プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
新品:
¥1,320¥1,320 税込
ポイント: 121pt
(9%)
無料お届け日:
3月31日 日曜日
発送元: Amazon.co.jp 販売者: Amazon.co.jp
新品:
¥1,320¥1,320 税込
ポイント: 121pt
(9%)
無料お届け日:
3月31日 日曜日
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
中古品: ¥803
中古品:
¥803

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
コミュニティ (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2017/12/7
ジグムント・バウマン
(著),
奥井 智之
(翻訳)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥1,320","priceAmount":1320.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1,320","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"eqRCXICXAB%2F94%2BfPgROnVz6pcVixhXLpKYLKa0QGLSq5k7lBRDbdqMQJE1gGyxGhx6QBAKMw5irIafFUcuvg1uXXVLj1sJoeh%2Fjn7ADnLcMQu3gpYj%2B4TjZ%2F9UmZCltTfgg8fWKjXLM%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥803","priceAmount":803.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"803","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"eqRCXICXAB%2F94%2BfPgROnVz6pcVixhXLpRdst6hDEqPzHG7iL7C0blW%2FfCQQSnBWwv7qmd3eEgvJ%2B0JCbD0l9WK8ReUeJly1fHotQ4vUM8XcR3vBxqOi4QvVHPEb8%2FZt8BW3GFaTcJm39yFNbSx%2FsFvBFfduLePKtm1K1sSnzYjqJcJqLcnCcpw%3D%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
グローバル化し個別化する世界のなかで、コミュニティはいかなる様相を呈しているか。安全をとるか、自由をとるか。代表的社会学者が根源から問う。
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2017/12/7
- 寸法10.6 x 1.2 x 14.8 cm
- ISBN-104480098259
- ISBN-13978-4480098252
よく一緒に購入されている商品

対象商品: コミュニティ (ちくま学芸文庫)
¥1,320¥1,320
最短で3月31日 日曜日のお届け予定です
残り6点(入荷予定あり)
¥4,180¥4,180
最短で4月5日 金曜日のお届け予定です
残り8点(入荷予定あり)
¥1,540¥1,540
最短で3月31日 日曜日のお届け予定です
残り10点(入荷予定あり)
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2017/12/7)
- 発売日 : 2017/12/7
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 256ページ
- ISBN-10 : 4480098259
- ISBN-13 : 978-4480098252
- 寸法 : 10.6 x 1.2 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 43,863位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 124位ちくま学芸文庫
- - 655位社会一般関連書籍
- - 1,015位その他の思想・社会の本
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2020年6月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今、非正規、正規の格差が問題となっているが、そもそも非正規という身分を作り出したのは我々自身なのかもしれない。以前のようにほぼ全員が正社員として雇用され、厳しい監視の下で職務を遂行するといったパノプティコン型社会は終わってしまった。
