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真の瞑想: 自らの内なる光 (クリシュナムルティ・トーク・セレクション 2) 単行本 – 2017/11/30
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- 本の長さ204ページ
- 言語日本語
- 出版社コスモス・ライブラリー
- 発売日2017/11/30
- 寸法12.8 x 1.2 x 18.7 cm
- ISBN-104434240803
- ISBN-13978-4434240805
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登録情報
- 出版社 : コスモス・ライブラリー (2017/11/30)
- 発売日 : 2017/11/30
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 204ページ
- ISBN-10 : 4434240803
- ISBN-13 : 978-4434240805
- 寸法 : 12.8 x 1.2 x 18.7 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 501,263位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年7月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本に出会えて良かったです。僕はクリシュナムルティを尊敬しているので、また彼の本を購入しようと思います。
2018年1月10日に日本でレビュー済み
スッと内容が入ってくる訳文で、自分に語りかけられているように感じながら、
読むことができた。
瞑想と一口に言っても、色々な方法や思想があって、
わからなくなってしまう事があったのだけど、
方法や思想の背後に潜んでいるものについて、本書を読み、探究することができた。
総説的な前書『境界を超える英知』と、瞑想にテーマを絞った本書を読むと、
瞑想実践の学びが深まるので、ぜひおすすめしたい。
「何かになることを目指すのではなく、
いまここのあるがままの事実に、全的に気づいている。」と、
クリシュナムルティの瞑想が、訳者あとがきで、端的に表されている。
いつもこれを心に留めておきたい。
読むことができた。
瞑想と一口に言っても、色々な方法や思想があって、
わからなくなってしまう事があったのだけど、
方法や思想の背後に潜んでいるものについて、本書を読み、探究することができた。
総説的な前書『境界を超える英知』と、瞑想にテーマを絞った本書を読むと、
瞑想実践の学びが深まるので、ぜひおすすめしたい。
「何かになることを目指すのではなく、
いまここのあるがままの事実に、全的に気づいている。」と、
クリシュナムルティの瞑想が、訳者あとがきで、端的に表されている。
いつもこれを心に留めておきたい。
2020年12月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本の中で、私達が気を付ける、知っておくべきだと思った所を抜き書きします。全体的に分かりにくい、回りくどいと感じるところもありましたが、哲学的な思考で書かれていて良書だと思います。哲学や宗教学に興味のある人にお勧めです。
静かな精神は、物理的に静かなだけではありません。コントロールがあってはだめなのです。何かを無理強いすれば、葛藤があるからです。絶対的に静かであれば、観察できます。「わたし」のない観察だけがあるのです。観察している「わたし」があるなら、そこには二元性があり、分離があります。その「わたし」とは、過去の思いで、過去の経験、現在の問題や不安などの多くのものごとでできている「わたし」です。そのはるかなところに達しているなら、いま、「わたし」は不在です。観察しているのは「わたし」ではありません。ただ観察だけがあります。
この話し手が何かを言っていて、みなさんは、それに耳を傾けています。そして同時に、言われたことへの自分の反応にも耳を傾けていて、ご自分の反応の音にも、言われていることにも、ともに空間を与えているのです。奇跡とは、完全に言われている事実と共にあって、それに耳を傾け、同時に自分の応答にも耳を傾けている、ということです。これは、同時に起こっているプロセスです。みなさんはその音の全体に耳を傾けています。これは、空間があることを意味しています。
純粋な観察は、自己の運動はありません。言葉は自己です。自己は、私の意識です。そして、観察する時、このすべては消えます。観察する「わたし」はいないのです。
探求するには、さらなる洞察をもつには、思考が作り上げたものではない、それを超えた何かがあるかどうかを観察するには、思考は完全に終わっていなければなりません。見出さなければならない、という必要性そのものが、思考を終わらせるのです。
