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形而上学入門 (平凡社ライブラリー) 文庫 – 1994/9/12
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- ISBN-104582760708
- ISBN-13978-4582760705
- 出版社平凡社
- 発売日1994/9/12
- 言語日本語
- 本の長さ446ページ
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
今世紀を通じてもっとも影響力をもった思想家ハイデッガーが生前みずから手を入れて単行本として公刊した書の改訳新版。存在概念を正面切って採りあげ、全西洋哲学史再構築の企図が大胆に提示される。
登録情報
- 出版社 : 平凡社 (1994/9/12)
- 発売日 : 1994/9/12
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 446ページ
- ISBN-10 : 4582760708
- ISBN-13 : 978-4582760705
- Amazon 売れ筋ランキング: - 189,228位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 189位ドイツ・オーストリアの思想
- - 331位西洋哲学入門
- - 44,932位文庫
- カスタマーレビュー:
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イメージ付きのレビュー

5 星
人類が持ちえた最高の「存在への感性」から「堕落した存在者」となった我々!
「史的唯物論」は時間というものの拘束から(物質と同様に)逃れられないという考え方ですが、その時間(史的)が何を進化させ、何を退化させるかが決定される論理ではない。存在の様態には時間が深く関わっていることは共通認識されても、そこから進化も現象するが破滅も現象する。ある主張が史的唯物論に寄りかかって論理展開しても、そこにはその主張を正当化するロジックは何物もない。ギリシャの一時期に現れた「存在を問う」その高度な質は、その後進化したのではなく、逆に退化した、という流れで書かれていると私は読んだ。人という類は自然の変容であり、これに人間は関与していない。生命が発現し、植物、動物と変容したのは全て自然が成し遂げた事だ。その動物の一つの類が意識場を持つように変容し、これが形而上場といえるものなのだ。自然を自らの存在の足場として成長してきた人が、意識場を持ち、形而上場も持つに至って内面の自覚や操作能力が発現し、形而上場を獲得したまさにその時、人類の出力としての行為は何処に行為の正当性の足場をもっているのか・・・この問は重たい。こここそが「考え処」で、我々に投げ掛けられているテーマであり、新たな存在者へと脱皮しえるかどうかの瀬戸際に我々は住んでいる。戦争、環境破壊、経済の暴走、核兵器、化学物質の氾濫・・・すべての問題にかかわる重要な指摘に満ちている、と読み解く著作だ。
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上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2022年2月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「史的唯物論」は時間というものの拘束から(物質と同様に)逃れられないという考え方ですが、その時間(史的)が何を進化させ、何を退化させるかが決定される論理ではない。存在の様態には時間が深く関わっていることは共通認識されても、そこから進化も現象するが破滅も現象する。ある主張が史的唯物論に寄りかかって論理展開しても、そこにはその主張を正当化するロジックは何物もない。
ギリシャの一時期に現れた「存在を問う」その高度な質は、その後進化したのではなく、逆に退化した、という流れで書かれていると私は読んだ。
