個人の主観で語られやすい「魂」と、理論的に考察する「哲学」がどう結びつくのか、タイトルからして興味をそそった。前半は「ゲシュタルト崩壊」という珍妙な現象が現れ、ウィトゲンシュタインとカール・クラウスの言語論に進む。「やさしい」とか「素晴らしい」の意味の考察や、「しっくりくる言葉」とはどういうことかなど、日常生活に即して書かれている。
後半では、言葉とは「迷いという道徳的な贈り物」であり、向こうから訪れるという言葉の自律性、言葉の根源に近づくことは戦争を遠ざけるなど、言葉の核心に入っていく。さらに言葉の形(かたち)とはなにか、そのあたりが「魂」と結びついてくるのではないかと、自分なりに考えている。
本書は哲学の難しい印象はなく、それでいて知的好奇心を満たしてくれる。人生変わるかもいうのは大げさかも知れないけれど、そのくらい発見がある。言葉に興味のある方にはお薦めします。
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言葉の魂の哲学 (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) – 2018/4/10
古田 徹也
(著)
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【2019年サントリー学芸賞受賞(思想・歴史部門)】
中島敦の小説「文字禍」、ホーフマンスタールの小説「チャンドス卿の手紙」。この二つの作品に描かれたいわゆる「ゲシュタルト崩壊」、すなわち、文字が意味や表情を失って見える現象をてがかりに、ウィトゲンシュタインの言語論に新しい視座を与え、カール・クラウスの言語論に、すぐれて現代的な意味を見出す。清新な言語哲学の登場!
言葉が表情を失うことがある。たとえば、「今」という字をじっと見つめ続けたり、あるいは、「今、今、今、今、今、今・・・」と延々書き続けたりすると、なじみのあるはずの言葉が突然、たんなる線の寄せ集めに見えてくる。一般に、「ゲシュタルト崩壊」といわれる現象だ。
逆に、言葉が魂が入ったように表情を宿し、胸を打つようになることがある。こういう現象を、どうとらえたらいいのだろうか。魂のある言葉とは、どのようなものか。
本書は、中島敦とホーフマンスタールの二編の小説からはじまる。いずれも、「ゲシュタルト崩壊」をあつかった作品である。
ついで、ウィトゲンシュタインの言語論を検証する。かれが「魂なき言語と魂ある言語」といったとき、どのような哲学が展開されるか。
そして、最後に、カール・クラウスの言語論を考える。
生涯をかけて、言語批判をつらぬいたクラウスの思想とは、どのようなものだったか。
それは、「常套句に抗する」ことで、世の中をかえようとする試みでもあった。
以上の三つの核によりそいながら、「命ある言葉」とはなにかを哲学する力作。
中島敦の小説「文字禍」、ホーフマンスタールの小説「チャンドス卿の手紙」。この二つの作品に描かれたいわゆる「ゲシュタルト崩壊」、すなわち、文字が意味や表情を失って見える現象をてがかりに、ウィトゲンシュタインの言語論に新しい視座を与え、カール・クラウスの言語論に、すぐれて現代的な意味を見出す。清新な言語哲学の登場!