瞑想とは、心理的な測定の理解であり、その終焉なのです。それは、なりゆくことの終焉であり、思考は永遠に限られている、と見ることです。限りないものを思い考えたところで、それもやはり、限られたものから生まれるのです。そこで、思考は終わりに達します。脳は突然沈黙します。それは、事実を、真理を見るからです。そして、事実と真理は、時間を超えているのです。
空間と沈黙がるところにのみ、新しい何かが、時間である思考が触れ得ない何かが存在できるのです。それは、最も清らかなもの、最も聖なるものかもしれません。そこには、英知と慈悲と愛があります。生は分断化されていません。それは、全体としての、一体としての、プロセスであり、動きであり、生きることです。
完全に自分にとっての光であるためには、人は自由でなければなりません。自らにとっての光です。この光は他の誰からも与えられないし、みなさんも誰かのロウソクに灯をともすことはできません。自らにとっての光であるとはどういうことか、それを見出すための究明そのものが、瞑想の一つです。
瞑想において、みなさんは完全に独りで立たなければならないのです。みなさんにとっての光が、これが現われ得るのは、みなさんが自分とは何であるかを自分自身の中に究明する時だけです。それが自己への気づき、自分とは何かを知ることです。自分自身の性質、自分自身の思考、感情に気づき、知ること、その構造全体を見出すことです。他者が提供する記述ではなく、実際の「あるがまま」、自分とは何なのか、ということです。
自分自身を理解するためには、観察が不可欠です。その観察が起こり得るのは、「いま」だけです。それは「いま」を観察している過去の運動ではありません。自分では「いま」を観察していると思っていますが、「いま」の観察が起こり得るのは、過去である観察者がいない時だけです。現在と出会う過去の運動は、そこでは終わっているはずです。それが、「いま」です。
過去なしに観察することです。そこに何の選択もない観察を進行させるのです。それが何であれ、ただ観察する。その観察そのものの中で、それは花開き、根源的な変化を遂げます。背景のない観察そのものが、変化をもたらすのです。
どんな選択のなしに自分自身に気づき、いま実際に起こっていることを見るのは、自己の運動全体である「わたし」が花開くのを許すことです。それは、根源的な変容を遂げます。
私達は、あらゆる肉体的な経験に飽きた時、何か別の種類の経験を、スピリチュアルな経験を欲しがります。神がいるのかを見出すために、ビジョンを持つためです。ビジョンや経験を自分の背景に従って持つことでしょう。
なぜなら、精神がそのように条件づけられているからです。それに気付いて、経験の中に何がひそんでいるのかを見てください。
経験の中に、何がひそんでいるのでしょう。そこには、経験する経験者がいるはずです。経験者とは、彼が切望するすべて、告げられてきたすべて、彼の条件付けです。そして、彼は、神と呼ぶものを、あるいは涅槃を、その他何であれ、経験したいと欲します。そこで、彼は、それを経験するでしょう。しかし、「経験」という言葉は、認知を意味します。そして、認知とは、すでに知っている、ということです。従って、それは、新しい何かではありません。ですから、経験を求める精神は、本当は過去に生きているのです。従って、まったく新しい何かを、本源的なものを理解することは、決して出来ないのです。ですから、経験したいという衝動からの自由がなくてはならないのです。
「思考すること」だけがあるのだ、と見出すことーー思考する者と思考があって、思考する者が思考をコントロールしているわけではない、と見出すことです。あるのは、「思考すること」だけです。「思考すること」は、運動です。「思考すること」は、時間の中での、ここからあそこへの運動です。その時間は終わりに達し得るでしょうか。それが問題なのであって、どうやって「思考すること」を止めるか、ではありません。瞑想について、グルたちはコントロールを強調しますが、コントロールがあるところには、必ず努力があり、必ず葛藤があり、必ず抑圧があります。そして、抑圧があるところには、あらゆる種類の神経症的な振る舞いがあります。
思考は、それ自身を、コントロールする者とコントロールされるものに分断しました。しかし、あるのは「思考すること」だけです。コントロールする者もコントロールされるものもなく、「思考する」という行為があるだけです。「思考すること」は運動、時間の中の測定としての運動です。終わらせようと努力する時、「思考すること」は、依然として操作の中にあります。思考する者とは思考です。思考がなければ、思考する者もありません。
