副題は「論語好きの孔子知らず」。タイトルは、孔子のウソではなく、孔子をエラい人にしている(後世の)人たちのウソである。
エラいと祭りあげられ、道徳教育の道具とされがちな『論語』に登場する孔子のリアルな姿―「ヘリクツと強がりと負け惜しみばかり並べる(p.27)」「ダメで弱くて、全力でダサいおっさん(p.215)」を描く。と言っても著者は、そのような「孔子の真の姿(p.27)」、特に「終生、武力や暴力から距離をおく姿勢を貫いた(p.215)」非暴力主義者としての孔子が好きなようである。
「己の欲せざるところは人に施すなかれ」は、判断基準が自分にある点が問題で「相手が嫌がることはするな」と言うべきだ(p.113-114)とか、(孔子とは離れるが)「歳月人を待たず」という陶淵明の雑詩の趣旨は「だから楽しもう」ということであって、「だから勉強・仕事しろ」ということではない(pp.87-88)とか、目から鱗である。
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エラい人にはウソがある ―論語好きの孔子知らず 単行本(ソフトカバー) – 2015/10/7
パオロ・マッツァリーノ
(著)
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孔子に学んでホントに大丈夫?
たいていの人は『論語』をありがたい教え、孔子を偉大なエラい人物と思っているようだが、本当にそうなのか! ?
じつは『論語』をフツーに読むと、スーパーマンとは程遠い、けっこうヘタレなエピソードが満載。ビッグマウスで
ヘリクツをこね、弟子に嫉妬するなど、人間くさい“マナー講師"だ。
自称イタリア生まれの日本文化史研究家の著者が、孔子と『論語』をありがたがる“論語病"に物申す!
笑いとつっこみを入れながら読み解く《ありのままの孔子》!
たいていの人は『論語』をありがたい教え、孔子を偉大なエラい人物と思っているようだが、本当にそうなのか! ?
じつは『論語』をフツーに読むと、スーパーマンとは程遠い、けっこうヘタレなエピソードが満載。ビッグマウスで
ヘリクツをこね、弟子に嫉妬するなど、人間くさい“マナー講師"だ。
自称イタリア生まれの日本文化史研究家の著者が、孔子と『論語』をありがたがる“論語病"に物申す!
笑いとつっこみを入れながら読み解く《ありのままの孔子》!
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社さくら舎
- 発売日2015/10/7
- 寸法18.8 x 12.8 x 2.5 cm
- ISBN-104865810293
- ISBN-13978-4865810295
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商品の説明
著者について
パオロ・マッツァリーノ イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、
大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母は
ナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか
聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。
著書に『反社会学講座(正・続)』『誰も調べなかった日本文化史』(以上、ちくま文庫)、『13歳からの反社会学』(角川文庫)、
『つっこみ力』(ちくま新書)、『「昔はよかった」病』(新潮新書)『怒る! 日本文化論』(技術評論社)、『ザ・世のなか力』(春秋社)、
『偽善のすすめ』(河出書房新社)などがある。
大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母は
ナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか
聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。
著書に『反社会学講座(正・続)』『誰も調べなかった日本文化史』(以上、ちくま文庫)、『13歳からの反社会学』(角川文庫)、
『つっこみ力』(ちくま新書)、『「昔はよかった」病』(新潮新書)『怒る! 日本文化論』(技術評論社)、『ザ・世のなか力』(春秋社)、
『偽善のすすめ』(河出書房新社)などがある。
登録情報
- 出版社 : さくら舎 (2015/10/7)
- 発売日 : 2015/10/7