人という類は自然の変容であり、これに人間は関与していない。生命が発現し、植物、動物と変容したのは全て自然が成し遂げた事だ。その動物の一つの類が意識場を持つように変容し、これが形而上場といえるものなのだ。
自然を自らの存在の足場として成長してきた人が、意識場を持ち、形而上場も持つに至って内面の自覚や操作能力が発現し、形而上場を獲得したまさにその時、人類の出力としての行為は何処に行為の正当性の足場をもっているのか・・・この問は重たい。
こここそが「考え処」で、我々に投げ掛けられているテーマであり、新たな存在者へと脱皮しえるかどうかの瀬戸際に我々は住んでいる。戦争、環境破壊、経済の暴走、核兵器、化学物質の氾濫・・・すべての問題にかかわる重要な指摘に満ちている、と読み解く著作だ。
ギリシャの一時期に現れた「存在を問う」その高度な質は、その後進化したのではなく、逆に退化した、という流れで書かれていると私は読んだ。
人という類は自然の変容であり、これに人間は関与していない。生命が発現し、植物、動物と変容したのは全て自然が成し遂げた事だ。その動物の一つの類が意識場を持つように変容し、これが形而上場といえるものなのだ。
自然を自らの存在の足場として成長してきた人が、意識場を持ち、形而上場も持つに至って内面の自覚や操作能力が発現し、形而上場を獲得したまさにその時、人類の出力としての行為は何処に行為の正当性の足場をもっているのか・・・この問は重たい。
こここそが「考え処」で、我々に投げ掛けられているテーマであり、新たな存在者へと脱皮しえるかどうかの瀬戸際に我々は住んでいる。戦争、環境破壊、経済の暴走、核兵器、化学物質の氾濫・・・すべての問題にかかわる重要な指摘に満ちている、と読み解く著作だ。

「史的唯物論」は時間というものの拘束から(物質と同様に)逃れられないという考え方ですが、その時間(史的)が何を進化させ、何を退化させるかが決定される論理ではない。存在の様態には時間が深く関わっていることは共通認識されても、そこから進化も現象するが破滅も現象する。ある主張が史的唯物論に寄りかかって論理展開しても、そこにはその主張を正当化するロジックは何物もない。
ギリシャの一時期に現れた「存在を問う」その高度な質は、その後進化したのではなく、逆に退化した、という流れで書かれていると私は読んだ。
人という類は自然の変容であり、これに人間は関与していない。生命が発現し、植物、動物と変容したのは全て自然が成し遂げた事だ。その動物の一つの類が意識場を持つように変容し、これが形而上場といえるものなのだ。
自然を自らの存在の足場として成長してきた人が、意識場を持ち、形而上場も持つに至って内面の自覚や操作能力が発現し、形而上場を獲得したまさにその時、人類の出力としての行為は何処に行為の正当性の足場をもっているのか・・・この問は重たい。
こここそが「考え処」で、我々に投げ掛けられているテーマであり、新たな存在者へと脱皮しえるかどうかの瀬戸際に我々は住んでいる。戦争、環境破壊、経済の暴走、核兵器、化学物質の氾濫・・・すべての問題にかかわる重要な指摘に満ちている、と読み解く著作だ。
ギリシャの一時期に現れた「存在を問う」その高度な質は、その後進化したのではなく、逆に退化した、という流れで書かれていると私は読んだ。
人という類は自然の変容であり、これに人間は関与していない。生命が発現し、植物、動物と変容したのは全て自然が成し遂げた事だ。その動物の一つの類が意識場を持つように変容し、これが形而上場といえるものなのだ。
自然を自らの存在の足場として成長してきた人が、意識場を持ち、形而上場も持つに至って内面の自覚や操作能力が発現し、形而上場を獲得したまさにその時、人類の出力としての行為は何処に行為の正当性の足場をもっているのか・・・この問は重たい。
こここそが「考え処」で、我々に投げ掛けられているテーマであり、新たな存在者へと脱皮しえるかどうかの瀬戸際に我々は住んでいる。戦争、環境破壊、経済の暴走、核兵器、化学物質の氾濫・・・すべての問題にかかわる重要な指摘に満ちている、と読み解く著作だ。
このレビューの画像

2020年10月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