言葉が表情を失うことがある。たとえば、「今」という字をじっと見つめ続けたり、あるいは、「今、今、今、今、今、今・・・」と延々書き続けたりすると、なじみのあるはずの言葉が突然、たんなる線の寄せ集めに見えてくる。一般に、「ゲシュタルト崩壊」といわれる現象だ。
逆に、言葉が魂が入ったように表情を宿し、胸を打つようになることがある。こういう現象を、どうとらえたらいいのだろうか。魂のある言葉とは、どのようなものか。
本書は、中島敦とホーフマンスタールの二編の小説からはじまる。いずれも、「ゲシュタルト崩壊」をあつかった作品である。
ついで、ウィトゲンシュタインの言語論を検証する。かれが「魂なき言語と魂ある言語」といったとき、どのような哲学が展開されるか。
そして、最後に、カール・クラウスの言語論を考える。
生涯をかけて、言語批判をつらぬいたクラウスの思想とは、どのようなものだったか。
それは、「常套句に抗する」ことで、世の中をかえようとする試みでもあった。
以上の三つの核によりそいながら、「命ある言葉」とはなにかを哲学する力作。
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2018/4/10
- 寸法13 x 1.6 x 18.8 cm
- ISBN-104062586762
- ISBN-13978-4062586764
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商品の説明
著者について
古田 徹也
1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。現在、専修大学准教授。専攻は、哲学、倫理学。「言語」「心」「行為」を手がかりに研究を進める。主な著書に、『それは私がしたことなのか――行為の哲学入門』(新曜社)、訳書に、ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』(講談社)、共訳書に『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』(講談社学術文庫)などがある。
1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。現在、専修大学准教授。専攻は、哲学、倫理学。「言語」「心」「行為」を手がかりに研究を進める。主な著書に、『それは私がしたことなのか――行為の哲学入門』(新曜社)、訳書に、ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』(講談社)、共訳書に『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』(講談社学術文庫)などがある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2018/4/10)
- 発売日 : 2018/4/10
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 256ページ
- ISBN-10 : 4062586762
- ISBN-13 : 978-4062586764
- 寸法 : 13 x 1.6 x 18.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 175,971位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 156位講談社選書メチエ
- - 3,340位実用・暮らし・スポーツ
- - 7,954位評論・文学研究 (本)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2018年4月18日に日本でレビュー済み
古田徹也先生の待望の新作!格調の高い文体は読みごたえがあります!一度は読んでおきたい本でした!
2019年7月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本には、「言葉から魂が抜ける体験」と「言葉に魂が宿る体験」について書いてあります。
第1章では、「言葉から魂が抜ける体験」を表現した小説として、中島敦「文字禍」とホーフマンスタール「チャンドス卿の手紙」が挙げられています。
