近代日本におけるナショナリズムと宗教を巡る、政治学者と宗
教学者による対談です。
読み進むと、保守穏健派と反国家神道派による対話と成ってい
くことが判ります。
第一章では、大澤真幸氏による近代日本の150年を思考のベース
として、この対話が進むことが示されます。
中島氏は「一君万民」=「下からのナショナリズム」である、
国学的な側面から王政復古に注目しています。
島薗氏は「祭政一致」=「上からのナショナリズム」である、
儒教的な要素を強調します。
第二章では、親鸞主義者を取り上げます。
戦前の全体主義の主導者の多くが、元「煩悶青年」であり、宗
教による救済を求めた結果であるという指摘には、刮目しまし
た。
親鸞の「絶対他力」が、「あるがまま」を「中今」へと強化し、
人為的な勢力は右も左も攻撃するという、その人為性には恐ろ
しいものがあります。
国学と浄土教との構造の類似性も示されます。
下命は荘子派であり、「あるがまま」とは親和性があるだけに、
「中今」には、特に強い警戒心を持ちました。
第三章では、日蓮主義者を取り上げます。
一方のこちらは人為の塊であり、計画的な「超国家的大理想」
を掲げていきます。
有名な田中智学から、石原莞爾や宮沢賢治、涯は「革新右翼」
である北一輝や大川周明への流れが示されます。
第四章では、国家神道が取り上げられます。
島薗氏の真骨頂となるテーマです。
1890年の教育勅語の発布以後、「祭政教一致」が確立し、「下
からの国家神道」と諸宗教の「相乗り」により、昭和の全体主
義が加速して行く様子が見えて来ます。
第五章は、ユートピア主義への懐疑となります。
科学技術と資本主義が手を取り合って自動展開され、人為的な
コントロールが効かなくなっていることが、原発や生命科学を
例に語られます。
宗教の役割が改めて説かれます。
第六章では、現代日本の宗教ナショナリズムが取り上げられま
す。
戦前の国家神道体制の残滓が、連綿と生き延び、勢力を強めつ
つあることが、島薗氏により力説されます。
オウム事件や秋葉原無差別殺傷事件に見られるように、現在の
煩悶青年の方が、より孤立していることが示されます。
そして、共同体における宗教の可能性を模索していきます。
第七章は、愛国と信仰の暴走の回避です。
「一なるもの」の危険性を語り、岡倉天心、南方熊楠、西田
幾多郎、柳宗悦といった、思想としての亜細亜主義における、
「多一論」の可能性を説きます。
特に、柳宗悦の思想を取り上げます。
第八章は、全体主義への危惧です。
明治の体制が、西欧の立憲デモクラシーと古代復古の神権的国体
観念のせめぎ合いであったことが、明治憲法により示されます。
この構造的な歪みに対する視点の欠如が、戦後も続いて来たこと
が問題とされます。
日本会議の台頭が語られ、それへの危惧が力説されます。
また、米国の東アジアからの撤退が現実になった時が、日本に
おける全体主義への回帰となるという、中島氏の卓見が示され
ます。
それを阻止するためにも、「亜細亜主義」の再考が必要という
見解には、全面的に賛同します。
明治維新という近代日本の発動から、将来の危惧までを見据え
た傑作対談でした。

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愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか (集英社新書) 新書 – 2016/2/17
あの国体論が復活している!
安倍政権の背後の宗教ナショナリズムを斬る!
国家神道、祖国礼拝、八紘一宇。愛国心と信仰心が暴走した果てに、戦前の日本がなだれこんでいった全体主義。その種がまかれた明治維新から第二次大戦まではおよそ七五年だが、戦後七五年が近づく現代の日本も、奇妙によく似た歴史の過程を歩んでいる。
危機の時代になると、人々はなぜ国家と宗教に傾斜していくのか。戦前のような全体主義はよみがえるのか。日本の社会と政治の歪みに気鋭の政治学者と宗教学の泰斗が警鐘を鳴らす!