付録の「シュピーゲル対話」は、ナチ党員であったハイデガーの言い訳として知られますが、
思想的にそれ以上に興味深いのは、後半での「哲学には何も期待できない、哲学はサイバネティクスにその座を譲る」といい、「哲学は終わった」と宣言していることです。
自分の生活世界での体験を基にして自分の頭で考えるという意味でのほんらいの恋知(哲学)は、西欧の形而上学的思考(強い一神教のキリスト教の思考を下敷きにしている)による存在論とは大きく異なる世界で、皆に必須の営みです。
それとは異なるハイデガー流の言語中心主義が敗北したのは、西欧的思考法から、世界的普遍的なフィロソフィー(正しい訳語は「恋知」)の始まりを告げるものと思います。21世紀は、哲学から恋知へです。一神教的絶対という観念の呪縛を解き、また、日本の単なる「事実学」の積み上げ(受験知=東大病)を超えて、生活世界から健康的に思考する意味論・本質論の世界を拓くことは、心躍る営みです。
ハイデガーの敗北宣言は、そのために必要で、恋知を開始するためにプラスします。
思想的にそれ以上に興味深いのは、後半での「哲学には何も期待できない、哲学はサイバネティクスにその座を譲る」といい、「哲学は終わった」と宣言していることです。
自分の生活世界での体験を基にして自分の頭で考えるという意味でのほんらいの恋知(哲学)は、西欧の形而上学的思考(強い一神教のキリスト教の思考を下敷きにしている)による存在論とは大きく異なる世界で、皆に必須の営みです。
それとは異なるハイデガー流の言語中心主義が敗北したのは、西欧的思考法から、世界的普遍的なフィロソフィー(正しい訳語は「恋知」)の始まりを告げるものと思います。21世紀は、哲学から恋知へです。一神教的絶対という観念の呪縛を解き、また、日本の単なる「事実学」の積み上げ(受験知=東大病)を超えて、生活世界から健康的に思考する意味論・本質論の世界を拓くことは、心躍る営みです。
ハイデガーの敗北宣言は、そのために必要で、恋知を開始するためにプラスします。
2017年4月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この「形而上学入門」は、(後期)ハイデガー哲学の本質が濃縮された本でありながら、講義録であるため、分かり易く、中に入ってい
きやすいです。
ハイデガーの存在論は、そもそも存在とは何か、を問うものですが、この本の冒頭で、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むし
ろ無があるのではないか」という問いを投げかける。
そして、存在することは、どういうことであるかをつかむために、プラトン以前のギリシア哲学(パルメニデス、ヘラクレイトス)を解
読し、ギリシア語を分析することにより、存在へと近づいていく。
形而上学(メタフィジック)とは、メタ(超越)、フィジック(自然)の意味であり、自然を越えて、自然を対象化することによって成立して
いる、とハイデガーは言う。けれども、ハイデガーは、人間が自然を対象化し始め、学問が、対象を分析し、知を集積していっても、
存在すること、「存在」は、理解出来ない、と言う。なぜなら、自然を対象化(表象= 再 現前化 vor stellen )するという一つの思考の
枠内で同じことを繰り返しているだけだからだ、と。
そこで、ハイデッガーは、プラトン以前のギリシアの元初へと向かって行く。
・「physis」
ギリシア語の「physis」とは、自ずから発現するもの、自己を開示しつつ展開することを意味するという。また、physis(=存在)の性質
は、隠蔽性であり、存在は、存在者として現れ出る(現象する)ことにより、隠蔽性から離脱する。存在者は、非隠蔽性 aletheiaへと
自己を置く。
・「logos」
logosとは、元々の意味は、集める、ということである、とハイデガーは言う。
ロゴスは、集めること、支配することであり、思考である。そして、ロゴスは集約するものとして現成する。そしてまた、logosは、
支配するという性格を持っている。せめぎあう抗争的なものであり、集めつつ集められている集約態である。存在者の、自己の中に立