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 224ページ
- ISBN-10 : 4865810293
- ISBN-13 : 978-4865810295
- 寸法 : 18.8 x 12.8 x 2.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 546,899位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 583位近代西洋哲学
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2017年9月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
多くの人は孔子を偉大な人物と思っているようだが、本当にそうなのだろうか?という切り口が面白い。
論語に一時期傾倒していた者としては非常に耳が痛いが、良本。なかなか言いにくい「就職予備校のカリスマ教師」という新たな孔子像、私は好きだ。
論語に一時期傾倒していた者としては非常に耳が痛いが、良本。なかなか言いにくい「就職予備校のカリスマ教師」という新たな孔子像、私は好きだ。
2017年5月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書の目的は、孔子を悪く言う為では無く、権威にすがって盲目的に孔子をありがたがるのは良くないという事を示す所にあると思う。
著者は、自己正当化の為に、孔子の威を借りる人の危険性を説いており、自分の目と耳で調べ、頭で考えた上で、孔子の考えや生き方を学ぶべしと説いている。
読みやすいが、文章が少々だらだらしているのが残念ではあった。
著者は、自己正当化の為に、孔子の威を借りる人の危険性を説いており、自分の目と耳で調べ、頭で考えた上で、孔子の考えや生き方を学ぶべしと説いている。
読みやすいが、文章が少々だらだらしているのが残念ではあった。
2015年11月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中学時代に教えられた、なんとなく孔子はすごい人という観念が吹き飛ぶ作品。
著者のよいテンポは相変わらずで、かつ、情報・内容も本作もしっかり身があります。
読んでいて飽きないし、さらに新しい発見も多くある。
この作品も、これまで漫然と捉えていた事項に対して、新たな考え方をあたえてくれる。
著者のよいテンポは相変わらずで、かつ、情報・内容も本作もしっかり身があります。
読んでいて飽きないし、さらに新しい発見も多くある。
この作品も、これまで漫然と捉えていた事項に対して、新たな考え方をあたえてくれる。
2016年7月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ユーモアたっぷりで、著者の人間愛?も感じられ、とにかく面白かったです。感謝!これを読んで、逆にもう一度『論語』、論語関連書を読んでみたくなりました。例えば、井波律子訳『完訳 論語』とか。
2016年8月18日に日本でレビュー済み
とても面白かったので、一読をお勧めします。非常に説得力があって、今後、本書で描かれた孔子像を頭から除去することはできないでしょうね。特に後半、渋沢栄一に関する神話崩しなんか、痛快だった。
でも、だからこそ、非力ながら著者の主張にいくつか疑問符だけつけておきたいと思います。思いつくまま。
著者は孔子が生涯1冊も本を書かなかったことに、かなり意地の悪いツッコミを入れています。
まず第2章p58に「本を書かなかった孔子」という小見出しが掲げられていますが、「出版文化が未発達だった古代では、著作を残さなかった個人・思想家はさほど珍しくありません」(p59)と時代状況を抑えた上で、「ソクラテスと孔子は、目の前の人との対話に重きを置いていたのです」(p60)のように、この辺りではまだフェアな書き方になっています。
孔子の時代の出版文化については、著者は確かに意識しています。例えば孔子の礼法に関する知識に疑義を呈する件りでは、「出版文化がまだなかった当時に、古代の文献自体ほとんどなかっただろうし、あったとしても貴族や王族でなければそれを読むことは許されなかったはず」(p73)とか、「印刷技術もない時代だから、文字による記録はほぼ残っていませんし、孔子は貧乏人の子せがれです。当時は公共図書館もブックオフもありません。支配者が持つ貴重な資料に目を通して勉強できるはずがありません」(p103)とか書いています。