過去は運動ーー現在を通じて修正され、未来に向かう運動です。それが時間の運動です。過去は運動で、常に進行し、現在と出会いつつ動いています。「いま」とは、無運動です。動き得ないものが「いま」なのです。過去の運動である思考は、現在と完全に出会い、そこで終わるのです。
意識全体を見るとは、方向がないこと、つまり、何の動機もない、ということです。
意識をまるごと観察するには、動機も方向もあってはなりません。動機を持った瞬間、それはみなさんに方向を与え、みなさんは全体を見ることがまったく出来ないのです。何かをまるごと見ることが出来るのは、みなさんに方向がない時、そこから方向が出て来る中心がない時だけです。中心とは動機です。動機がないなら、中心はなく、従って、方向もありません。このすべてが、瞑想の一つです。
イメージは、思考が作り上げたものです。そして、思考は、物質的なプロセスであり、運動です。何の運動もない時、まったく本源的で、人類がまったく触れたことのない、思考のすべての運動が触れたことのない、何かがあるのでしょうか。それこそが、おそらくは、本源的で、それゆえに最も清らかなものなのでしょう。
時間を超えた何かが、思考が作り上げたものではない何かが、そして経験を超えることを切望する人間精神の幻想ではない何かがあるかどうかを、自分自身で学ぶことが重要です。そこには、何の葛藤もなく、大いなる感覚の全体性が、完全さが、まったき充足があるのです。
葛藤があるところには、必ず思考の活動があります。精神は、時間の結果であり、進化の結果です。精神は、大いなる知識の倉庫で、それは、非常に多くの影響や経験の結果であり、それらが思考の、まさしく核心です。
思考は、一時的なものです。思考は、変化され、修正され、拡大されることも出来ます。そして、思考は、いかなる思考のプロセスによっても知覚不能な何かに、本当に分け入ることは出来ません。
この次元のものではない、まったく違った次元の何かが、それが本当に存在するのかを見出したいと欲する瞬間に、精神は、それを発明し、幻想やビジョンの中に囚われてしまうでしょう。そのビジョン、その経験は、過去の投影であり、どれほど魅惑的で、どれほど偉大でも、依然として過去なのです。
全体性を、意識的な中身と同じく無意識的な中身も見ることが出来るのは、みなさんが沈黙して見ている時、観察者が完全に沈黙している時だけです。コントロールを試みる時、それはエネルギーの浪費です。
みなさんがエネルギーとともに、意識と無意識の中身全体を見つめる時、精神は空っぽになります。これは、私の幻想でもなければ、私が考えたことでもなく、私が達した結論でもありません。私が結論を出すなら、これが正しいと考えるなら、その時、私は幻想の中にいます。
瞑想とは、瞬間瞬間の真理を知覚することなのですーー究極の真理ではなく。瞬間瞬間に真理と虚偽を知覚する。中身が意識である、という真理を知覚するーーそれが真理です。これをどうすればいいか、私は知らない、という真理を見るーーそれが真理です。
私達の思考の構造すべてが測定をベースにしています。測定としての思考は、それ自身を超えて、計り得ない何かがあるかどうかを自ら発見しようと試みます。そのインチキさを見ることが真理です。真理とは、虚偽を見ることであり、虚偽とは、測り得ないものを、時間に属さないものを、意識の中身の空間にないものを、思考が探し求めることなのです。
人は、自分がまったく知らない何かを経験することに対して、あまりに強欲で、あまりに熱心です。今では、オカルトの追求があります。とてもエキサイティングだからです。真理を追究する者、生を全的に理解しようとする者、虚偽を虚偽として見て虚偽の中に真理を見る者ーーそういう人の精神にとって、オカルトに関する事柄はかなり明白で、そのような精神は、それらには触れないでしょう。
周縁を持たない空間があるのは、思考が静かな時だけです。そして、すべての測定を超えた何かがあるのか、あるいは、ないのかを知るのはーー知るのではなく、気づきですねーー気づくのは、完全に沈黙した精神だけです。
上記の内容を読んで、興味が湧いてきた人は、この本を買って作者の教えと思想に触れてみてください。
上記の文章は、あくまでも私が理解できた内容です。詳しくは各自で調べてください。
静かな精神は、物理的に静かなだけではありません。コントロールがあってはだめなのです。何かを無理強いすれば、葛藤があるからです。絶対的に静かであれば、観察できます。「わたし」のない観察だけがあるのです。観察している「わたし」があるなら、そこには二元性があり、分離があります。その「わたし」とは、過去の思いで、過去の経験、現在の問題や不安などの多くのものごとでできている「わたし」です。そのはるかなところに達しているなら、いま、「わたし」は不在です。観察しているのは「わたし」ではありません。ただ観察だけがあります。
