日本人には、その方がアピール度が強いのだろうか? 日本人ってネガティヴ志向 !? それとも「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」という気分に酔いたいとか……!?