2018年8月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
平易でありながら現代社会の問題の核心をついているように思います。
日本も中間組織の崩壊でバウマンが描くような世界になってきていることは否めず滅びの道を歩んでいると思わざるをえないですね。
日本も中間組織の崩壊でバウマンが描くような世界になってきていることは否めず滅びの道を歩んでいると思わざるをえないですね。
2017年12月22日に日本でレビュー済み
本書は冒頭で失われた楽園としての神話的コミュニティを規定して、メンバー同士がみな互いの幸福を願ってくれるものと信じることができる場所だとしています。そこでは誰もコミュニティのことをあえて自覚的に定義したり合意を図ったりしません。そんなことをしなくても全員が安心して暮らすことができるからです。
つまり、安心していられるというのが、コミュニティの概念的な祖型です。
世の中にあまた存在するコミュニティに通底するキーワードは「安心」だと本書は言うわけです。
本書のもう一方の主題は「自由」です。
安心と自由はトレードオフの関係にあると本書は言います。
「自由」はグローバル化した社会に結び付けられています。
本書は、グローバル化を否定しません。実際、個人の手が届かない遠方の出来事が身近な社会生活に影響を及ぼすという事態をグローバル化と呼ぶなら、グローバル化は縄文時代以前から続く人類史のトレンドだと言えます。
ただし、グローバル化が進展する速度は、徒歩→馬車→自動車→飛行機、そしてインターネットというふうに、どんどん速くなってきました。
現在では米国のト大統領がツイッターでトンデモな書き込みをすると、間を置かず地球の別の場所で蜂の巣をつついたような騒ぎになるという事態を招くほど、グローバル化の進展は速度を増し、大規模になっています。
インターネット以前、グローバル化の速度が現在と比べて緩慢だった頃の支配のあり方を本書は、ネズミの実験で使う迷路としてモデル化します。
支配者は人々がよそへ行かないように鋼鉄の壁を設け、エサに到達する通路を管理します。費用をかけてパノプティコンをしつらえます。
しかし、グローバル化の高速化、大規模化により、もはや誰にも全体を見通すことができなくなると、支配者はパノプティコンを撤収し、規制緩和によって統治権を市場での自由な競争に譲渡します。
あすを見通すことは困難になり、不安定さが恒常化します。
出口が分からないだけでなく、どこが通路であるのかすら分からなくなってしまった社会を、本書は砂漠としてモデル化します。
国家は、インターネット時代を縦横無尽に駆け回る脱領域的な力に権力を売り渡し、結果として国家への帰属意識が稀薄な制度的真空状態が生じたため、対策として空想的なナショナルアイデンティティの物語を語り出します。
一方、不安定性の中で人間はみずから保守的なトレンドに回収されることを望みます。自分だけ置いていかれては大変という不安に駆られるからです。
これが現在の我々が住む社会です。
もはやそこで描写されているのが新自由主義だということは明らかです。
本書は、機会の平等を肯定しますが、新自由主義を否定します。
機会の平等の観点から本書は多文化主義を批判します。
多文化主義は不平等を文化的差異と読み替えてしまうものであり、社会の多様性を阻害するというのが本書の見立てです。あらゆる文化が等価だと位置づけるのは差別の固定化につながり、分断支配を許してしまうということのようです。
ポリティカル・コレクトネスは究極のところ人間の尊厳を重んじるものであるかという問題でしょう。
新自由主義に陥ることなく、この砂漠の時代を生きるための処方箋として本書が示すのは「分かち合いと相互の配慮で織り上げられたコミュニティ」(p223)です。
つまり、安心していられるというのが、コミュニティの概念的な祖型です。
世の中にあまた存在するコミュニティに通底するキーワードは「安心」だと本書は言うわけです。
本書のもう一方の主題は「自由」です。
安心と自由はトレードオフの関係にあると本書は言います。
「自由」はグローバル化した社会に結び付けられています。
本書は、グローバル化を否定しません。実際、個人の手が届かない遠方の出来事が身近な社会生活に影響を及ぼすという事態をグローバル化と呼ぶなら、グローバル化は縄文時代以前から続く人類史のトレンドだと言えます。
ただし、グローバル化が進展する速度は、徒歩→馬車→自動車→飛行機、そしてインターネットというふうに、どんどん速くなってきました。
現在では米国のト大統領がツイッターでトンデモな書き込みをすると、間を置かず地球の別の場所で蜂の巣をつついたような騒ぎになるという事態を招くほど、グローバル化の進展は速度を増し、大規模になっています。
インターネット以前、グローバル化の速度が現在と比べて緩慢だった頃の支配のあり方を本書は、ネズミの実験で使う迷路としてモデル化します。
支配者は人々がよそへ行かないように鋼鉄の壁を設け、エサに到達する通路を管理します。費用をかけてパノプティコンをしつらえます。
しかし、グローバル化の高速化、大規模化により、もはや誰にも全体を見通すことができなくなると、支配者はパノプティコンを撤収し、規制緩和によって統治権を市場での自由な競争に譲渡します。