つ集約態、つまり存在である、と。
・noein
また、パルメニデスの「思考と存在とは同じである」という言葉から、noein(思考)というギリシア語の分析を行う。noeinとは、会得
をいい、引き受けること、現象するものを引き受け、自分の方へ向かって来させることを意味する。つまり、存在と思考とが対抗して
争う意味においては、相関的なものとして同じだからである。そして、存在が支配しているから、会得もまた生起する、と。そしてま
た会得は出来事である、と。
・人間と存在
ハイデガーは、ギリシア悲劇の一節を取り上げ、人間を人間たらしめているものと、原初についての分析を行う。
「元初は最も不気味なもの、最も強力なものである。後にくるものは、展開ではなくて、単なる拡張としての浅薄化である。」
ただ、人間は、元初から離れていく。それは、人間が、言葉、理解、気分などといった人間を人間たらしめているものを、人間の方が
意のままに左右するものであるかのように思いこみ、暴力-行為性を拡大していくからである。ただ、この状態では、人間は、
自然を支配しているのではなく、自然とせめぎ合ってある。
「現存在しないこと、これが存在に対する最高の勝利である。現存在とは、屈服と存在に対する暴力-行為の再爆発との絶え間
なき苦境であり、しかもそれは、存在の全能が現存在に暴力を加えて、現存在をして存在が現象するための居所たらしめ、現存在をこ
のような居所として囲み支配し、貫き支配し、そうすることによってそれを存在の中で保蔵しておくという形においてである。」
・「idea」 の登場
プラトン哲学の登場により、physisとしての存在が、ideaとしての存在と化す。ideaという語は、見えるものにおける見られたもの、
或るものが提示している有様を意味する。つまり、eidos、相である。
ただ、ここから顛倒が起きる。physisとしての存在を、ideaとして捉えるということは、発現する現われとしての存在の本質からの必
然的な結果であったが、ideaが存在の唯一の決定的な解釈になり上がる。すると、physis は、その元々持っていた意味を剥奪され、
対象化されていってしまう。
ハイデッガーは、言葉が元々もっていた意味を分析し、元初の状態に近づき、自然が表象される以前のあり方を探る。そこでは、人間
を人間たらしめる条件が提示され、人間と自然がせめぎ合っていた時代、そして人間が人間として成立する以前の、自然の元初が描か
れようとする。
そもそも、なぜ宇宙が存在するのか、自然が存在するのか、大地が存在するのか、ということは説明し得ない。自然を対象化し、表象
し、科学によって分析したところで、存在そのものは分からない。だから、人間が自然を表象する以前の状態、プラトン以前の人と自
然のあり方から、存在を解明するしかない、とハイデッガーは言っているように思える。当然、ハイデッガーは、哲学者であり、単純
に人に自然に帰れ、原始的な生活に還れと言っている訳ではなく、哲学の探求を通じて、存在の性質を描き出そうとするのだが、その
試みは壮大で、未だかつて誰もなしえなかった目も眩むような世界へと読者を誘う。
ハイデッガーが20世紀最大の哲学者と言われる理由を、実感出来る作品です。
きやすいです。
ハイデガーの存在論は、そもそも存在とは何か、を問うものですが、この本の冒頭で、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むし
ろ無があるのではないか」という問いを投げかける。
そして、存在することは、どういうことであるかをつかむために、プラトン以前のギリシア哲学(パルメニデス、ヘラクレイトス)を解
読し、ギリシア語を分析することにより、存在へと近づいていく。
形而上学(メタフィジック)とは、メタ(超越)、フィジック(自然)の意味であり、自然を越えて、自然を対象化することによって成立して
いる、とハイデガーは言う。けれども、ハイデガーは、人間が自然を対象化し始め、学問が、対象を分析し、知を集積していっても、
存在すること、「存在」は、理解出来ない、と言う。なぜなら、自然を対象化(表象= 再 現前化 vor stellen )するという一つの思考の