[著者情報]
中島岳志(なかじま たけし)
一九七五年生まれ。政治学者。北海道大学公共政策大学院准教授を経て、二〇一六年三月より東京工業大学教授。専門は近代思想史。主な著作に『中村屋のボース』(大佛次郎論壇賞受賞)。
島薗 進(しまぞの すすむ)
一九四八年生まれ。宗教学者。東京大学大学院人文社会系研究科名誉教授。上智大学神学部特任教授、グリーフケア研究所所長。専門は日本宗教史。日本宗教学会元会長。主な著作に『国家神道と日本人』。
安倍政権の背後の宗教ナショナリズムを斬る!
国家神道、祖国礼拝、八紘一宇。愛国心と信仰心が暴走した果てに、戦前の日本がなだれこんでいった全体主義。その種がまかれた明治維新から第二次大戦まではおよそ七五年だが、戦後七五年が近づく現代の日本も、奇妙によく似た歴史の過程を歩んでいる。
危機の時代になると、人々はなぜ国家と宗教に傾斜していくのか。戦前のような全体主義はよみがえるのか。日本の社会と政治の歪みに気鋭の政治学者と宗教学の泰斗が警鐘を鳴らす!
[著者情報]
中島岳志(なかじま たけし)
一九七五年生まれ。政治学者。北海道大学公共政策大学院准教授を経て、二〇一六年三月より東京工業大学教授。専門は近代思想史。主な著作に『中村屋のボース』(大佛次郎論壇賞受賞)。
島薗 進(しまぞの すすむ)
一九四八年生まれ。宗教学者。東京大学大学院人文社会系研究科名誉教授。上智大学神学部特任教授、グリーフケア研究所所長。専門は日本宗教史。日本宗教学会元会長。主な著作に『国家神道と日本人』。
- 本の長さ272ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日2016/2/17
- 寸法10.9 x 1.3 x 17.4 cm
- ISBN-104087208222
- ISBN-13978-4087208221
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (2016/2/17)
- 発売日 : 2016/2/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 272ページ
- ISBN-10 : 4087208222
- ISBN-13 : 978-4087208221
- 寸法 : 10.9 x 1.3 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 296,769位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2022年1月4日に日本でレビュー済み
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国家神道、八紘一宇は、戦前の日本を全体主義に導いたイデオロギー。それらの“熟語”が今、国会の場でフツーに飛び交う戦前回帰の状況に、「アベ教」という狂的信仰が二重写しに。“戦後”は続くのか?
2016年6月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「ナショナリズム」と「宗教」は、戦後日本の教育の中心から疎外された存在だった。戦後70年経った今、そうした教育で育った人間が日本人の大半を占める。
「ナショナリズムと宗教」は、ことを対象的(客観的)に見る言葉であるのに対して、「愛国と信仰」と言えば、それは実存(主体)に即している。『愛国と信仰の構造』は、「ナショナリズム」と「宗教」という戦後日本のいわば辺境を、実存の側から分け入って問題にした。
折しも「日本会議」が注目を集めている。話題の著『日本会議の研究』(菅野完 扶桑社新書)は、日本会議の起源が長崎大学にあったことを突き止めた。そこにはまず安東巌の存在があった。日本会議の草創は、大学に遅れて進んだ安東と大学では同期、年齢ではほぼ8歳下の人間たちによって主に担われた。彼らをつき動かしたのは安東巌のカリスマ性だった。そのカリスマ性を担保していたのは、年長者安東の稀な宗教的人生経験であり、それを称揚する「生長の家」創始者谷口雅春であった。