この話し手が何かを言っていて、みなさんは、それに耳を傾けています。そして同時に、言われたことへの自分の反応にも耳を傾けていて、ご自分の反応の音にも、言われていることにも、ともに空間を与えているのです。奇跡とは、完全に言われている事実と共にあって、それに耳を傾け、同時に自分の応答にも耳を傾けている、ということです。これは、同時に起こっているプロセスです。みなさんはその音の全体に耳を傾けています。これは、空間があることを意味しています。
純粋な観察は、自己の運動はありません。言葉は自己です。自己は、私の意識です。そして、観察する時、このすべては消えます。観察する「わたし」はいないのです。
探求するには、さらなる洞察をもつには、思考が作り上げたものではない、それを超えた何かがあるかどうかを観察するには、思考は完全に終わっていなければなりません。見出さなければならない、という必要性そのものが、思考を終わらせるのです。
瞑想とは、心理的な測定の理解であり、その終焉なのです。それは、なりゆくことの終焉であり、思考は永遠に限られている、と見ることです。限りないものを思い考えたところで、それもやはり、限られたものから生まれるのです。そこで、思考は終わりに達します。脳は突然沈黙します。それは、事実を、真理を見るからです。そして、事実と真理は、時間を超えているのです。
空間と沈黙がるところにのみ、新しい何かが、時間である思考が触れ得ない何かが存在できるのです。それは、最も清らかなもの、最も聖なるものかもしれません。そこには、英知と慈悲と愛があります。生は分断化されていません。それは、全体としての、一体としての、プロセスであり、動きであり、生きることです。
完全に自分にとっての光であるためには、人は自由でなければなりません。自らにとっての光です。この光は他の誰からも与えられないし、みなさんも誰かのロウソクに灯をともすことはできません。自らにとっての光であるとはどういうことか、それを見出すための究明そのものが、瞑想の一つです。
瞑想において、みなさんは完全に独りで立たなければならないのです。みなさんにとっての光が、これが現われ得るのは、みなさんが自分とは何であるかを自分自身の中に究明する時だけです。それが自己への気づき、自分とは何かを知ることです。自分自身の性質、自分自身の思考、感情に気づき、知ること、その構造全体を見出すことです。他者が提供する記述ではなく、実際の「あるがまま」、自分とは何なのか、ということです。
自分自身を理解するためには、観察が不可欠です。その観察が起こり得るのは、「いま」だけです。それは「いま」を観察している過去の運動ではありません。自分では「いま」を観察していると思っていますが、「いま」の観察が起こり得るのは、過去である観察者がいない時だけです。現在と出会う過去の運動は、そこでは終わっているはずです。それが、「いま」です。
過去なしに観察することです。そこに何の選択もない観察を進行させるのです。それが何であれ、ただ観察する。その観察そのものの中で、それは花開き、根源的な変化を遂げます。背景のない観察そのものが、変化をもたらすのです。
どんな選択のなしに自分自身に気づき、いま実際に起こっていることを見るのは、自己の運動全体である「わたし」が花開くのを許すことです。それは、根源的な変容を遂げます。
私達は、あらゆる肉体的な経験に飽きた時、何か別の種類の経験を、スピリチュアルな経験を欲しがります。神がいるのかを見出すために、ビジョンを持つためです。ビジョンや経験を自分の背景に従って持つことでしょう。
なぜなら、精神がそのように条件づけられているからです。それに気付いて、経験の中に何がひそんでいるのかを見てください。
経験の中に、何がひそんでいるのでしょう。そこには、経験する経験者がいるはずです。経験者とは、彼が切望するすべて、告げられてきたすべて、彼の条件付けです。そして、彼は、神と呼ぶものを、あるいは涅槃を、その他何であれ、経験したいと欲します。そこで、彼は、それを経験するでしょう。しかし、「経験」という言葉は、認知を意味します。そして、認知とは、すでに知っている、ということです。従って、それは、新しい何かではありません。ですから、経験を求める精神は、本当は過去に生きているのです。従って、まったく新しい何かを、本源的なものを理解することは、決して出来ないのです。ですから、経験したいという衝動からの自由がなくてはならないのです。
「思考すること」だけがあるのだ、と見出すことーー思考する者と思考があって、思考する者が思考をコントロールしているわけではない、と見出すことです。あるのは、「思考すること」だけです。「思考すること」は、運動です。「思考すること」は、時間の中での、ここからあそこへの運動です。その時間は終わりに達し得るでしょうか。それが問題なのであって、どうやって「思考すること」を止めるか、ではありません。瞑想について、グルたちはコントロールを強調しますが、コントロールがあるところには、必ず努力があり、必ず葛藤があり、必ず抑圧があります。そして、抑圧があるところには、あらゆる種類の神経症的な振る舞いがあります。
