1950年に中国新聞が行った調査によると、35%の人が後の原爆ドームとなる産業奨励館の「残ガイ」を取払いたいと回答し、当時の広島県知事、広島市長、広島大学長もドームの保存に否定的だったという記述には驚いた。保存にかかる膨大な費用もさることながら、悲痛な記憶がかき立てられるドームを見たくないという感情を持った人も多かったようだ。
その後、第五福竜丸の船員が被曝したビキニ環礁での水爆実験が行われたことや、原爆の子の像で有名な佐々木禎子さんが12歳で亡くなったことなどもあり、平和や反戦反核の象徴としてドームの保存を訴える声が国内外で高まり始める。1960年には広島折鶴の会の子どもたちがドームの保存を訴え、署名活動と募金活動を開始。それが大人たちを動かし、保存と再生に向けて一気に動き出すプロセスは大いに考えさせられた。
また、著者が建築家であることもあり、保存工事のプロセスも詳細に描かれている。エポキシ樹脂系接着剤という当時の最新の技術を取り入れて工事が進められたが、この技術はサンスター歯磨という企業が無償で実験を行うなどしたものらしい。
毎年8月になると毎日のようにテレビに映し出され、日本人の平和を願う象徴として当たり前の存在と認識されている原爆ドームであるが、その保存と再生の過程には様々な葛藤や困難があった。今、原爆ドームを通じて平和について考えることができるのは、多くの人々の平和を願う気持ちと行動の積み重ねがあったからであり、その一つ一つに目を向け、思いを馳せることが平和を考える第一歩なのではないかと感じた。平和教育を考える上でも最良の一冊。是非多くの人に手に取ってもらいたい。
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原爆ドーム 再生の奇跡 単行本 – 2022/7/14
古川修文
(著)
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戦後20余年放置され、煉瓦は次々に崩れ、瀕死の状態だった原爆ドーム。
ドームを見事に生き返らせた奮闘の記録!
原爆によって平和な建物としての生命を失い、戦争破壊物として20余年放置された。
その間いろいろな苦難を経て修理保存されたドーム。
原爆ドームの主治医と呼ばれた建築家・佐藤重夫をはじめ、
全国から優秀な技術者と技能者たちが広島に結集する。
残すのか? 壊すのか?
戦後、市民は原爆ドームのことなど考える
余裕はなかったであろう。
しかし、60%の市民はドーム保存を望んでいた。
20余年、放置されて存廃にゆれた。
広島県物産陳列館とは、いったいどんな建物だったのか?
原爆ドームの数奇な運命をたどる。
巻頭口絵10ページ。貴重な写真や図版、資料が満載! !
ドームを見事に生き返らせた奮闘の記録!
原爆によって平和な建物としての生命を失い、戦争破壊物として20余年放置された。
その間いろいろな苦難を経て修理保存されたドーム。
原爆ドームの主治医と呼ばれた建築家・佐藤重夫をはじめ、
全国から優秀な技術者と技能者たちが広島に結集する。
残すのか? 壊すのか?
戦後、市民は原爆ドームのことなど考える
余裕はなかったであろう。
しかし、60%の市民はドーム保存を望んでいた。
20余年、放置されて存廃にゆれた。
広島県物産陳列館とは、いったいどんな建物だったのか?
原爆ドームの数奇な運命をたどる。
巻頭口絵10ページ。貴重な写真や図版、資料が満載! !