枠内で同じことを繰り返しているだけだからだ、と。
そこで、ハイデッガーは、プラトン以前のギリシアの元初へと向かって行く。
・「physis」
ギリシア語の「physis」とは、自ずから発現するもの、自己を開示しつつ展開することを意味するという。また、physis(=存在)の性質
は、隠蔽性であり、存在は、存在者として現れ出る(現象する)ことにより、隠蔽性から離脱する。存在者は、非隠蔽性 aletheiaへと
自己を置く。
・「logos」
logosとは、元々の意味は、集める、ということである、とハイデガーは言う。
ロゴスは、集めること、支配することであり、思考である。そして、ロゴスは集約するものとして現成する。そしてまた、logosは、
支配するという性格を持っている。せめぎあう抗争的なものであり、集めつつ集められている集約態である。存在者の、自己の中に立
つ集約態、つまり存在である、と。
・noein
また、パルメニデスの「思考と存在とは同じである」という言葉から、noein(思考)というギリシア語の分析を行う。noeinとは、会得
をいい、引き受けること、現象するものを引き受け、自分の方へ向かって来させることを意味する。つまり、存在と思考とが対抗して
争う意味においては、相関的なものとして同じだからである。そして、存在が支配しているから、会得もまた生起する、と。そしてま
た会得は出来事である、と。
・人間と存在
ハイデガーは、ギリシア悲劇の一節を取り上げ、人間を人間たらしめているものと、原初についての分析を行う。
「元初は最も不気味なもの、最も強力なものである。後にくるものは、展開ではなくて、単なる拡張としての浅薄化である。」
ただ、人間は、元初から離れていく。それは、人間が、言葉、理解、気分などといった人間を人間たらしめているものを、人間の方が
意のままに左右するものであるかのように思いこみ、暴力-行為性を拡大していくからである。ただ、この状態では、人間は、
自然を支配しているのではなく、自然とせめぎ合ってある。
「現存在しないこと、これが存在に対する最高の勝利である。現存在とは、屈服と存在に対する暴力-行為の再爆発との絶え間
なき苦境であり、しかもそれは、存在の全能が現存在に暴力を加えて、現存在をして存在が現象するための居所たらしめ、現存在をこ
のような居所として囲み支配し、貫き支配し、そうすることによってそれを存在の中で保蔵しておくという形においてである。」
・「idea」 の登場
プラトン哲学の登場により、physisとしての存在が、ideaとしての存在と化す。ideaという語は、見えるものにおける見られたもの、
或るものが提示している有様を意味する。つまり、eidos、相である。
ただ、ここから顛倒が起きる。physisとしての存在を、ideaとして捉えるということは、発現する現われとしての存在の本質からの必
然的な結果であったが、ideaが存在の唯一の決定的な解釈になり上がる。すると、physis は、その元々持っていた意味を剥奪され、
対象化されていってしまう。
ハイデッガーは、言葉が元々もっていた意味を分析し、元初の状態に近づき、自然が表象される以前のあり方を探る。そこでは、人間
を人間たらしめる条件が提示され、人間と自然がせめぎ合っていた時代、そして人間が人間として成立する以前の、自然の元初が描か
れようとする。
そもそも、なぜ宇宙が存在するのか、自然が存在するのか、大地が存在するのか、ということは説明し得ない。自然を対象化し、表象
し、科学によって分析したところで、存在そのものは分からない。だから、人間が自然を表象する以前の状態、プラトン以前の人と自
然のあり方から、存在を解明するしかない、とハイデッガーは言っているように思える。当然、ハイデッガーは、哲学者であり、単純
に人に自然に帰れ、原始的な生活に還れと言っている訳ではなく、哲学の探求を通じて、存在の性質を描き出そうとするのだが、その
試みは壮大で、未だかつて誰もなしえなかった目も眩むような世界へと読者を誘う。
ハイデッガーが20世紀最大の哲学者と言われる理由を、実感出来る作品です。