ところが、『論語』における孔子の主張の一貫性の無さを論う件りでは、「孔子くらいの知性があれば、本の一冊や二冊書くくらいできたはずなのに書かなかった。ということは、意図的に書かなかったと考えていいでしょう」(p118)、「発言や行動の矛盾を追及されると、とっさのヘリクツでごまかすのを得意としていた孔子にとっては、文字に残さずおしゃべりをしていたほうが好都合だったのでは」(p119)と踏み込んでいます。
先に触れた本書の「本を書かなかった孔子」の節に、「人はエラくなると必ず本を出版したがります。本を出すという行為には、自分は知的水準の高い人間であると宣言して優越感にひたる目的もあるからです。そこから逆に、知的水準の高い偉人には必ず著作の一冊や二冊あるものだ、とする考え方が生まれます。/古代中国の孔子信奉者たちも似たような考えを持っていたようで、偉大な思想家である孔子(中略)に著書が一冊もないというのはありえない、恥ずべきことだと考えたみたいです。そこで作者不明の書物を孔子の作であると捏造・吹聴したのでした」(p58)とあります。
しかし、この部分はかなりミスリーディングですね。これは『論語』というより、四書五経その他のことを指しているんでしょう。で、著者が言うような「捏造・吹聴」が加速したのは、多分漢代以降、孔子が没して300年以上も経った頃からじゃないでしょうか。漢代になれば、儒教は勢力を伸ばし、やがて国教化されるわけですから、遡及的に孔子の(過剰なまでの)美化が起きたのも理解できます。
孔子本人の話と孔子信奉者の話が、やや混線気味に進むので、意図してか期せずしてか、孔子信奉者への批判が孔子批判に響いてしまう恨みがあります。
紙が発明されたのは早くて紀元前3~2Cで漢代、木版印刷技術は7C以降の唐代だと考えられているようです。宋代にもなれば出版文化が花開くわけで、だからこその朱子学確立なんだと、私は昔先生に習いました。
孔子の時代なら木簡に記録、ということになるはずです。で、当時の社会に「出版文化」なんてものがないことは、著者だって分かっていることじゃないですか。にもかかわらず、孔子が「本」を書かなかったことに、そこまで意図的なものを見て取れるのでしょうか。私は疑問だな。
全体的に言って、著者の孔子解釈は非常に面白いけれど、ちょっと心理主義的に過ぎるように感じる。それは著者の方法意識でもあって、「過去の人たちは、偉人でも英雄でも神でもありません。ただの人間です。いま生きているわれわれとまったく同じ人間です」(p120)とブチ上げています。
でも、私はそこまで言い切れないな。孔子をそこらのオッチャンのように見ることは、偶像破壊の効果はあるかも知れないけど、本当に資料に誠実な姿勢なんだろうか。
いや、孔子を偉人、英雄、神として見ろと言っているのではないんですよ。私の頭にあるのは、例えば安田登が『身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から』で描き出したような孔子像、『論語』像です。孔子を、あるいは『論語』を、現代的な「心」を前提にして読むのではなく、まさに「心」の生成の現場として読む、というのは魅力的なプランです。
そういった意味では、本書はやはり、偽イタリアーノによるオフザケ本という位置づけになるかな。
でも、だからこそ、非力ながら著者の主張にいくつか疑問符だけつけておきたいと思います。思いつくまま。
著者は孔子が生涯1冊も本を書かなかったことに、かなり意地の悪いツッコミを入れています。
まず第2章p58に「本を書かなかった孔子」という小見出しが掲げられていますが、「出版文化が未発達だった古代では、著作を残さなかった個人・思想家はさほど珍しくありません」(p59)と時代状況を抑えた上で、「ソクラテスと孔子は、目の前の人との対話に重きを置いていたのです」(p60)のように、この辺りではまだフェアな書き方になっています。
孔子の時代の出版文化については、著者は確かに意識しています。例えば孔子の礼法に関する知識に疑義を呈する件りでは、「出版文化がまだなかった当時に、古代の文献自体ほとんどなかっただろうし、あったとしても貴族や王族でなければそれを読むことは許されなかったはず」(p73)とか、「印刷技術もない時代だから、文字による記録はほぼ残っていませんし、孔子は貧乏人の子せがれです。当時は公共図書館もブックオフもありません。支配者が持つ貴重な資料に目を通して勉強できるはずがありません」(p103)とか書いています。
