谷崎潤一郎全集のなかで、新しく読むことのできるようになった部分の最も多いのが本巻だ。「創作ノート」、とりわけ戦前に書かれ、写真版として残されていた「松の木影」は非常に興味深い資料である。
作家が小説などを書くために、いろいろなかたちでノートや覚え書きをつける。作品が完成した後に破棄されることも多いそうした文書は後世に残りにくいが、このたびは面白い谷崎に対面できた。完成された、あるいはされなかった小説のための断片的なメモも啓発的だが、それよりも谷崎のごく私的な周辺の人間関係を克明に綴った、かなりの長さをもつ幾つかのエピソードが面白いのである。それらも「作品」に向けたものであることは、『細雪』に繋がる、夫人の妹のお見合い話を記述したパートなどから知りうるが、作品とはならなかったと思われる（たぶん）エピソードが読み応えあるのだ。
「阪神夫人」というタイトルが見え隠れするものでは、夫に黙って借金をしたり買い物をしたりする有閑マダム的な「Ｋ夫人」がＴ〔谷崎〕やＭ子〔松子〕とトラブルを起こす著者の周辺事情が描かれる。また妻を亡くしたばかりのＯという男の結婚話では、娘との悪化していく関係に焦点が合わされる。谷崎は上山草人というハリウッドで活躍した俳優と親しかったようだが、東京に滞在するとき彼の家によく泊まったことがあったため、上山の恐るべき嫉妬心に悩まされる。そうしたエピソードが、それぞれ１０ページもある長さで詳しく描かれ、文体こそ小説になっていないものの、読ませるのだ。
普通「創作ノート」というと、「作品」に準ずるものであり、研究者を別とすれば、あまり読まれないものだと思う。手元に新潮社版ドストエフスキー全集があるが、そのうち長篇の「創作ノート」の巻である２冊は、まだ読むには至っていない。解題によれば抄訳ということだが（筑摩書房の全集でより完全な訳が後に出た）、どちらにしても私がこれらを読むのは、残り少ない人生において五つの長篇を再読してからだろう。
またヘンリー・ジェイムズの邦訳されていない分厚い「ノートブック」もあるが、こちらは私の語学力では読むのが大変だ。
ドストエフスキーの場合、その「創作ノート」は小説の下書きであり、それ自体かなりの分量がある。谷崎にはそうしたものはないようだ。一方、ジェイムズの場合、友人・知人から仕入れたいろいろな話が物語形成の「芽」になるらしく、作品のアイデアとしてそれらが書かれる。谷崎が自身の周辺の人間関係を克明に綴るのとは、かなり趣きが違う。だが似ていることがあって、ジェイムズも谷崎も、登場人物名の案らしきものをびっしりと繋げて書いている。「名前」というものへの関心において共通点が二人にあるように思われる。
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