昭和40年代、大学は全共闘によって撹乱されていた。「民主主義教育」とも言われる戦後教育の洗礼の延長上に「全共闘的感覚」は在る。長崎大学を核とした彼らはその感覚に真っ向から対峙した。彼らの思想的拠点は、「全共闘的感覚」とは対極の「ナショナリズム」と「宗教性」だった。しかし不幸だったのは出発がまずもって「アンチ」であったことだ。ひとりひとり「愛国と信仰」を担う者としての実存性に真摯である前に、「アンチ」のレベルで徒党を組んだ。おのずと敵を想定してやまない「政治性」へと向う。「生長の家」からの離脱は必然であった。このたび安倍政権、ひいては鬼っ子「日本会議」を批判した宗教団体「生長の家」の声明は至極当然だ。日本会議の側にこの声明に耳を傾けうる自省の念、そして権力の座の陶酔を抛(なげう)つ器量在りや無しや。日本会議の初心「日本再生」の如何はそこに在る。よもや宗主国アメリカ様(軍産勢力)の思うまま、「日本壊滅」への道を歩みつづけることなきことを切に冀(こいねが)う。
「戦後教育」の結果へのアンチから出発した運動は、戦後を否定するあまり闇雲な戦前の肯定となり、必然、「個人」の前に「国家」第一の「全体主義」ヘと通底する。そこへと向う様をいま現実にわれわれは、日本会議の影響下に成立した安倍政権によって目の前に突きつけられている。この危うい事態からどう逃れどう克服すればいいのか。この折、「ナショナリズムと宗教」に真っ正面から向き合い、「愛国と信仰」という実存のレベルまで分け入ってその処方を探ろうとした対談が『愛国と信仰の構造』と読んだ。その副題はいみじくも、「全体主義はよみがえるのか」。
傍線しつつ読んだ本を見返してみると、その傍線は圧倒的に中島氏に多い。中島氏の言葉は、単なる知識ではない体験の下支えがあって発せられる。つまり「実存的」である。ヒンズー教、仏教を通して「器としての人間」という認識を得たことで、二十歳の頃の煩悶から救われたと言う。
《中島 本当にそうなのです。自己への執着というものがあなたを苦しめているならば、それを解き放って世界や他者へと開き、縁によって自己が変容していく「無我」という立場に立ったほうが、あなたという現象を精いっぱい生きることができる。[無我」というのは、私の存在を否定するのではなく、変容する私を受容するということ。だから私を「無我の我」として捉える。「我なし、ゆえに我あり」です。こういう仏教の考え方に、若い時にたいへん教われました。》(161P)
「器としての人間」という観念は「縁」につながる観念であり、東洋的思想の根底にある。すなわちアジア的である。この思いが最終章の「アジア主義」再考の主張となる。多くの示唆に富むこの著にあって、さらに白眉と言っていい。
《EUはキリスト教をべースに、「ヨーロッパ」という思想的な地層を形成してきました。そうした思想的な地層のうえで、連邦国家という容易には到達しえない目標を立て、それに向かって具体的な協議を重ねた結果が現在のEUです。たしかにEUが連邦国家になることは難しいでしょう。しかし、それでも具体的な議論を経て、当初想定したものとは異なる、「中途半端なものとして安定している」システムができ上がっている点が重要です。/このヨーロッパの経験に照らし合わせれば、東アジア共同体がすぐに生まれるはずはありません。しかし、アジアとはいったい何なのかと問い続け、そのうえでアクチュアルな問題として東アジア共同体について協議をしていかなくてはならない。その具体的なプロセスの延長上にこそ、私たちの想定していない何らかの「アジア」というまとまりが構成されていくのではないでしょうか。》(260-261p)
この提案を受けた島薗氏の次の発言でこの対談は締められる。
