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トーマの心臓 Lost heart for Thoma (講談社ノベルス) 新書 – 2010/10/7
ノベルス版描き下ろしイラスト収録!
愛と死に彩られた不朽の名作が、ここに蘇る――。
トーマと呼ばれた美しい下級生から、ユーリに届いた1通の手紙。それは、彼からの遺書だった――。そこへトーマに生き写しの転校生・エーリクが現れ、オスカーは、遺された想いに縛られた親友・ユーリを憂慮する。揺れ動く心を捉える生と死、そして愛……。苦悩する少年たちを色鮮やかに描いた、萩尾望都の不朽の名作に、森博嗣が、今、新しい息吹を吹き込む。
※本書は、2009年7月に株式会社メディアファクトリーより出版された単行本をノベルス化したものです。
- 本の長さ304ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2010/10/7
- ISBN-104061827472
- ISBN-13978-4061827479
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2010/10/7)
- 発売日 : 2010/10/7
- 言語 : 日本語
- 新書 : 304ページ
- ISBN-10 : 4061827472
- ISBN-13 : 978-4061827479
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,347,658位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1957年愛知県生まれ。工学博士。
某国立大学の工学部助教授の傍ら1996年、『すべてがFになる』(講談社文庫)で第1回メフィスト賞を受賞し、衝撃デビュー。以後、犀川助教授・西之園萌絵のS&Mシリーズや瀬在丸紅子たちのVシリーズ、『φ(ファイ)は壊れたね』から始まるGシリーズ、『イナイ×イナイ』からのXシリーズがある。
ほかに『女王の百年密室』(幻冬舎文庫・新潮文庫)、映画化されて話題になった『スカイ・クロラ』(中公文庫)、『トーマの心臓 Lost heart for Thoma』(メディアファクトリー)などの小説のほか、『森博嗣のミステリィ工作室』(講談社文庫)、『森博嗣の半熟セミナ博士、質問があります!』(講談社)などのエッセィ、ささきすばる氏との絵本『悪戯王子と猫の物語』(講談社文庫)、庭園鉄道敷設レポート『ミニチュア庭園鉄道』1~3(中公新書ラクレ)、『自由をつくる 自在に生きる』(集英社新書)など新書の著作も多数ある。
ホームページ「森博嗣の浮遊工作室」(http://www001.upp.so-net.ne.jp/mori/)
●これから出る本→予定表(http://www001.upp.so-net.ne.jp/mori/myst/timetable.html)
●作者による作品の紹介(http://www001.upp.so-net.ne.jp/mori/myst/myst_index.html)
●出版された本の一覧→出版年表(http://www001.upp.so-net.ne.jp/mori/myst/nenpyo.html)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
彼について想像してきたのは、無機的な人間だと思ってた。
でもこれを読んで、彼はとても人間が大好きな人なのではないかと思った。
しかも、根底から人間を信じていて、可能性を諦めてなくて、人に対してとても優しい人なんだと思う。
そう感じられる、本作です。
このリライトは、精密に成功したのだと確信しました。
原作は、10代のころ読み、別篇2話も読んで、作品全体に対するイメージは、かなり早い時期に決まっていたと思います。「御手は あまりに 遠い」に愕然としてから、いったいどれだけ過ぎたのでしょうか。
あとは、p.314です。
無駄のない、美しい言葉のリズム。
あとがきに、この小説を読むと原作の漫画も読みたくなってしまうことを狙ったとありますが、
思惑通り、漫画も読みたくなり、買ってしまいました。
どちらもよい作品だと思います。
この本は、覚悟を決めて読むべきだと思います。私は原作を読んだことはありませんが、過不足なく読むことが出来ました。
(なにしろ膨大な量があるので、どこから読んだものか見当がつかなかった・・)、
名作『トーマの心臓』のノベライズである本書を読めば、純粋に小説家としての
技量がわかるのではないかと思い、ためしに手に取ってみた。
感想はというと、読みようによっては素っ気なく感じられるほど抽象度が高い森氏の文体と、
原作の作品世界がなかなかうまく合っているし、一つの解釈としては全然ありだと思うが、
描かれなかった部分への物足りなさも若干残るというところだろうか。