ところが、『論語』における孔子の主張の一貫性の無さを論う件りでは、「孔子くらいの知性があれば、本の一冊や二冊書くくらいできたはずなのに書かなかった。ということは、意図的に書かなかったと考えていいでしょう」(p118)、「発言や行動の矛盾を追及されると、とっさのヘリクツでごまかすのを得意としていた孔子にとっては、文字に残さずおしゃべりをしていたほうが好都合だったのでは」(p119)と踏み込んでいます。
先に触れた本書の「本を書かなかった孔子」の節に、「人はエラくなると必ず本を出版したがります。本を出すという行為には、自分は知的水準の高い人間であると宣言して優越感にひたる目的もあるからです。そこから逆に、知的水準の高い偉人には必ず著作の一冊や二冊あるものだ、とする考え方が生まれます。/古代中国の孔子信奉者たちも似たような考えを持っていたようで、偉大な思想家である孔子(中略)に著書が一冊もないというのはありえない、恥ずべきことだと考えたみたいです。そこで作者不明の書物を孔子の作であると捏造・吹聴したのでした」(p58)とあります。
しかし、この部分はかなりミスリーディングですね。これは『論語』というより、四書五経その他のことを指しているんでしょう。で、著者が言うような「捏造・吹聴」が加速したのは、多分漢代以降、孔子が没して300年以上も経った頃からじゃないでしょうか。漢代になれば、儒教は勢力を伸ばし、やがて国教化されるわけですから、遡及的に孔子の(過剰なまでの)美化が起きたのも理解できます。
孔子本人の話と孔子信奉者の話が、やや混線気味に進むので、意図してか期せずしてか、孔子信奉者への批判が孔子批判に響いてしまう恨みがあります。
紙が発明されたのは早くて紀元前3~2Cで漢代、木版印刷技術は7C以降の唐代だと考えられているようです。宋代にもなれば出版文化が花開くわけで、だからこその朱子学確立なんだと、私は昔先生に習いました。
孔子の時代なら木簡に記録、ということになるはずです。で、当時の社会に「出版文化」なんてものがないことは、著者だって分かっていることじゃないですか。にもかかわらず、孔子が「本」を書かなかったことに、そこまで意図的なものを見て取れるのでしょうか。私は疑問だな。
全体的に言って、著者の孔子解釈は非常に面白いけれど、ちょっと心理主義的に過ぎるように感じる。それは著者の方法意識でもあって、「過去の人たちは、偉人でも英雄でも神でもありません。ただの人間です。いま生きているわれわれとまったく同じ人間です」(p120)とブチ上げています。
でも、私はそこまで言い切れないな。孔子をそこらのオッチャンのように見ることは、偶像破壊の効果はあるかも知れないけど、本当に資料に誠実な姿勢なんだろうか。
いや、孔子を偉人、英雄、神として見ろと言っているのではないんですよ。私の頭にあるのは、例えば安田登が『身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から』で描き出したような孔子像、『論語』像です。孔子を、あるいは『論語』を、現代的な「心」を前提にして読むのではなく、まさに「心」の生成の現場として読む、というのは魅力的なプランです。
そういった意味では、本書はやはり、偽イタリアーノによるオフザケ本という位置づけになるかな。
2015年10月18日に日本でレビュー済み
軽いタイトルと軽い文体ですが、儒教史をひっくり返すような恐ろしい本です。
著者の本は、原典に当たってデータを取りそれをもとに通説や妄言につっこみをいれるというスタンスが好きで、
大体読んでいますがまさか今回のターゲットが孔子になるとは・・・。
自分はかれこれ20年前の大学生時代この本でも引用されている『儒教ルサンチマンの宗教』の著者である浅野裕一先生の授業をとっていました。(といっても一般教養ですが・・・)
授業の細かい内容は忘れてしまいましたが、強烈に覚えているのは "孔子+孔子教団” がその当時で例えると”麻原彰晃+高学歴幹部”とほぼ同質の関係であることと、孔子が誇大妄想癖のある元祖フリーターで結局何もできなかった人だと言い切っていたことです。
また儒教の学問構造は、「もともとの本文が書かれる → 時間がたって意味が分からなくなって注釈がつけられる。→注釈の意味もよく分からなくなり、注釈の注釈がつけられる。→(以下略)→日本語に訳される。」となっており、このプロセスを得て私たちの目に触れるわけですが、間に何人もの人間の解釈が介在するおかげでその当時の本意がおきざりになり、拡大解釈されてしまいます。
この拡大解釈のプロセスにおいて漢代以降孔子は聖人化されていくわけですが、論語が書かれた当時の漢字の解釈をもって余計な肉付けがされる前のプレーンな状態で論語は読むべきで、そうやって読んでいけば孔子というのはどうしようもない、すごい人間臭い人なんだといった授業だったと思います。