- 本の長さ292ページ
- 言語日本語
- 出版社南々社
- 発売日2022/7/14
- 寸法13.7 x 2.5 x 19.6 cm
- ISBN-104864891451
- ISBN-13978-4864891455
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登録情報
- 出版社 : 南々社 (2022/7/14)
- 発売日 : 2022/7/14
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 292ページ
- ISBN-10 : 4864891451
- ISBN-13 : 978-4864891455
- 寸法 : 13.7 x 2.5 x 19.6 cm
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トップレビュー
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2022年8月8日に日本でレビュー済み
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2022年8月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
初めて原爆ドームの「存在」を認識したのはいつの頃だっただろうか。
広島駅近くの産科で生まれ、(記憶にはまったくないけれど)赤子のころから両親に平和公園に連れて行かれ、そのころから原爆ドームはずっとあの場所にある。そこにあるのがごく当たり前のように。
その「存在」を初めてまじまじと見たのは、幼稚園だったか小学校低学年だったか、写生大会で平和公園に出向き、画用紙にその姿を描いたときだろう。
その頃と前後するように、平和公園の原爆資料館を初めて観覧する。学校での「平和学習」で、資料写真や8ミリ映画を目にするのもこの頃からだ。家に戦争写真集みたいなのもあった。夏休みに学校から課される「夏休み帳」というワークブックみたいなのには、ちょうど8月6日ころに原爆投下に関して学ぶようなコンテンツが掲載されていた。
高校時代、毎日自転車で原爆ドームの真横を通過しながら通った。ちょうどこの頃に原爆ドームの補修工事が本格化し、見るからに崩れそうになっていたその「存在」に、足場が組まれ、内側に鉄骨が添えられ、ひび割れ部分にエポキシ系の補強材が注入されるような工事が始まっていた。
大学時代、部活の飲み会などで流川などで飲み倒し、帰りに平和公園まで行き、元安川越しに深夜の原爆ドームをしみじみと眺めたりしたこともあった。この頃はもう、原爆ドームを含む平和公園が非常にきれいに整備されて、夜になるとライトアップをされていたりもしていた。
社会人になると同時に広島から離れた。広島に帰省するたびに、平和公園や原爆ドームを眺めた。路面電車や路線バスに乗っていれば自然に視界に入ってくるような「存在」だった。
大人になり、原爆資料館の展示物を改めてじっくり見てみるに、子供のころとはまた違う印象を抱くようになった。怖さの輪郭がより明確になったのだ。子供の頃は、ただ単に漠然とした怖さだったものが、大人になり、その怖さが言語化できたような、そんな感じが余計に怖さとなり、同時に自分の無力さみたいなものも感じてしまう。そんな感覚だった。資料館の展示物を一通り見終えて、資料館の外に出てきても、人と話をする気になれず、しばらく黙り込むしかなかった。
そうこうしているうち、原爆ドームが世界遺産に指定された(1996年)。いわゆる「負の遺産」だった。指定までもいろいろ議論はあっただろうが、私は指定は当然だろうと感じていた。
そんなこんながまぜこぜになりながら、子供の頃から現在まで、私の頭と心の中に、戦争と平和と原爆と原爆ドームが刻み付けられていった。
これも運命だ。
というとちょっと変な言い方かもしれないが。まあ、生まれ落ちた場所がそういう環境だったのだ。
---
本書、そんな「原爆ドーム」の再生と保存に奔走した建築家・佐藤重夫を軸に、彼を慕う全国の優秀な技術者が結集し、世界に誇るべく技術と情熱で保存工事にまい進、よみがえらせるまでをまとめた貴重な記録書だ。
終戦からしばらくの間、広島市民は日々を生きるのが精いっぱいだった。原爆ドームのことを考える余裕もほとんどなかった。それでも、終戦直後の市民の60%は原爆ドームの保存を望んでいた。終戦後2年目にして、原爆投下された日に平和を願う集会も催された。ただ、保存するにも莫大な費用がかかる。気持ちだけではままならない。現実に終戦後20年ほどの間放置され続け、存廃の意見にも揺れた。当時の市民と技術者たちの熱意が議会を動かし、世の中を動かし、存続のためにあらゆる手段を尽くした結果が今の「原爆ドーム」だ。