思考は、それ自身を、コントロールする者とコントロールされるものに分断しました。しかし、あるのは「思考すること」だけです。コントロールする者もコントロールされるものもなく、「思考する」という行為があるだけです。「思考すること」は運動、時間の中の測定としての運動です。終わらせようと努力する時、「思考すること」は、依然として操作の中にあります。思考する者とは思考です。思考がなければ、思考する者もありません。
過去は運動ーー現在を通じて修正され、未来に向かう運動です。それが時間の運動です。過去は運動で、常に進行し、現在と出会いつつ動いています。「いま」とは、無運動です。動き得ないものが「いま」なのです。過去の運動である思考は、現在と完全に出会い、そこで終わるのです。
意識全体を見るとは、方向がないこと、つまり、何の動機もない、ということです。
意識をまるごと観察するには、動機も方向もあってはなりません。動機を持った瞬間、それはみなさんに方向を与え、みなさんは全体を見ることがまったく出来ないのです。何かをまるごと見ることが出来るのは、みなさんに方向がない時、そこから方向が出て来る中心がない時だけです。中心とは動機です。動機がないなら、中心はなく、従って、方向もありません。このすべてが、瞑想の一つです。
イメージは、思考が作り上げたものです。そして、思考は、物質的なプロセスであり、運動です。何の運動もない時、まったく本源的で、人類がまったく触れたことのない、思考のすべての運動が触れたことのない、何かがあるのでしょうか。それこそが、おそらくは、本源的で、それゆえに最も清らかなものなのでしょう。
時間を超えた何かが、思考が作り上げたものではない何かが、そして経験を超えることを切望する人間精神の幻想ではない何かがあるかどうかを、自分自身で学ぶことが重要です。そこには、何の葛藤もなく、大いなる感覚の全体性が、完全さが、まったき充足があるのです。
葛藤があるところには、必ず思考の活動があります。精神は、時間の結果であり、進化の結果です。精神は、大いなる知識の倉庫で、それは、非常に多くの影響や経験の結果であり、それらが思考の、まさしく核心です。
思考は、一時的なものです。思考は、変化され、修正され、拡大されることも出来ます。そして、思考は、いかなる思考のプロセスによっても知覚不能な何かに、本当に分け入ることは出来ません。
この次元のものではない、まったく違った次元の何かが、それが本当に存在するのかを見出したいと欲する瞬間に、精神は、それを発明し、幻想やビジョンの中に囚われてしまうでしょう。そのビジョン、その経験は、過去の投影であり、どれほど魅惑的で、どれほど偉大でも、依然として過去なのです。
全体性を、意識的な中身と同じく無意識的な中身も見ることが出来るのは、みなさんが沈黙して見ている時、観察者が完全に沈黙している時だけです。コントロールを試みる時、それはエネルギーの浪費です。
みなさんがエネルギーとともに、意識と無意識の中身全体を見つめる時、精神は空っぽになります。これは、私の幻想でもなければ、私が考えたことでもなく、私が達した結論でもありません。私が結論を出すなら、これが正しいと考えるなら、その時、私は幻想の中にいます。
瞑想とは、瞬間瞬間の真理を知覚することなのですーー究極の真理ではなく。瞬間瞬間に真理と虚偽を知覚する。中身が意識である、という真理を知覚するーーそれが真理です。これをどうすればいいか、私は知らない、という真理を見るーーそれが真理です。
私達の思考の構造すべてが測定をベースにしています。測定としての思考は、それ自身を超えて、計り得ない何かがあるかどうかを自ら発見しようと試みます。そのインチキさを見ることが真理です。真理とは、虚偽を見ることであり、虚偽とは、測り得ないものを、時間に属さないものを、意識の中身の空間にないものを、思考が探し求めることなのです。
人は、自分がまったく知らない何かを経験することに対して、あまりに強欲で、あまりに熱心です。今では、オカルトの追求があります。とてもエキサイティングだからです。真理を追究する者、生を全的に理解しようとする者、虚偽を虚偽として見て虚偽の中に真理を見る者ーーそういう人の精神にとって、オカルトに関する事柄はかなり明白で、そのような精神は、それらには触れないでしょう。
周縁を持たない空間があるのは、思考が静かな時だけです。そして、すべての測定を超えた何かがあるのか、あるいは、ないのかを知るのはーー知るのではなく、気づきですねーー気づくのは、完全に沈黙した精神だけです。
上記の内容を読んで、興味が湧いてきた人は、この本を買って作者の教えと思想に触れてみてください。
上記の文章は、あくまでも私が理解できた内容です。詳しくは各自で調べてください。
2019年7月20日に日本でレビュー済み
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