「文字禍」では、「一つの文字を長く見つめていると、その文字が解体して無意味な線の集まりにしか見えなくなってくる」ゲシュタルト崩壊の恐怖が表現されています。また、文字が実在する事物の影であり、実在する事物を覆うヴェールのようなものだという考え方も紹介されていました。
「チャンドス卿の手紙」では、自分と世界の親密さが失われ、世界が空虚に感じられる現象が表現されています。また、生き生きとした現実を言葉にすると現実のダイナミズムが失われることも描かれていました。
第2章では、「言葉に魂が宿る体験」を考察したウィトゲンシュタインについて説明されています。
ある言葉は、別の言葉に言い換えることができます。しかし、それぞれの言葉にはその言葉ならではの独特なニュアンスというか魂があるとウィトゲンシュタインは言います。
中島敦は言葉のゲシュタルト崩壊に注目しましたが、ウィトゲンシュタインは言葉のゲシュタルト構築に注目します。それぞれの言葉には多様な意味や側面があり、私たちは言葉を立体的に理解することによって言葉の魂を感じることができます。
私たちが普段用いる自然言語(日本語、ドイツ語など)には長い歴史や文化があります。ウィトゲンシュタインは、自然言語と違って多義性に乏しいエスペラント語のような人工言語を非常に厳しく批判しています。
第3章では、ウィトゲンシュタインと同じように「言葉に魂が宿る体験」に着目したカール・クラウスの言語論が紹介されていました。クラウスという私には聞き慣れない人物に関する情報が得られたので、参考になりましたね。
クラウスは、言語の複雑な中身を吟味する「言語批判」を行いました。そしてクラウスは、言語を思考を伝達するための単なる道具だとしか考えない言語浄化主義者や言語融合主義者を批判しました。
自分が言いたいことに対して一番しっくりくる言葉を選ぶ責任を、クラウスは重視しました。他人が用いる常套句が適当に使い回される現代社会の風潮が、批判されていました。
第1章では、「言葉から魂が抜ける体験」を表現した小説として、中島敦「文字禍」とホーフマンスタール「チャンドス卿の手紙」が挙げられています。
「文字禍」では、「一つの文字を長く見つめていると、その文字が解体して無意味な線の集まりにしか見えなくなってくる」ゲシュタルト崩壊の恐怖が表現されています。また、文字が実在する事物の影であり、実在する事物を覆うヴェールのようなものだという考え方も紹介されていました。
「チャンドス卿の手紙」では、自分と世界の親密さが失われ、世界が空虚に感じられる現象が表現されています。また、生き生きとした現実を言葉にすると現実のダイナミズムが失われることも描かれていました。
第2章では、「言葉に魂が宿る体験」を考察したウィトゲンシュタインについて説明されています。
ある言葉は、別の言葉に言い換えることができます。しかし、それぞれの言葉にはその言葉ならではの独特なニュアンスというか魂があるとウィトゲンシュタインは言います。
中島敦は言葉のゲシュタルト崩壊に注目しましたが、ウィトゲンシュタインは言葉のゲシュタルト構築に注目します。それぞれの言葉には多様な意味や側面があり、私たちは言葉を立体的に理解することによって言葉の魂を感じることができます。
私たちが普段用いる自然言語(日本語、ドイツ語など)には長い歴史や文化があります。ウィトゲンシュタインは、自然言語と違って多義性に乏しいエスペラント語のような人工言語を非常に厳しく批判しています。
第3章では、ウィトゲンシュタインと同じように「言葉に魂が宿る体験」に着目したカール・クラウスの言語論が紹介されていました。クラウスという私には聞き慣れない人物に関する情報が得られたので、参考になりましたね。
クラウスは、言語の複雑な中身を吟味する「言語批判」を行いました。そしてクラウスは、言語を思考を伝達するための単なる道具だとしか考えない言語浄化主義者や言語融合主義者を批判しました。
自分が言いたいことに対して一番しっくりくる言葉を選ぶ責任を、クラウスは重視しました。他人が用いる常套句が適当に使い回される現代社会の風潮が、批判されていました。
2023年12月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
難しくてほとんど分からなかったけど、わかりやすいビジネス本ばかり読んでいないで、たまにはこういう「難しくてよくわからない本」を読まないと、脳に刺激が足りないような気がする。いい刺激をいただきました。自信になったし、また、謙虚になりました。