2020年9月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は、タイトルが「形而上学入門」となっているが、実際の内容は、「ハイデッガー 存在論入門」であると断定しても差し支え無いと思われる。何故なら、本書で一貫して問われているのは、プラトンの「イデア説」でもアリストテレスの「四原因説」や「形相と質料」でも無く、「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?」だからである。具体的には、「存在者」を「存在」たらしめている「本質」とは何であるか、について、ハイデッガー は、様々な角度から厳密に考察している。そして、彼は、古代ギリシャの偉大な詩人であり哲学者でもあるヘラクレイトスやパルメニデスの文章等を頼りに、「存在者」の極めて重要な属性として、「非隠蔽性」を挙げて、更なる「存在の探求」を試みている。
本書は、ごく簡潔には、以上の通りであるから、形而上学について本格的に知りたい読者の要望には、あまり答えていない。もし、読者の方々が、「形而上学一般」について学びたいならば、アリストテレス著『形而上学』(岩波文庫)にチャレンジすべきである。但し、この書物の内容が、相当難解である事を肝に命じて欲しい。もし時間があるならば、いきなり本書に挑戦して挫折に終わるのでは無く、和書や洋書の「アリストテレス哲学入門書」をじっくり読んでから、本書を思考力をフル動員して読む事をお勧めする。ちなみに、本レビューの対象書である、ハイデッガー の『形而上学入門』は、彼の代表作である『存在と時間(全4冊)』(岩波文庫)を理解する上で、大いに貢献するものである事を付け加えておく。
ただ、ハイデッガー の著作は、ドイツ語に堪能な読者は、日本語訳よりも、ドイツ語のテクストを読んだ方が良いはずである。何故と言うに、彼の多くの著作は、「ドイツ語から作った造語」に満ちていて、ニュアンスを的確に示す日本語が、なかなか無くて、「翻訳者泣かせ」だからである。例えば、”Sein-in-der-Welt”(世界ー内ー存在)と言った具合である。もしかしたら、上記のアリストテレス哲学理解と同様に、ハイデッガー 哲学を理解する為に、和書や洋書の「ハイデッガー 哲学入門書」を読んで、頭の柔軟体操をしてから、ハイデッガー の著書に挑んでみた方が後悔しないと思われる。要は、ハイデッガー哲学を理解する上で肝心なのは、彼の著作に出て来る「キーワードを押さえる」事が一番では無いだろうか?
大学や大学院で、哲学を専攻した経験の無い方々は、上述の「安全策」を取ってから、ハイデッガー の諸著作と「知的格闘」をして下さる様、私は希望する。
本書は、ごく簡潔には、以上の通りであるから、形而上学について本格的に知りたい読者の要望には、あまり答えていない。もし、読者の方々が、「形而上学一般」について学びたいならば、アリストテレス著『形而上学』(岩波文庫)にチャレンジすべきである。但し、この書物の内容が、相当難解である事を肝に命じて欲しい。もし時間があるならば、いきなり本書に挑戦して挫折に終わるのでは無く、和書や洋書の「アリストテレス哲学入門書」をじっくり読んでから、本書を思考力をフル動員して読む事をお勧めする。ちなみに、本レビューの対象書である、ハイデッガー の『形而上学入門』は、彼の代表作である『存在と時間(全4冊)』(岩波文庫)を理解する上で、大いに貢献するものである事を付け加えておく。
ただ、ハイデッガー の著作は、ドイツ語に堪能な読者は、日本語訳よりも、ドイツ語のテクストを読んだ方が良いはずである。何故と言うに、彼の多くの著作は、「ドイツ語から作った造語」に満ちていて、ニュアンスを的確に示す日本語が、なかなか無くて、「翻訳者泣かせ」だからである。例えば、”Sein-in-der-Welt”(世界ー内ー存在)と言った具合である。もしかしたら、上記のアリストテレス哲学理解と同様に、ハイデッガー 哲学を理解する為に、和書や洋書の「ハイデッガー 哲学入門書」を読んで、頭の柔軟体操をしてから、ハイデッガー の著書に挑んでみた方が後悔しないと思われる。要は、ハイデッガー哲学を理解する上で肝心なのは、彼の著作に出て来る「キーワードを押さえる」事が一番では無いだろうか?