本書による「解釈」の最大の特徴は、原作をオスカーの一人称小説として書き直したところにある。
このため、冒頭部でユーリがトーマの死に懊悩したり、エーリクに対して攻撃的な態度を取るところが
すべてオスカーの視点だけから描かれることになり、この部分は確かに成功していると思うのだが
(エーリクの良い意味でのナイーブさが、オスカーの視点から描かれるところも新鮮)、その一方で、
後半になってユーリが進路の大幅な変更を決意するまでの内面が全く描かれず、結末にかけて
若干の物足りなさを残したことも否定できない。
一人称で視点人物を固定すると、必然的に上記の限界が出てくることになるが、おそらく本書に
三人称での描き方はそぐわないものと思われる。最良の解決法は、オスカー以外にユーリ、エーリク
にも視点人物を割り振り、一人称の話者が順番に交代する方法を取ることではなかったかと思うが、
これだと構成が非常に複雑になり、作品の規模も数倍になったことだろう。本書が一つの「解釈」
としてはありだと思う所以である。
読み始めると一気呵成だった。みずみずしく、とても感動的な作品だった。
読んで良かった、と心から思っている。
『トーマの心臓』という漫画を単にトレースした芸のないノベライズなどではなく、
その世界観を敷衍する形で新しいクリエーションをものしている。
パラレルワールドのような、いい意味で原作とは「似て非なるもの」だ。
戦前の日本が舞台であることがファンの間で大いに意見が分かれるようだが、
僕はあの頑ななまでのユーリのストイシズムを成り立たせるための
ひとつの試みとして「あり」だったと思う。
そうした、息が詰まるようなユーリの描写にあって、
エーリクの天使性には真実ホッとさせられる。
オスカーを実質的な主人公にしたのも成功だったろう。
生きていくとは、靴ひもを毎日結ぶことである。
例え、結んでくれる人などいなくても。
軍国主義に傾斜していく時代の足音のなか、
少年たちの痛々しさが際立って胸に迫る。
その鮮やかな手腕を職人技と言わずして何と言おう。
森博嗣、いい仕事をしている。
森博嗣が書いたっていうから期待してたのに。
(彼の作品は今まで読んだものは素晴らしかった。)
そもそも設定の変更自体が難しかったのでしょう。
こんなにガッカリして、☆1つしかつけないものは、私自身初めて。
残念です。
この作品を読み終えた時、一番初めに思った疑問だ。
森氏は萩尾望都を尊敬していることは誰もが知っているし、彼が漫画家になることを諦めたのも萩尾望都がいたからだと言っても過言ではないはず。それほど森氏は「トーマの心臓」という作品を愛していたはずで、そのような作品を小説として別の形にしてしまうことに、戸惑いはなかったのだろうか。森氏ではなくとも、「トーマの心臓」をという完璧な作品を小説にすることは、誰だって戸惑うのではないだろうか。
上記の疑問は、作品の内容とは関係ないかもしれない。
だが、森氏がなぜ「トーマの心臓」を小説にしたのかを考えることで、見えてくるものがあるかもしれない。
それは「形」と「美」と「時間」。
この3つの言葉を思い浮かべたとき、私は「猫の建築家」という森氏の作品を思い出した。
「猫の建築家」の中で、以下のような文がある。
自分が造ろうとするものは、こうした残るべき「形」であってほしい。
生まれ変わったときにも、それが「形」のままで存在していてほしい。
その「孤独な継続」こそ、「猫」が待ち望んでいるものだ。
萩尾望都の「トーマの心臓」は現在も読者を選ばずに残り続けている作品であり、この後どんなに時がたっても、このまま残る形であるだろう。それは、森氏自身が信じているところであり、望んでいるところでもあるのではないか。だからこそ、森氏が小説という形にすることができたのだろうとも思う。
ただ、それだけでは森氏が小説を書くということはできないだろう。原作が素晴らしいから、恐れることなく小説に変化させることができるという理由だけで小説を書くようなことは、萩尾ファンとして絶対にしない行為だろう。小説を書くには、もっと絶対的な理由がなければかけないのではないだろうか。
だから私は森氏が小説を書いた理由は、「トーマの心臓」の中で「美」を見つけていたからだと思う。
「猫の建築家」の中に以下のような文章がある。
それらの時間と、我々の時間の違いを、考慮してさえも、
やはり、ちっぽけな理由を見つけようとしている自分があった。
理由もなく存在するものが、もしかして、あるのだろうか。
もしかして、それが「美」だろうか。
あるかもしれない。
一瞬でも、あるかもしれない。
森氏の「トーマの心臓」はオスカーの視点から語られる。
舞台も、ユーリの視点も、トーマの愛も、別の形に変えられいる。
それでも、そこには同じ世界があり、おなじ「少年の時としての愛」が存在している。
「人間を信じられた無邪気な子供には、もう絶対に戻れない。」が、それでもオスカーは「僕に頼れるもの」を見つける。
これを、小説として描くことができるからこそ、森氏は小説を書いたのだろうと思う。