2018年11月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
朝日新聞の特集で古田氏のことを知って読んでみたが、とても難しくほとんど理解はでできなかった。言葉にこだわり、言葉を吟味して用いることの大切さは伝わってきたが。
2019年12月21日に日本でレビュー済み
「一つの文字を長く見詰めている中に、何時しか其の文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集まりが、何故、そういう音とそういう意味とも有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る」(中島敦「文字禍」より)
本書は、2018年4月に出版された本ですが、本年2019年にサントリー学芸賞を受賞しています。
まあこの受賞がなければ、評者は本書が出版されていたことに気づかないままでいたことになります。
この種の賞というものにはあまり信用がおけない気持ちがあったものの、こうして本書に知りあえたという意味では賞の効用というものもいっぽうであるのだということにあらためて思いいたったしだいです。
本書の帯には「新しい言語哲学の誕生」というコピーが入っていますが、ややそれは誇大広告ともいうべきもので、本書は、中島敦「文字禍」、夏目漱石『門』、ホーフマンスタール「チャンドス卿の手紙」などの文学作品を長いマクラにして、ウィトゲンシュタイン、マウトナー、カール・クラウスといった哲学者、言語学者、批評家における言葉をめぐる思考・思索を整理し、あらためてそれに光をあてようとしたものです。
いま、やや誇大広告とあえて申しそえたのは、後者の三人は(さらにホーフマンスタールも)世紀転換期ないし20世紀前半ドイツ、オーストリアにおいて活躍したひとたちで、そういう意味でかなり限定された時期におけるある限定された言語論なり言語哲学が本書で問題となっているからです。
著者自身、本書の意図が「現在では忘れられている言語哲学の鉱脈を掘り下げていく」ことにある、と前書きで書きしるしているとおりです。
中島敦やホーフマンスタールなどの、言葉が言葉であることの自明性を失って、それがよそよそしいものと化すという体験が描かれた文学作品の例を最初にとりあげ、それらを、ゲシュタルト崩壊や離人症という事象(木村敏の翻訳があるブランケンブルクにはまさに「自明性の喪失」なる概念もありますが)の紹介とあわせ、本書の導入部にしたというところが、抽象的な叙述になりかねない言語哲学的な議論に具体性をあたえ、かつ本書を通読しやすいものにしています。
途中、言葉の「霊」とか「魂」とかという言い方もあらわれ、いっけんちょっとアブナイ議論、トンデモ哲学になるかと思われそうですが、じっさいはそんなことはなく、著者はその種のアヤシイ言語神秘主義に向かうことはまったくありません。
(以前ソシュール学者の丸山圭三郎が言葉の深層にひろがる「阿頼耶識」などを言いだしたときはチョットチョットと思いましたが。まあ存在の連続性のようなものを信じたいというところが人にはどうしてもあるのでしょうか)。
ホーフマンスタールとほぼ同時代を生きていた言語哲学者にフリッツ・マウトナー(1849-1923)がいます。
「話すことなしには――つまり、言葉なしには――思考は存在しない。より正確にいえば、考えるということなど何ら存在せず、話すことのみが存在する」とその『言語批判論集』(1901-1902)で書いていたそのマウトナーの言語論もここで紹介されています。
が、彼が「詩人の詩それ自体は言葉なしに成立しうるもの」という言語論(評者にはこれはよくある詩の神秘化以外のものとは思えません)を展開するとき、そこにはむしろ言葉への懐疑をいったん通過したうえでの古いロマン主義的な詩観や言語観への先祖返りがあったような気が評者にはします。
また、ウィトゲンシュタイン(1889-1951)に即して、著者はおおよそつぎのように議論を展開しています。
ある言葉を理解しているということには、その言葉を「他の言葉に置き換えられる」ということと同時に、その言葉が「他のどんな言葉に置き換えてもしっくりこない」ということの両方が合わさっている、たとえば「せつない」という日本語の言葉について、その語が「胸が締めつけられる気持ち」、「やるせない」、「しんみりする」、「かなしい」、「つらい」に置き換えられうるような理解可能性をふくみもっていると同時に、他の言葉にはけっして置き換えられない「この言葉だけが帯びる独特の表情や響き、ニュアンス」をもっている、つまり(著者の用語を使えば)言葉には「多面性」があり、言葉には「立体的理解」が必要であると。