《私も中島さんの考え方に共感します。/EUを支えるキリスト教、あるいはカトリック教会というような一元的で強固な共通の基盤がアジアにはない。しかし、一方で、東アジアは多様な思想が多様なまま共存するという経験をずっとしている。ここに独白の可能性があるはずです。/明治維新から一五〇年。この間、日本は、東アジアの宗教や精神文化を遠ざけ、西洋的な近代化に邁進したつもりでいた。しかし、いまや近代的な枠組みを作ってきた国民国家や世俗主義という理念が、問いなおされるようになっています。/だとすれば、現在の危機を奇貨として、私たちは東アジアという枠組みから宗教や精神文化の重要性を考え、それが立憲主義や民主主義とどう関わり合うのかを考えてみるべきでしょう。/そのためには、日本の問題を東アジアの課題として受け取る。そういう視野が必要とされていると思います。/たとえば立憲主義についても、これを西洋からの輸入物としてではなく、東アジアにある思想資源や文化資源から意味づけし直すことができるはずです。/アジア的価値観の中に、いかにして立憲デモクラシーと歩調を合わせる精神性を見ていくか。こういう日本の課題と、中国の中で立憲主義的な動きがどういうふうにあらわれてくるかということを同時的な問題として考えていく。/あるいは中国が多様な民族を共存させていくという課題と、日本が国家主義に向かう流れを克服していくという課題を同時に考えていく。/こうした共通の課題をともに担っていると考え、その解決に向けて自国だけでなく、アジアあるいは東アジアの枠組みで考えていく。それが中島さんのいう「アジアとは何か」と問い続ける態度にも重なるように思います。/たしかに、アジアにはキリスト教のような共通の思想的基盤は見つけづらい。しかし、繰り返しになりますが、多様性に基づくがゆえに、多様性と取り組んでいく経験が糧になる。その経験をイスラーム圈や欧米とも分かち合っていくことはできるはずだし、それこそ日本が世界に今後発信していくべき精神的な貢献だと思います。》(261-263p)
かつて私も「日本会議」的感覚の中にあった。そこから脱け出るきっかけとなったのは、たしかに、副島隆彦氏の「アジア人同士戦わず」の言葉だった。
「ナショナリズムと宗教」は、ことを対象的(客観的)に見る言葉であるのに対して、「愛国と信仰」と言えば、それは実存(主体)に即している。『愛国と信仰の構造』は、「ナショナリズム」と「宗教」という戦後日本のいわば辺境を、実存の側から分け入って問題にした。
折しも「日本会議」が注目を集めている。話題の著『日本会議の研究』(菅野完 扶桑社新書)は、日本会議の起源が長崎大学にあったことを突き止めた。そこにはまず安東巌の存在があった。日本会議の草創は、大学に遅れて進んだ安東と大学では同期、年齢ではほぼ8歳下の人間たちによって主に担われた。彼らをつき動かしたのは安東巌のカリスマ性だった。そのカリスマ性を担保していたのは、年長者安東の稀な宗教的人生経験であり、それを称揚する「生長の家」創始者谷口雅春であった。
昭和40年代、大学は全共闘によって撹乱されていた。「民主主義教育」とも言われる戦後教育の洗礼の延長上に「全共闘的感覚」は在る。長崎大学を核とした彼らはその感覚に真っ向から対峙した。彼らの思想的拠点は、「全共闘的感覚」とは対極の「ナショナリズム」と「宗教性」だった。しかし不幸だったのは出発がまずもって「アンチ」であったことだ。ひとりひとり「愛国と信仰」を担う者としての実存性に真摯である前に、「アンチ」のレベルで徒党を組んだ。おのずと敵を想定してやまない「政治性」へと向う。「生長の家」からの離脱は必然であった。このたび安倍政権、ひいては鬼っ子「日本会議」を批判した宗教団体「生長の家」の声明は至極当然だ。日本会議の側にこの声明に耳を傾けうる自省の念、そして権力の座の陶酔を抛(なげう)つ器量在りや無しや。日本会議の初心「日本再生」の如何はそこに在る。よもや宗主国アメリカ様(軍産勢力)の思うまま、「日本壊滅」への道を歩みつづけることなきことを切に冀(こいねが)う。
「戦後教育」の結果へのアンチから出発した運動は、戦後を否定するあまり闇雲な戦前の肯定となり、必然、「個人」の前に「国家」第一の「全体主義」ヘと通底する。そこへと向う様をいま現実にわれわれは、日本会議の影響下に成立した安倍政権によって目の前に突きつけられている。この危うい事態からどう逃れどう克服すればいいのか。この折、「ナショナリズムと宗教」に真っ正面から向き合い、「愛国と信仰」という実存のレベルまで分け入ってその処方を探ろうとした対談が『愛国と信仰の構造』と読んだ。その副題はいみじくも、「全体主義はよみがえるのか」。