あすを見通すことは困難になり、不安定さが恒常化します。
出口が分からないだけでなく、どこが通路であるのかすら分からなくなってしまった社会を、本書は砂漠としてモデル化します。
国家は、インターネット時代を縦横無尽に駆け回る脱領域的な力に権力を売り渡し、結果として国家への帰属意識が稀薄な制度的真空状態が生じたため、対策として空想的なナショナルアイデンティティの物語を語り出します。
一方、不安定性の中で人間はみずから保守的なトレンドに回収されることを望みます。自分だけ置いていかれては大変という不安に駆られるからです。
これが現在の我々が住む社会です。
もはやそこで描写されているのが新自由主義だということは明らかです。
本書は、機会の平等を肯定しますが、新自由主義を否定します。
機会の平等の観点から本書は多文化主義を批判します。
多文化主義は不平等を文化的差異と読み替えてしまうものであり、社会の多様性を阻害するというのが本書の見立てです。あらゆる文化が等価だと位置づけるのは差別の固定化につながり、分断支配を許してしまうということのようです。
ポリティカル・コレクトネスは究極のところ人間の尊厳を重んじるものであるかという問題でしょう。
新自由主義に陥ることなく、この砂漠の時代を生きるための処方箋として本書が示すのは「分かち合いと相互の配慮で織り上げられたコミュニティ」(p223)です。
2018年10月26日に日本でレビュー済み
最近、私の仕事で小さなコミュニティから開始する仕事を結構意識して動いている。なぜか。
大きなコミュニティは、小さなコミュニティを囲い込んでしまい、次第に息苦しい存在にしてしまうからだ。
伝統的な共同体も今では息苦しい存在なのは、過疎化した村落で、よそ者を受け付けずにそのまま共同体そのものが崩壊するケースが多いことは聞いたことがあるだろう。
この本が、松岡正剛の千夜千冊の第1237夜で詳しい解説が載っていて、読む気になったので以前読んだのだが、読み返してみると、この本がIT革命の渦中だった頃の2001年の出版で現代(2018年)に至ってはこの議論は誰もが気づいている「常識」のレベルに至ってることに驚いた。バウマンがこの著書を書いたのが75歳だということには今更驚かない。引用している著書や軸にしている本が、いささか古さも感じるし、これは訳者の責任もあるが文体の翻訳の仕方が古くて悪文である。
こういう文体がなぜ生まれるのは、バウマンが東欧ポーランド生まれのユダヤ人であることとは無関係ではなさそうだ。ナチスドイツにポーランドを追われソ連に亡命し、帰国後、ポーランド軍で少佐まで出世するも反ユダヤ主義の動きから国を追われる。イスラエルで大学教授になり、71年からはイギリスのリーズ大学の教授になる。結構波乱万丈な経歴だと思いませんか?当時のアシュケナージ・ユダヤ人はこういう感じであちこちの国に身を寄せて、色々な言語を次々の駆使しなくては、生きることすらままならなかった経歴が、こういう悪文を生み出したと思う。同じ時代で、この本でも引用されているカール・ポランニーにしても、ハンガリー語、ドイツ語、英語、フランス語等チャンポン状態だ。
バウマン自身、ユダヤ人だからこそ、コミュニティで置き場所に苦悩している様があることで、知識人階級で生きるためには多数の著書を出版して、「実績」を残さずしては学際社会から排除されることは意識していたのだろう。だからマイノリティに対して只ならない愛着が文章から生まれるのは当然かと思う。
バウマンの議論は、現代でこそ意識する必要がある。特に「ペグ・コミュニティ」だ。ペグというのは「釘」のことだ。訳者はこの比喩をもっと意識的に意訳するべきだと思った。例えば「出る杭コミュニティ」とか。これが意味することは「出る杭は打たれる」に象徴される様に、社会はそういう「逸脱」を許さないのだ。「逸脱者」は排除するか、囲い込んで「境界」内に取り囲んで「家畜」の様に飼いならそうとする。NPO法人になると経理や情報も公開義務があるので組織の秘匿性や隠蔽が難しくなり、やがてツルツルの無害な「家畜」として社会の「養分」にされる。
社会というのは、人間の共通感覚の集合体のことであり、生命体の様なものだ。病原菌は取り込んで「免疫」を作り、社会に有益なものならそれを秩序の中に組み込んでしまう。取り込めないのなら囲い込んである領域に押し込めるか、それが無理なら「排除」する。
社会における「逸脱」という問題は、古くからあり、また現代的な新しい問題でもある。IT社会によって加速的に情報処理のスピードアップが図られ、国家ではもはや制御が出来ない程乱立したコミュニティが、今では山ほど生まれている。アラブの春に象徴される様に、コミュニティや繋がりによる個から集団化する運動のスピードは国家の処理が追い付けない程になっている。勿論これによって「責任を負わないきずな」は社会や国家を崩壊させるケースを、さらに囲い込もうとする動きと対立していこうとするか、妥協して社会システムに組み込もうとする動きと両極端だが、恐らくどちらも正解ではないだろう。とても過激な内容すぎて、恐らく再版は不可能と思われる問題作「 罵論・ザ・犯罪―日本「犯罪」共同体を語る 」はこの内容の議論が含まれる。小室直樹氏と長谷川和彦氏の過激さが特に素晴らしい(笑)。