もう一つ、丹下健三設計の平和公園の構造が「原爆ドーム」保存の後押ししたことも見逃せない。アーチ状の造形が特徴的な慰霊碑を覗き込んだことがある人はよくわかると思うが、その時の視線の一直線上、平和の池越しに原爆ドームが真正面に見える。そこに見えるのが当たり前であるかのように。
そして、今日も原爆ドームは静かにいつもの場所に「存在」する。
かしこまったり、まなじり上げたり、さまざめとするよりも、なし崩しで、やわらかな平和が好き。
今日の8時15分、広島の空に向かって手を合わせ、1分間の黙とうをする。
広島駅近くの産科で生まれ、(記憶にはまったくないけれど)赤子のころから両親に平和公園に連れて行かれ、そのころから原爆ドームはずっとあの場所にある。そこにあるのがごく当たり前のように。
その「存在」を初めてまじまじと見たのは、幼稚園だったか小学校低学年だったか、写生大会で平和公園に出向き、画用紙にその姿を描いたときだろう。
その頃と前後するように、平和公園の原爆資料館を初めて観覧する。学校での「平和学習」で、資料写真や8ミリ映画を目にするのもこの頃からだ。家に戦争写真集みたいなのもあった。夏休みに学校から課される「夏休み帳」というワークブックみたいなのには、ちょうど8月6日ころに原爆投下に関して学ぶようなコンテンツが掲載されていた。
高校時代、毎日自転車で原爆ドームの真横を通過しながら通った。ちょうどこの頃に原爆ドームの補修工事が本格化し、見るからに崩れそうになっていたその「存在」に、足場が組まれ、内側に鉄骨が添えられ、ひび割れ部分にエポキシ系の補強材が注入されるような工事が始まっていた。
大学時代、部活の飲み会などで流川などで飲み倒し、帰りに平和公園まで行き、元安川越しに深夜の原爆ドームをしみじみと眺めたりしたこともあった。この頃はもう、原爆ドームを含む平和公園が非常にきれいに整備されて、夜になるとライトアップをされていたりもしていた。
社会人になると同時に広島から離れた。広島に帰省するたびに、平和公園や原爆ドームを眺めた。路面電車や路線バスに乗っていれば自然に視界に入ってくるような「存在」だった。
大人になり、原爆資料館の展示物を改めてじっくり見てみるに、子供のころとはまた違う印象を抱くようになった。怖さの輪郭がより明確になったのだ。子供の頃は、ただ単に漠然とした怖さだったものが、大人になり、その怖さが言語化できたような、そんな感じが余計に怖さとなり、同時に自分の無力さみたいなものも感じてしまう。そんな感覚だった。資料館の展示物を一通り見終えて、資料館の外に出てきても、人と話をする気になれず、しばらく黙り込むしかなかった。
そうこうしているうち、原爆ドームが世界遺産に指定された(1996年)。いわゆる「負の遺産」だった。指定までもいろいろ議論はあっただろうが、私は指定は当然だろうと感じていた。
そんなこんながまぜこぜになりながら、子供の頃から現在まで、私の頭と心の中に、戦争と平和と原爆と原爆ドームが刻み付けられていった。
これも運命だ。
というとちょっと変な言い方かもしれないが。まあ、生まれ落ちた場所がそういう環境だったのだ。
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本書、そんな「原爆ドーム」の再生と保存に奔走した建築家・佐藤重夫を軸に、彼を慕う全国の優秀な技術者が結集し、世界に誇るべく技術と情熱で保存工事にまい進、よみがえらせるまでをまとめた貴重な記録書だ。
終戦からしばらくの間、広島市民は日々を生きるのが精いっぱいだった。原爆ドームのことを考える余裕もほとんどなかった。それでも、終戦直後の市民の60%は原爆ドームの保存を望んでいた。終戦後2年目にして、原爆投下された日に平和を願う集会も催された。ただ、保存するにも莫大な費用がかかる。気持ちだけではままならない。現実に終戦後20年ほどの間放置され続け、存廃の意見にも揺れた。当時の市民と技術者たちの熱意が議会を動かし、世の中を動かし、存続のためにあらゆる手段を尽くした結果が今の「原爆ドーム」だ。
もう一つ、丹下健三設計の平和公園の構造が「原爆ドーム」保存の後押ししたことも見逃せない。アーチ状の造形が特徴的な慰霊碑を覗き込んだことがある人はよくわかると思うが、その時の視線の一直線上、平和の池越しに原爆ドームが真正面に見える。そこに見えるのが当たり前であるかのように。
そして、今日も原爆ドームは静かにいつもの場所に「存在」する。
かしこまったり、まなじり上げたり、さまざめとするよりも、なし崩しで、やわらかな平和が好き。
今日の8時15分、広島の空に向かって手を合わせ、1分間の黙とうをする。