まあ言葉のこの「理解」というものは、デリダ流に「翻訳」という位相でもとらえなおしてみることもできるのではと評者には思えます。ある言葉、ある原文をひとが翻訳(理解)しようとするとき、翻訳(理解)可能性と翻訳(理解)不可能性が相即するように同時に立ち上がってくる、たとえば英語の"bear"が、日本語の"クマ"であるのと同時につねにすでにけっして"クマ"ではないというように。
本書の最後ではカール・クラウス(1874-1936)が論じられていて、クラウスはけっしてものすごく独創的な言語論を展開しているわけではありませんが、この章がでも、もしかすると評者にとっていちばん興味深かったところ、あるいはいちばん共感できたところになるかもしれません。また、クラウスの言語観というのは、初期の小林秀雄なんかとも共通するものがあるようにも思えました。
「ある言葉が生まれることによって、それが生まれる以前のものの見方や感じ方、考え方が明らかになる、というある種パラドキシカルな構造」がある、それは、「その言葉として表現されなければならなかったものとして、その言葉の創造においてはじめて『自分が以前から思っていたこと(感じていたこと、見ていたこと等)』が遡及的に浮き彫りになる」ということでもある、また「人は言葉を探して努力するが、ぴったりの言葉は不意に訪れる、しっくりこない言葉で妥協せずに、その訪れのときを待つこと」、そこでこそ言葉の「創造的必然性」が生まれるということ――クラウスの言語観の中心にある考えがこれです。
これは古代いらいの詩観をある意味合理的に説明するもの、つまり古代ギリシアいらい信じられてきたような、詩はミューズに霊感を吹きこまれた詩人が語ることばという詩観の脱神秘化を可能にするものと評者には思えます。
そして、現代の日本さながらに、社会や世界における敵味方を単純化するキャッチーなフレーズあるいはわかりやすい常套句や出来合いの紋切り型表現を、ヒトラーやナチスがプロパガンダとして繰りかえし用い、それを人びとの頭にたたきこませ、思考停止に陥らせようとしていた当時の時代傾向そのものにたいし、上記の言語観でもってクラウスが激しい批判をみずからの個人雑誌でくりひろげたということも本書であきらかにされています。
以前池内紀さんが力を入れて翻訳・紹介していたということだけが記憶にあるカール・クラウスの、こうして知らなかった一面を本書で知ることができたのもひとつの収穫でした。
本書は、2018年4月に出版された本ですが、本年2019年にサントリー学芸賞を受賞しています。
まあこの受賞がなければ、評者は本書が出版されていたことに気づかないままでいたことになります。
この種の賞というものにはあまり信用がおけない気持ちがあったものの、こうして本書に知りあえたという意味では賞の効用というものもいっぽうであるのだということにあらためて思いいたったしだいです。
本書の帯には「新しい言語哲学の誕生」というコピーが入っていますが、ややそれは誇大広告ともいうべきもので、本書は、中島敦「文字禍」、夏目漱石『門』、ホーフマンスタール「チャンドス卿の手紙」などの文学作品を長いマクラにして、ウィトゲンシュタイン、マウトナー、カール・クラウスといった哲学者、言語学者、批評家における言葉をめぐる思考・思索を整理し、あらためてそれに光をあてようとしたものです。
いま、やや誇大広告とあえて申しそえたのは、後者の三人は(さらにホーフマンスタールも)世紀転換期ないし20世紀前半ドイツ、オーストリアにおいて活躍したひとたちで、そういう意味でかなり限定された時期におけるある限定された言語論なり言語哲学が本書で問題となっているからです。
著者自身、本書の意図が「現在では忘れられている言語哲学の鉱脈を掘り下げていく」ことにある、と前書きで書きしるしているとおりです。
中島敦やホーフマンスタールなどの、言葉が言葉であることの自明性を失って、それがよそよそしいものと化すという体験が描かれた文学作品の例を最初にとりあげ、それらを、ゲシュタルト崩壊や離人症という事象(木村敏の翻訳があるブランケンブルクにはまさに「自明性の喪失」なる概念もありますが)の紹介とあわせ、本書の導入部にしたというところが、抽象的な叙述になりかねない言語哲学的な議論に具体性をあたえ、かつ本書を通読しやすいものにしています。