バウマンは「倫理的なコミュニティ」の構築は出来るだろうか?と投げかけている。私もその様な疑問にはとても応えることは無理だ。けれどこれは問題を考えるに当たっての指標となる良書だと思う。
大きなコミュニティは、小さなコミュニティを囲い込んでしまい、次第に息苦しい存在にしてしまうからだ。
伝統的な共同体も今では息苦しい存在なのは、過疎化した村落で、よそ者を受け付けずにそのまま共同体そのものが崩壊するケースが多いことは聞いたことがあるだろう。
この本が、松岡正剛の千夜千冊の第1237夜で詳しい解説が載っていて、読む気になったので以前読んだのだが、読み返してみると、この本がIT革命の渦中だった頃の2001年の出版で現代(2018年)に至ってはこの議論は誰もが気づいている「常識」のレベルに至ってることに驚いた。バウマンがこの著書を書いたのが75歳だということには今更驚かない。引用している著書や軸にしている本が、いささか古さも感じるし、これは訳者の責任もあるが文体の翻訳の仕方が古くて悪文である。
こういう文体がなぜ生まれるのは、バウマンが東欧ポーランド生まれのユダヤ人であることとは無関係ではなさそうだ。ナチスドイツにポーランドを追われソ連に亡命し、帰国後、ポーランド軍で少佐まで出世するも反ユダヤ主義の動きから国を追われる。イスラエルで大学教授になり、71年からはイギリスのリーズ大学の教授になる。結構波乱万丈な経歴だと思いませんか?当時のアシュケナージ・ユダヤ人はこういう感じであちこちの国に身を寄せて、色々な言語を次々の駆使しなくては、生きることすらままならなかった経歴が、こういう悪文を生み出したと思う。同じ時代で、この本でも引用されているカール・ポランニーにしても、ハンガリー語、ドイツ語、英語、フランス語等チャンポン状態だ。
バウマン自身、ユダヤ人だからこそ、コミュニティで置き場所に苦悩している様があることで、知識人階級で生きるためには多数の著書を出版して、「実績」を残さずしては学際社会から排除されることは意識していたのだろう。だからマイノリティに対して只ならない愛着が文章から生まれるのは当然かと思う。
バウマンの議論は、現代でこそ意識する必要がある。特に「ペグ・コミュニティ」だ。ペグというのは「釘」のことだ。訳者はこの比喩をもっと意識的に意訳するべきだと思った。例えば「出る杭コミュニティ」とか。これが意味することは「出る杭は打たれる」に象徴される様に、社会はそういう「逸脱」を許さないのだ。「逸脱者」は排除するか、囲い込んで「境界」内に取り囲んで「家畜」の様に飼いならそうとする。NPO法人になると経理や情報も公開義務があるので組織の秘匿性や隠蔽が難しくなり、やがてツルツルの無害な「家畜」として社会の「養分」にされる。
社会というのは、人間の共通感覚の集合体のことであり、生命体の様なものだ。病原菌は取り込んで「免疫」を作り、社会に有益なものならそれを秩序の中に組み込んでしまう。取り込めないのなら囲い込んである領域に押し込めるか、それが無理なら「排除」する。
社会における「逸脱」という問題は、古くからあり、また現代的な新しい問題でもある。IT社会によって加速的に情報処理のスピードアップが図られ、国家ではもはや制御が出来ない程乱立したコミュニティが、今では山ほど生まれている。アラブの春に象徴される様に、コミュニティや繋がりによる個から集団化する運動のスピードは国家の処理が追い付けない程になっている。勿論これによって「責任を負わないきずな」は社会や国家を崩壊させるケースを、さらに囲い込もうとする動きと対立していこうとするか、妥協して社会システムに組み込もうとする動きと両極端だが、恐らくどちらも正解ではないだろう。とても過激な内容すぎて、恐らく再版は不可能と思われる問題作「 罵論・ザ・犯罪―日本「犯罪」共同体を語る 」はこの内容の議論が含まれる。小室直樹氏と長谷川和彦氏の過激さが特に素晴らしい(笑)。
バウマンは「倫理的なコミュニティ」の構築は出来るだろうか?と投げかけている。私もその様な疑問にはとても応えることは無理だ。けれどこれは問題を考えるに当たっての指標となる良書だと思う。
2018年6月13日に日本でレビュー済み
ポーランド生まれの社会学者、バウマンが、現代社会における、コミュニティの置かれた状況を、批判的な視点で論じている。
グローバル化が進み、どの先進国においても、成功した人々は、自分の住む国家への帰属意識は、どんどんと薄れてきている。
現代社会で一番有効なコミュニティは、マイノリティのエスニック・グループのコミュニティであるという。
これといった明確な結論や提言はないが、むしろ読者に考えさせるように誘導しているようだ。
グローバル化が進み、どの先進国においても、成功した人々は、自分の住む国家への帰属意識は、どんどんと薄れてきている。
現代社会で一番有効なコミュニティは、マイノリティのエスニック・グループのコミュニティであるという。
これといった明確な結論や提言はないが、むしろ読者に考えさせるように誘導しているようだ。