大学や大学院で、哲学を専攻した経験の無い方々は、上述の「安全策」を取ってから、ハイデッガー の諸著作と「知的格闘」をして下さる様、私は希望する。
2019年12月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
難しすぎた。
2021年9月18日に日本でレビュー済み
この本を初めて読んだとき、それはもう衝撃でした。
私は別に学者ではないので気の利いたことは言えないのですが。
「確かに哲学を学んでもはじまらないというのはもっともだけれども、結局哲学の方もこんなわれわれとかかわっていてもはじまらないのではなかろうか」
この文章を見たとき、ハッとしました。これは一個人の浅い理解かもしれませんが、ハイデガーという人はデカルト以来の近代合理主義の枠内で物事を考えていないのだ…もっともっと広い視野を持って謎に挑んでいる。
現代人…特に俗物に近ければ近い人間ほど確固とした自己、自我というものがあってこの自己が世界に対してあらゆる感情を抱き、判断を下している(なんなら自分が世界を作っているというカントの哲学などを悪用する非常に浅い考えを抱く人がいる)と思っている。
ハイデガーという人はそういう枠内にはいません、「主観と客観」という概念は近代になってはじめて出てきたものでしかもその軋轢はいろいろなところで出ています。この枠内から出れないのは考える能力のない大衆など俗物だけです。
こう考えればなるほど、哲学(特にハイデガー以降の哲学)が一見、頓珍漢な用語を使っているように見えるのは至極、当然です。言葉というものはそれまでの考えを反映したものですから、それを使ってはまた近代合理主義の枠内に収まってしまうことになります。哲学を非難するのに「意味不明な言葉を使って自分に酔っているだけ」といういかにも俗物チックな意見を述べる人がいますが、それはその人が知らぬ間に近代の考えにどっぷり浸かり、その考えに埋もれていることを反省しない、しようともしない、する能力がない証拠です。
以上、素人の意見でした。ハイデガーは生涯を賭けて学んでいきたいと思っています。
それとこの本は哲学書の中ではまだ読みやすい方です。
他のハイデガーの著作は鬼レベルに意味不明なのもあるので、これでダメならほとんどの哲学書は無理です。
私は別に学者ではないので気の利いたことは言えないのですが。
「確かに哲学を学んでもはじまらないというのはもっともだけれども、結局哲学の方もこんなわれわれとかかわっていてもはじまらないのではなかろうか」
この文章を見たとき、ハッとしました。これは一個人の浅い理解かもしれませんが、ハイデガーという人はデカルト以来の近代合理主義の枠内で物事を考えていないのだ…もっともっと広い視野を持って謎に挑んでいる。
現代人…特に俗物に近ければ近い人間ほど確固とした自己、自我というものがあってこの自己が世界に対してあらゆる感情を抱き、判断を下している(なんなら自分が世界を作っているというカントの哲学などを悪用する非常に浅い考えを抱く人がいる)と思っている。
ハイデガーという人はそういう枠内にはいません、「主観と客観」という概念は近代になってはじめて出てきたものでしかもその軋轢はいろいろなところで出ています。この枠内から出れないのは考える能力のない大衆など俗物だけです。
こう考えればなるほど、哲学(特にハイデガー以降の哲学)が一見、頓珍漢な用語を使っているように見えるのは至極、当然です。言葉というものはそれまでの考えを反映したものですから、それを使ってはまた近代合理主義の枠内に収まってしまうことになります。哲学を非難するのに「意味不明な言葉を使って自分に酔っているだけ」といういかにも俗物チックな意見を述べる人がいますが、それはその人が知らぬ間に近代の考えにどっぷり浸かり、その考えに埋もれていることを反省しない、しようともしない、する能力がない証拠です。
以上、素人の意見でした。ハイデガーは生涯を賭けて学んでいきたいと思っています。
それとこの本は哲学書の中ではまだ読みやすい方です。
他のハイデガーの著作は鬼レベルに意味不明なのもあるので、これでダメならほとんどの哲学書は無理です。