傍線しつつ読んだ本を見返してみると、その傍線は圧倒的に中島氏に多い。中島氏の言葉は、単なる知識ではない体験の下支えがあって発せられる。つまり「実存的」である。ヒンズー教、仏教を通して「器としての人間」という認識を得たことで、二十歳の頃の煩悶から救われたと言う。
《中島 本当にそうなのです。自己への執着というものがあなたを苦しめているならば、それを解き放って世界や他者へと開き、縁によって自己が変容していく「無我」という立場に立ったほうが、あなたという現象を精いっぱい生きることができる。[無我」というのは、私の存在を否定するのではなく、変容する私を受容するということ。だから私を「無我の我」として捉える。「我なし、ゆえに我あり」です。こういう仏教の考え方に、若い時にたいへん教われました。》(161P)
「器としての人間」という観念は「縁」につながる観念であり、東洋的思想の根底にある。すなわちアジア的である。この思いが最終章の「アジア主義」再考の主張となる。多くの示唆に富むこの著にあって、さらに白眉と言っていい。
《EUはキリスト教をべースに、「ヨーロッパ」という思想的な地層を形成してきました。そうした思想的な地層のうえで、連邦国家という容易には到達しえない目標を立て、それに向かって具体的な協議を重ねた結果が現在のEUです。たしかにEUが連邦国家になることは難しいでしょう。しかし、それでも具体的な議論を経て、当初想定したものとは異なる、「中途半端なものとして安定している」システムができ上がっている点が重要です。/このヨーロッパの経験に照らし合わせれば、東アジア共同体がすぐに生まれるはずはありません。しかし、アジアとはいったい何なのかと問い続け、そのうえでアクチュアルな問題として東アジア共同体について協議をしていかなくてはならない。その具体的なプロセスの延長上にこそ、私たちの想定していない何らかの「アジア」というまとまりが構成されていくのではないでしょうか。》(260-261p)
この提案を受けた島薗氏の次の発言でこの対談は締められる。
《私も中島さんの考え方に共感します。/EUを支えるキリスト教、あるいはカトリック教会というような一元的で強固な共通の基盤がアジアにはない。しかし、一方で、東アジアは多様な思想が多様なまま共存するという経験をずっとしている。ここに独白の可能性があるはずです。/明治維新から一五〇年。この間、日本は、東アジアの宗教や精神文化を遠ざけ、西洋的な近代化に邁進したつもりでいた。しかし、いまや近代的な枠組みを作ってきた国民国家や世俗主義という理念が、問いなおされるようになっています。/だとすれば、現在の危機を奇貨として、私たちは東アジアという枠組みから宗教や精神文化の重要性を考え、それが立憲主義や民主主義とどう関わり合うのかを考えてみるべきでしょう。/そのためには、日本の問題を東アジアの課題として受け取る。そういう視野が必要とされていると思います。/たとえば立憲主義についても、これを西洋からの輸入物としてではなく、東アジアにある思想資源や文化資源から意味づけし直すことができるはずです。/アジア的価値観の中に、いかにして立憲デモクラシーと歩調を合わせる精神性を見ていくか。こういう日本の課題と、中国の中で立憲主義的な動きがどういうふうにあらわれてくるかということを同時的な問題として考えていく。/あるいは中国が多様な民族を共存させていくという課題と、日本が国家主義に向かう流れを克服していくという課題を同時に考えていく。/こうした共通の課題をともに担っていると考え、その解決に向けて自国だけでなく、アジアあるいは東アジアの枠組みで考えていく。それが中島さんのいう「アジアとは何か」と問い続ける態度にも重なるように思います。/たしかに、アジアにはキリスト教のような共通の思想的基盤は見つけづらい。しかし、繰り返しになりますが、多様性に基づくがゆえに、多様性と取り組んでいく経験が糧になる。その経験をイスラーム圈や欧米とも分かち合っていくことはできるはずだし、それこそ日本が世界に今後発信していくべき精神的な貢献だと思います。》(261-263p)
かつて私も「日本会議」的感覚の中にあった。そこから脱け出るきっかけとなったのは、たしかに、副島隆彦氏の「アジア人同士戦わず」の言葉だった。
2017年4月30日に日本でレビュー済み