途中、言葉の「霊」とか「魂」とかという言い方もあらわれ、いっけんちょっとアブナイ議論、トンデモ哲学になるかと思われそうですが、じっさいはそんなことはなく、著者はその種のアヤシイ言語神秘主義に向かうことはまったくありません。
(以前ソシュール学者の丸山圭三郎が言葉の深層にひろがる「阿頼耶識」などを言いだしたときはチョットチョットと思いましたが。まあ存在の連続性のようなものを信じたいというところが人にはどうしてもあるのでしょうか)。
ホーフマンスタールとほぼ同時代を生きていた言語哲学者にフリッツ・マウトナー(1849-1923)がいます。
「話すことなしには――つまり、言葉なしには――思考は存在しない。より正確にいえば、考えるということなど何ら存在せず、話すことのみが存在する」とその『言語批判論集』(1901-1902)で書いていたそのマウトナーの言語論もここで紹介されています。
が、彼が「詩人の詩それ自体は言葉なしに成立しうるもの」という言語論(評者にはこれはよくある詩の神秘化以外のものとは思えません)を展開するとき、そこにはむしろ言葉への懐疑をいったん通過したうえでの古いロマン主義的な詩観や言語観への先祖返りがあったような気が評者にはします。
また、ウィトゲンシュタイン(1889-1951)に即して、著者はおおよそつぎのように議論を展開しています。
ある言葉を理解しているということには、その言葉を「他の言葉に置き換えられる」ということと同時に、その言葉が「他のどんな言葉に置き換えてもしっくりこない」ということの両方が合わさっている、たとえば「せつない」という日本語の言葉について、その語が「胸が締めつけられる気持ち」、「やるせない」、「しんみりする」、「かなしい」、「つらい」に置き換えられうるような理解可能性をふくみもっていると同時に、他の言葉にはけっして置き換えられない「この言葉だけが帯びる独特の表情や響き、ニュアンス」をもっている、つまり(著者の用語を使えば)言葉には「多面性」があり、言葉には「立体的理解」が必要であると。
まあ言葉のこの「理解」というものは、デリダ流に「翻訳」という位相でもとらえなおしてみることもできるのではと評者には思えます。ある言葉、ある原文をひとが翻訳(理解)しようとするとき、翻訳(理解)可能性と翻訳(理解)不可能性が相即するように同時に立ち上がってくる、たとえば英語の"bear"が、日本語の"クマ"であるのと同時につねにすでにけっして"クマ"ではないというように。
本書の最後ではカール・クラウス(1874-1936)が論じられていて、クラウスはけっしてものすごく独創的な言語論を展開しているわけではありませんが、この章がでも、もしかすると評者にとっていちばん興味深かったところ、あるいはいちばん共感できたところになるかもしれません。また、クラウスの言語観というのは、初期の小林秀雄なんかとも共通するものがあるようにも思えました。
「ある言葉が生まれることによって、それが生まれる以前のものの見方や感じ方、考え方が明らかになる、というある種パラドキシカルな構造」がある、それは、「その言葉として表現されなければならなかったものとして、その言葉の創造においてはじめて『自分が以前から思っていたこと(感じていたこと、見ていたこと等)』が遡及的に浮き彫りになる」ということでもある、また「人は言葉を探して努力するが、ぴったりの言葉は不意に訪れる、しっくりこない言葉で妥協せずに、その訪れのときを待つこと」、そこでこそ言葉の「創造的必然性」が生まれるということ――クラウスの言語観の中心にある考えがこれです。
これは古代いらいの詩観をある意味合理的に説明するもの、つまり古代ギリシアいらい信じられてきたような、詩はミューズに霊感を吹きこまれた詩人が語ることばという詩観の脱神秘化を可能にするものと評者には思えます。
そして、現代の日本さながらに、社会や世界における敵味方を単純化するキャッチーなフレーズあるいはわかりやすい常套句や出来合いの紋切り型表現を、ヒトラーやナチスがプロパガンダとして繰りかえし用い、それを人びとの頭にたたきこませ、思考停止に陥らせようとしていた当時の時代傾向そのものにたいし、上記の言語観でもってクラウスが激しい批判をみずからの個人雑誌でくりひろげたということも本書であきらかにされています。
以前池内紀さんが力を入れて翻訳・紹介していたということだけが記憶にあるカール・クラウスの、こうして知らなかった一面を本書で知ることができたのもひとつの収穫でした。