(そういう読み方が普通はできないから、キリスト教神学のような儒学体系ができたんでしょうけど・・・。)
著書は何冊か読んだものの、あの時の授業のようなものが読みたかったなーとずっと思っていました。
呉智英さんの『現代人の論語』と併せ、この本にてまさにその願いが補完された気分です。
論語をはじめとした儒教の経典の解釈において途中をすっ飛ばすというのは歴史の否定も含んだかなり大それたことなのですが、それがこの本では大変読みやすい文体でなされています。
渋沢栄一のくだりは周りにプチ渋沢的な老人が数人いるため、道徳に取り付かれるのはある種成功者の業なんだと認識させられました。
著者の本は、原典に当たってデータを取りそれをもとに通説や妄言につっこみをいれるというスタンスが好きで、
大体読んでいますがまさか今回のターゲットが孔子になるとは・・・。
自分はかれこれ20年前の大学生時代この本でも引用されている『儒教ルサンチマンの宗教』の著者である浅野裕一先生の授業をとっていました。(といっても一般教養ですが・・・)
授業の細かい内容は忘れてしまいましたが、強烈に覚えているのは "孔子+孔子教団” がその当時で例えると”麻原彰晃+高学歴幹部”とほぼ同質の関係であることと、孔子が誇大妄想癖のある元祖フリーターで結局何もできなかった人だと言い切っていたことです。
また儒教の学問構造は、「もともとの本文が書かれる → 時間がたって意味が分からなくなって注釈がつけられる。→注釈の意味もよく分からなくなり、注釈の注釈がつけられる。→(以下略)→日本語に訳される。」となっており、このプロセスを得て私たちの目に触れるわけですが、間に何人もの人間の解釈が介在するおかげでその当時の本意がおきざりになり、拡大解釈されてしまいます。
この拡大解釈のプロセスにおいて漢代以降孔子は聖人化されていくわけですが、論語が書かれた当時の漢字の解釈をもって余計な肉付けがされる前のプレーンな状態で論語は読むべきで、そうやって読んでいけば孔子というのはどうしようもない、すごい人間臭い人なんだといった授業だったと思います。
(そういう読み方が普通はできないから、キリスト教神学のような儒学体系ができたんでしょうけど・・・。)
著書は何冊か読んだものの、あの時の授業のようなものが読みたかったなーとずっと思っていました。
呉智英さんの『現代人の論語』と併せ、この本にてまさにその願いが補完された気分です。
論語をはじめとした儒教の経典の解釈において途中をすっ飛ばすというのは歴史の否定も含んだかなり大それたことなのですが、それがこの本では大変読みやすい文体でなされています。
渋沢栄一のくだりは周りにプチ渋沢的な老人が数人いるため、道徳に取り付かれるのはある種成功者の業なんだと認識させられました。
2016年10月8日に日本でレビュー済み
タイトル『エラい人にはウソがある』だけでは、どんな本か想像がつくまい。
日本文化論の研究者を自称するパオロ・マッツァリーノが孔子の実像に迫り、
ユーモアたっぷりに論語を嗤う、という本である。
氏のこれまでの書籍同様、かみ砕いた、分かりやすい、、軽いタッチの文章で
ありながら、主張は明確、根拠もしっかりと明示し、説得力が高い。孔子につい
ては、『論語』の影響で日本国内では、本当にありがたがられる偉人として認識
されてしまっているが、「等身大」の孔子を本書では描ききっている。この孔子の
ダメっぷりが如何にも人間臭く、時に愛らしい。宗教家でない孔子の実像はむし
ろ、こちらが近いのかもしれない。
また、孔子自身の手によるものでない『論語』については、なぜ日本でここまで
浸透し、ありがたがられるのか、文化史を紐解きながら説明する。その説明も氏
一流のユーモアたっぷりに嗤うといった類のものだ。ひとこと、痛快である。
日本文化論の研究者を自称するパオロ・マッツァリーノが孔子の実像に迫り、
ユーモアたっぷりに論語を嗤う、という本である。
氏のこれまでの書籍同様、かみ砕いた、分かりやすい、、軽いタッチの文章で
ありながら、主張は明確、根拠もしっかりと明示し、説得力が高い。孔子につい
ては、『論語』の影響で日本国内では、本当にありがたがられる偉人として認識
されてしまっているが、「等身大」の孔子を本書では描ききっている。この孔子の
ダメっぷりが如何にも人間臭く、時に愛らしい。宗教家でない孔子の実像はむし
ろ、こちらが近いのかもしれない。
また、孔子自身の手によるものでない『論語』については、なぜ日本でここまで
浸透し、ありがたがられるのか、文化史を紐解きながら説明する。その説明も氏
一流のユーモアたっぷりに嗤うといった類のものだ。ひとこと、痛快である。