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日蓮宗と戦前の全体主義、国家主義者との関連を日掘り下げてほしかった。何やら 現政権批判に傾斜した議論が多すぎる感じであった。
2016年7月10日に日本でレビュー済み
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日本会議が気になってこの本を読んでみた。近代史は奥が深い。もっと学ばねばと考えている。公明党の動きが気になる。
2016年2月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
おもしろい。しかし、こわい予言。
まず、冒頭で「明治維新後の75年」と「敗戦後の75年」の歴史はパラレルだという、日本の近代150年の見取り図が広げられる。
どういうことかと言うと、上の内容紹介にもあるように(天皇をのぞいた)「万民の平等」をめざした明治維新から宗教ナショナリズム(国体論)が盛り上がり、全体主義が進み、第二次 世界大戦に突入していくまでが、だいたい75年。敗戦後からも、もうじき75年。この歴史のプロセスのそれぞれの時代(25年ごとの特徴)が、よく似ているのだという。
「明治維新後の75年間」の最後の25年間は、大正デモクラシーが終わり、昭和ファシズムへと暗転した時代。そうなると気になるのは、「敗戦後の75年」の終着点も、やはり宗教ナショナリズムと全体主義なのか、という問題。だから「明治維新後の75年間」の分析が超重要になる、というわけだ。
その分析の対象が、タイトルにもなっている「愛国と信仰」の構造。「日本の中空構造」のように「日本の真ん中は空っぽ」説が日本文化論の主流派になっているが、そうではない、というのが島薗氏の主張。むずかしかった「島薗宗教学」が、するする頭に入る。
全体主義が始まる入り口におきた「血盟団事件」を描いた中島氏の著作なども読んできたが、首謀者の内面に入り込んだあの著作とは異なって、今回の中島氏は鳥の眼での分析。「血盟団事件」なども、この「明治維新後の75年間」=「敗戦後の75年間」という図式のなかに置くと、非常に意味が分かりやすくなる。
今の日本で起きたこと、これから起きることが、どういう意味をもつのか。それを考えるのに、この本はとてつもなく役に立つ。
まず、冒頭で「明治維新後の75年」と「敗戦後の75年」の歴史はパラレルだという、日本の近代150年の見取り図が広げられる。
どういうことかと言うと、上の内容紹介にもあるように(天皇をのぞいた)「万民の平等」をめざした明治維新から宗教ナショナリズム(国体論)が盛り上がり、全体主義が進み、第二次 世界大戦に突入していくまでが、だいたい75年。敗戦後からも、もうじき75年。この歴史のプロセスのそれぞれの時代(25年ごとの特徴)が、よく似ているのだという。
「明治維新後の75年間」の最後の25年間は、大正デモクラシーが終わり、昭和ファシズムへと暗転した時代。そうなると気になるのは、「敗戦後の75年」の終着点も、やはり宗教ナショナリズムと全体主義なのか、という問題。だから「明治維新後の75年間」の分析が超重要になる、というわけだ。
その分析の対象が、タイトルにもなっている「愛国と信仰」の構造。「日本の中空構造」のように「日本の真ん中は空っぽ」説が日本文化論の主流派になっているが、そうではない、というのが島薗氏の主張。むずかしかった「島薗宗教学」が、するする頭に入る。
全体主義が始まる入り口におきた「血盟団事件」を描いた中島氏の著作なども読んできたが、首謀者の内面に入り込んだあの著作とは異なって、今回の中島氏は鳥の眼での分析。「血盟団事件」なども、この「明治維新後の75年間」=「敗戦後の75年間」という図式のなかに置くと、非常に意味が分かりやすくなる。
今の日本で起きたこと、これから起きることが、どういう意味をもつのか。それを考えるのに、この本はとてつもなく役に立つ。
2021年11月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
教科書として購入頼まれました。綺麗な状態ですぐに届きました。